第11話 美少女後輩マネージャーのお尻に押し付けてしまった

 冷蔵庫を開け、水のペットボトルを取り出す。スーパーで買っておいた、二リットルの天然水だ。


白雪しらゆきさんもなんか飲む?」

「大丈夫です。今朝買ったやつがまだ残っているので」

「了解ー」


 自分の分だけコップによそり、たくみは口をつけつつリビングに戻った。


「先輩って、何気に先輩力高いですよね」

「そう? さっき愛沢あいざわ先輩には後輩力高いって言われたんだけど」

「スーパーで会ったんですか?」

「うん」

「そして一緒に買い物をしたと」

「うん」

「そうですか……」


 香奈かながずずっと鼻を鳴らした。


「白雪さん?」

「ひどいです先輩っ……私というものがありながら、玲子れいこ先輩と買い物デートするなんて……!」。


 ただのくだらない茶番だとわかったので、巧は彼女を無視してストレッチを始めた。


「……先輩、本気でひどくないですか?」

「そんなことないよ」

「ありますぅ」


 香奈は不満げに口を尖らせた後、立った状態で手を地面に触れさせ、足の後ろ側を伸ばしている巧の背中に触れた。


「お手伝いしますよ」

「本当? じゃあお願いしようかな」

「任せてくだされ……こんな感じですか?」


 香奈が体重をかけてくる。


「いい感じ。もうちょい強くしてくれる?」


 すでに巧の手のひらはべったり地面についている。


「了解です……相変わらず柔らかいですねぇ」

「まあ、風呂後のストレッチは欠かしてないからね」

「さすがですね……それで先輩。今日、どうだったんですか?」


 香奈が背中を押したまま、尋ねてきた。

 表情は見えないが、声色的に真剣であることはわかった。


「結構うまくいったよ。監督にも褒めてもらえたし」

川畑かわばた監督に? すごいじゃないですかっ!」


 香奈が巧の前に回り込み、手のひらを向けてくる。

 ハイタッチを求めているのだとわかった。


 巧も手を差し出すと、香奈の手がフルスイングされた。

 そのあまりの勢いに、巧は思わず手を避けてしまった。


 理性がストップをかけ、完全に手を退けることはしなかったため、二人の手のひらは一応は接触した。

 しかし、手のひらの端と端がぶつかった程度では、香奈の勢いは止まらなかった。


「おわっ⁉︎」

「白雪さんっ」


 前につんのめる香奈を、巧は慌てて抱き止めた。

 シトラスの爽やかな香りが、ほのかに鼻腔びこうをくすぐる。

 香水なのかシャンプーなのかはわからないが、そんなことは巧にとってはどうでもいいことだった。


 夏だからだろう。香奈はダボっとした緩い服を着ていた。

 当然、前傾姿勢になれば首元から中が覗けるようになるため、背後から抱き止めていた巧の視界には、純白の下着がばっちり映っていた。

 そしてさらに運の悪いことに、真後ろから抱き止めたために、巧のその部分がもろに香奈のお尻に当たってしまっていた。


 彼女を抱き起こした後、巧は慌てて体を離した。

 幸い、焦燥が勝ったために、彼のソレはまだウォーミングアップの初期の段階で済んでいる。


「白雪さん、大丈夫? ごめん、避けちゃって」

「い、いえ、私のほうこそ勢い余っちゃってすみません……」


 香奈の顔は真っ赤だ。

 当然、自らのお尻に巧のタクミが触れていたことはわかっているのだろう。


(ど、どうしよう……気まずい。でも、謝られても逆に嫌だよね、こういうときって)


 悩み抜いた巧の導き出した答えは、


「……とりあえず、普通にハイタッチする?」

「そ、そうしましょう!」


 香奈が大袈裟に同意した。

 今度はお互い、至って普通の速度で手のひらを合わせる。


「さっきは何であんなに助走つけたの?」

「いえ、お恥ずかしながらテンションが上がってしまって……でも、本当によかったですね。うまくいって」

「うん、ありがとう。それもこれも、白雪さんのおかげだよ」

「大袈裟ですよ」


 香奈が頬を緩めた。


「もう一度前を向いたのも、自分なりのサッカーを構築したのも、全部先輩自身の力じゃないですか」

「でも、そのきっかけをくれたのは白雪さんだよ。飛行機が飛ぶ時に一番エネルギーを使うように、人間も一歩を踏み出すのが一番難しいと思う。だから、その初めの一歩を踏み出せるように背中を押してくれた白雪さんには、感謝してもし足りないよ。本当にありがとね」

「っ……」


 香奈が息を呑んだ。

 頬が朱色に染まっていく。


「白雪さん?」

「……あの、感謝してもらえるのはすごく嬉しいでんですけど……その、何というか、すごく恥ずかしいですっ……!」


 そう言っている間にも、香奈の赤みはどんどん増していく。


「そっか……ごめん。またびしょハラしちゃったね」

「えっ……? そ、そうですよっ、びしょハラですっ!」

「忘れてたでしょ」


 びしょハラとは、香奈が今朝生み出した造語で、美少女ハラスメントの略だ。

 美少女をはずかしめて快感を得ようとする行為だと得意げに解説していたが、今の反応の間を見るに、頭からすっぽ抜けていたようだ。


「まさかまさか」


 香奈が胸を張った。


「マタハラを追いやるほどのハラスメントですよ? 忘れるわけないじゃないですか」


 全くもう〜、と巧の背中を叩いてくる。

 調子はすっかり元通りのようだ。


「ま、そういうことにしておいてあげるよ」

「むぅ、相変わらずSですね。というか先輩、今さらなんですけどマタハラってなんですか? 相手の股間を触ることですか?」

「それはセクハラの一種でしょ。マタニティハラスメント。妊娠・出産・育児に関して、女性労働者が職場で受ける不当な扱いや嫌がらせのことだよ」

「なるほど。じゃあもし、私が妊娠しているときに先輩に重い荷物を無理やり持たされたら、マタハラですか?」

「そういうことだけど、例えが良くないね。学生のうちはちゃんと避妊しなよ」

「……先輩、それセクハラになりません?」

「……たしかに。ごめん。今のは不適切だった」


 巧は慌てて頭を下げた。

 いくら香奈が言い出したことで、気を抜いていたとはいえ、今の発言はよろしくなかった。


「もう、先輩は仕方のない人ですねぇ。特別に香奈様の寛大なお心でお許ししてあげますよ……罰として、一緒にゲームしてくれたら」


 上から目線の物言いの割に、香奈は様子をうかがうようにおずおずと上目遣いで見てくる。


(……まあ、いっか)


 本当は宿題でもやろうと思っていたのだが、身から出たサビだ。

 それに、巧とて香奈とゲームをしたくないわけではない。


「わかった。甘んじて受け入れるよ」

「本当ですか⁉︎ よっしゃ!」


 香奈がパッと顔を輝かせた。

 花の咲くようなという表現がピッタリの笑顔だ。


(よっぽどゲームがしたかったんだろうな)


 巧は全力で鬼ごっこをしている幼稚園児を見たときのような、微笑ましい気持ちになった。


「スマホでやる?」

「いえ、せっかくなのでアレでやりましょう!」


 香奈がプレーステーション——通称プレステを指差した。


「先輩、早く準備してくださいっ」

「わかったわかった」


 幼子のように早く早く、と急かしてくる香奈に苦笑しつつ、巧はプレステを起動させた。

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