第31話 それぞれの事情
目が覚めると、中年の男が顔を覗き込んできていた。
「おう、おう、だいじょうぶか、お嬢ちゃん」
年のころは四十そこそこか。
赤黒く日焼けした、陽気な顔立ちである。
伊平とおなじく、朱色の内衣に白い狩衣。
「目が覚めたようですな。状況は
あたりを見回す。さきほどの姫武者は憮然としてこちらをにらんでいる。
「織路家の姫でしたか。さて、都での弓の携行は大罪。ちゃんと櫃に入れて持ち運ぶのが法です」
もっとも、たいして守られちゃいませんがね、と肩をすくめる。
「そして、袖の下も、罪です。もちろんこっちも守られちゃいないが。ただ、どちらも重罪ではないし、織路家御当主どのの位階を鑑みても、さらに減ぜられるところでしょう。 以後お気を付けいただけるということであれば、この場は、この
名乗りは大きな意味を持つ。
正式な名乗り、すなわち家名(日出洲)+呼び名(四郎)+官職名(大尉)+名前(宗頼)での言明には、相応の重みが伴う、ということだ。
「織路氏にして
「な。
宗頼と名乗った男は、
◇
「いやー、しかし災難でしたな」
もめごとのあった東市をはなれ、道永の住まう一条は土御門大路の御殿についた。
なんとなく公の場では話す気になれなかっただろうか、門をくぐるやいなや十一郎が口を開く。
「やっぱりね、碌なもんじゃないですよ、仕事熱心な検非違使なんてのは。だいいち、なんだってあんなところを判官なんかがウロウロしてるんだ」
「なにあいつ! 頭にくる! というか、十一郎も十一郎だよ。弓を携行しちゃダメとか、事前に教えておいてよ……」
端的に言って、三人はムカついていた。
信乃は分かりやすくあらぶっているし、光乃は極度に無口になっていた。
「いやいやいや、普段は大丈夫なんでございますよ。弓馬は武者の命、ってことでみんな携行してますし、おとがめなしです。たまーに、五年に一回くらい注意されますけど、大体袖の下を渡すか、家名をちらつかせれば問題ないんですわ」
いうなれば時速80km制限の高速道路で90だすとか、それくらいのものなのであって、目くじら立てる方がおかしい、というのが取り締まられる側の感覚なのであった。
「それにしても、日出洲家の嫡孫があの生真面目っぷりでは、大丈夫なのかという風に思いますねえ。あと、あの
「そうだね。なんとなくだけど、
そうこう話しているうちに、すたすたすた、と道永の下人だろうか、少し上等な水干をきた少年が駆け寄ってくる。
「おう! ジロ坊!」
「十一郎殿! 来るなら先に使いをよこしてくださいよ、もう……」
ジロ坊と呼ばれた少年はあきらめたような面持ちであるから、これは日常茶飯のことなのだろう。
「わるいわるい! ちょっと立て込んでてなあ。次からは気を付けよう。ささ、
偉い人の場合は直接名前を呼ぶのが恐れ多いので、だいたい住んでいる場所もしくは役職名で呼ぶ。「部長」とか「社長」と呼ぶのと同じである。
土御門殿と呼んだ場合は、
「運がいいですね。ちょうどいらっしゃいますよ。今晩ここで左大臣殿とご会食を行う予定でしてね、それで忙しくはしていますが」
「殿はいつも忙しいだろう。ちょいと、取り次いでもらえないか」
「はいはい。いまはご会食に向けたお打合せ中のはずですが、もうすぐ終わるはずです。少々ここでお待ちを」
会食、といっても単に酒を飲み飯をくうというのではなく、実質上は会議、会談の類である。いろいろな段取りや調整をしているのである。
「いやー、それにしても立派な御殿だねえ」
「大きさは赤名荘のお館と大差ないですが、やっぱり洗練されて豪華ですからなあ。うちの家もずいぶん富裕ですけどね、大大貴族たる九条家のご子息と、織路家ではやはり格が違いますわ」
建築についての専門性は誰一人持ち合わせていないけれども、格段に上質だということはなんとなくわかる。
「しかも道永卿は、若手貴族の出世頭ですからなあ」
家柄がいいだけではない。なんといってもずばぬけて頭がいいのだ、という。
一を聞き十を知るというだけではない、一を話して十を動かす、ともっぱら評判で、外つ国の古の賢者をも上回るのではないか。
また、豪放でさっぱりとした人柄で、ここ一番というときの胆力には、そのへんの武者以上のものがあるらしい。
「そんな道永卿のご見識、ご気性の表れとして、こんなことが前にあったんだとか」
道永卿の母親だか姉だかが、呪いを受けて倒れ臥せってしまった時のこと。
床板が赤く染まるほどの吐血、お召し物が絞れそうなほどの汗、湯が沸きそうなほどの高熱に、呪いを受けた証である黒い斑点。
周囲の人間が上から下まで大騒ぎ、鍋だか鐘だかがガンガン鳴って、馬は慌てて人を乗せずに小路へ飛び出す始末。
陰陽師やら法師やらを呼びに行ったんだか、行ってないんだか、それもわからないような大混乱だったといいます。
そんな中へさして、まだ年若かった道永卿だけは――といってもその時は”卿”と呼ばれるほどの位階ではなかったでしょうが――落ち着いた様子だったといいます。
通常、呪いなんてものがあったら近寄れませんわな。
移ってしまうかもしれないですからな。
みな己の命は惜しいものです。
ところが道永卿は違った。つかつかつか、と母君のもとへ歩み寄り、なんと抱き上げた。
そして、おんみずから五壇の法を執り行い、もってして、たちどころにその呪いをはねかえしてしまったのだといいます。
「そのとびぬけた見識と、豪胆なご気性がゆえに、左大臣であられる
さて、三位、というのはなにか。
ナンバースリーという意味ではなくて、貴族階級のうち、上から三番目の階級という意味である。
一位~三位は『公卿』とよばれ、別格扱いされる。国中見回しても20人くらいしかいない。
四位、五位は『
職務等級は子供や孫に引き継げるものではないので、公卿の息子だからといって生まれながらにして公卿ということはない。
最初は皆、低い位階からスタートしてだんだん出世していく。(※スタート地点は生まれによって異なる。偉いやつの子供は有利。)
だが生まれさえよければ三位以上の公卿になれるかというと、そうではない。
そのうちバカばかりになって国が回らなくなるのが自明だからである。
しかしながら、優秀なだけで卑賎なものが出世できるかというと、それもちがう。
血筋が確かでなければ人は言うことを聞かないからだ。
したがって
優秀×高貴な生まれ→公卿になれる。
優秀×通貴な生まれ→通貴になれる。優秀の度合いによっては公卿にも……。
と、優秀であれば生まれにふさわしい位階を維持、もしくは上昇を果たせる一方で、生まれが高貴でも、無能であれば容赦なく中級貴族に落とされる仕組みになっている。
そして、その位階と関係する形で官職(ポスト)が存在する。
上は左大臣とか太政大臣(≒首相)のような大臣格のポストから、下は州府の
いま、道永は近衛府の次官の役職と天皇の秘書官(≒社長室所属の社員)の役職を兼務している。
近衛府というのはその名の通りミカドの身の安全をまもるための部門である。
といっても、道永自身が弓を引き、太刀をふるうといった武者の仕事をすることはない。
あくまでも管理職として様々な裁可や書類仕事をこなしているのである。
「おや、あなたさまは」
十一郎の説明にふむふむ、とうなづいていると、後ろから声が聞こえた。
「たしか織路の氏の姫君ではなかったですかな。まえに赤名荘でおみかけしたことがございます」
「あー、たしかあなたは……」
まえにモレイと話し込んでいた、砂金売りの男であった。
あのときは旅装束によごれていたが、いまはずいぶんとこざっぱりとした服装である。
「おう、吉太か!」
「十一郎殿もずいぶんぶりで。姫様、わたくしは金を商っております吉太、ともうします。織路家だけでのうて、土御門殿のところでも商いさしてもろてましてね。いやいや、そんなことよりもこの度はまことにお悔やみ申し上げます。モレイ殿のことで……」
「お心遣い、誠に痛み入ります。ああ、申し遅れましたが、わたくしは光乃と申します。こちらが信乃、妹です」
「光乃様に信乃様ですね。以後お見知りおきを」
「吉太さんはここでも金を売ってるの?」
信乃が興味に目を輝かせる。
「はは、金売りとは名乗っておりますがね、およそ売ることのできるものはなんでもあきなっている、いうたら何でも屋なんでございますよ。今日はね、左大臣殿との大変に重要な御会食があるとかで、その用立てをしておったのですわ。特別に育てた鯉だとか、このためにあつらえた器だとか、そうしたものですねぇ」
吉太は光乃たちから目線を外して手をあげた。
「ああ、どうもどうも」
かるくいななきながらこちらに引かれてくる馬は、吉太のものらしい。
三頭ほど連なっている。荷運び用の馬であろうか。
ちょうどジロ坊も光乃たちを呼びに来たようだ。
「では、これにて。またお会いすることもありましょう。今後ともごひいきに」
◇
道永の御殿は、いわゆるところの寝殿造、すなわち複数の屋敷を渡り廊下でつないだような構造をしている。
身分の高さや財力によりその規模は様々だが、道永の御殿の場合は母屋を中心に、東、西、北のそれぞれに屋敷が配置されている。
合計四つの屋敷があるというのはかなり大きい部類である。
光乃と信乃の通された母屋の
信乃がたっぷり泳げそうなほどの池に、川までついて、時期になれば梅や桜が咲きほこるのであろう。
「悪くない庭だろう」
呆然として庭を眺めていた二人は驚き振り返り、そして平伏した。
涼し気な
道永であった。
道永は、どさり、と座り込んだ。
猫が「なああ」とすり寄ってきた。
「君らの父君、
絵巻物語でみるような、貴公子然とした容貌では決してない。
目はぎょろりとしていて鼻も少しばかり大きい。
顔の肌は大変若々しい。
全体として生気のほとばしりを感じる風貌である。
猫を撫でるその手だけは、高貴な身分というわりには少しばかり荒れているようにも見えた。
一通りの自己紹介を終えて一息ついた。
道永は手元の木簡をながめている。
光乃たちの履歴書、というか自己紹介書みたいなものである。
「ふうむ、光乃さんは文字の読み書きができるのか。もともとは信乃さんと一緒に、私の
そうだな、とつぶやき、一瞬考え込むしぐさを見せた。
すぐに手をぱんぱん、と打ちならして家人を呼んだ。
「おい、確か、
「ええ、ええ。毎日のように人員補充の連絡がきています」
「わかった。行事官に連絡しておいてくれ。一名人員補充だ。織路氏の光乃姫をつけるからよしなにつかってくれ。文字の読み書きはできるし、漢籍の教養もあるから十分つかえるはずだ」
よしいけ、と再び手を打ち鳴らす。
光乃は退出する家人を不安げにみつめた。
「あの……すみません」
「ああ、行事所というのはな。そうだな、ミカドが代替わりされたのは知っているだろう。代替わりの時には
「え、えええ……」
「わるいな。いま、ウチにいるほかの家人はそれぞれの仕事があって手を出せないんだ。よろしく。行事所へは、うちの家人を案内につける。今すぐ向かってくれ」
――どの。次の方がお見えです。
道永を呼ぶ家人の声が聞こえた。
道永はにっこりを微笑むと、ぽんぽん、と光乃の肩をたたき、そして去っていった。
残された光乃と信乃はゆっくりと顔を見合わせた。
マジか、という顔をしていた。
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