第24話 荒々丸の最後
◇
館の庭ではこうこうとかがり火をたいている。
その庭のまんなかあたり、むき出しの地面の上に、光乃たちは信乃の体を横たえていた。
館に到着した光乃が、そうするようにと指示を出したのだ。
理由は簡単だ。これまでのように母屋であやかし調伏をやると、室内で戦うはめになり、薙刀が使いにくくなるからだ。
もちろん、室内であれば薙刀は使えずとも、狼の側もその巨躯を生かしにくくなる。
だが、敵のつよみをつぶすよりも、自らのつよみを生かしたほうがいいような、そんな気がした。ただの勘である。
「「「「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤソハタヤ ウンタラタ カンマン」」」」
源建法師ら僧侶は地面にじかに胡坐をかいて真言を唱えている。
不動明王の御力を借りるこの真言は、北嶺寺にいるような仏法専門の僧侶が唱えれば、一発であやかしを引きずりだせるのだという。
だが、ここにいる僧たちの専門はといえば、荘園管理に冠婚葬祭。
かれこれ何十回も真言を繰り返し唱えて、ようやく狼妖の全体が信乃の体から出ようとしていた。
狼妖も、信乃の体からよっぽど出たくないとみえ、必死で抵抗していた。
少し不思議な光景だった。
僧侶たちが真言を一回唱えるごとに、
信乃の体から出てきたその白いもやもやは時間がたつと、耳や鼻に目ができて、毛が生え灰色になり、次第に狼のような形に変わっていく。
「「「「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤソハタヤ ウンタラタ カンマン」」」」
信乃の体から飛び出た狼が庭に転がりでた。
何十回目かの真言でついに狼妖を信乃の体から追い出すことに成功したのだ。
――フゥーッ
光乃は大きく深呼吸をして、ぐっと丹田に力を入れると、
頭のてっぺんを糸でひっぱりあげられたみたいな立ち姿だ。すらりと均整がとれている。
もはや光乃は大鎧を脱いで、動きやすい狩衣姿ひとつになっていた。二足歩行の人型をとる狼妖に対抗して、馬から降りて戦うためである。
大鎧は
おなじ鎧でも、
騎馬武者だから、腹巻なんて使わないか、というと案外そうでもない。
例えば郎党であれば館や屋敷の警護では腹巻をつける。光乃のような身分の高い武者でも都で討ち入りや暗殺をする際には、(あるいは暗殺を警戒する場合は)狩衣の下に腹巻を着こんだりする。
ただ、いま赤名荘の織路氏の館には光乃のための腹巻はない。
だから狩衣ひとつであやかしと対峙している。
一撃でもくらったら即死だろう。
寒い冬の夜だが、光乃の額には、恐怖か緊張か、汗がにじんでいる。
――ぁおーん! ぁおーん! ぁおーん!
狼は、ぬるりと二本の足で立ち上がると、遠吠えを三回。
どう攻めたものか、光乃の隙を伺うように、ゆらり、ゆらりと体を動かしている。
――だんっ
しびれをきらした狼の妖が地面をけって飛び込んできた。
光乃の頭ほどの大きさもある、狼の左肩の筋肉がぐっと収縮する。
まるで左腕が矢を引き絞るように、後ろに引かれる。
と、目にもとまらぬ速さで、巨大なかぎ爪を突き出してきた。
光乃は足だけで、踊るようにそのかぎ爪をかわした。
光乃の体のすぐ横を、かぎ爪が掠めていく。
最小限の動きだけでかわせたあかしである。
狼の体が伸び切ったその瞬間、
――するり
素早く薙刀の刃の先で、脚の腱を斬りつける。
――がつん
斬りつけた勢いのまま、石突でやつの顎をたたく。
体勢を崩した狼はもんどりうって転がった。
”ちっ。浅かったか”
内心舌打ちをした。本当はもう一撃斬りつけたかったが、転がった勢いのまま狼は間合いの外にでている。
”だが、勝てない相手ではない”
光乃はそう確信した。
立ち上がった狼が、低い姿勢で光乃をにらみつける。
うかつに飛び込むと手痛い一撃を食らうとわかったのであろう。
じりじりと近寄ってくる。
その足運びはまったくのド素人のそれだ。
”信乃にとりついているときからそうだったけど、武芸ってものがまったくわかってないんだわ”
再び光乃は薙刀を構えなおす。刃を低い位置に、下段にかまえる。
ぐっと狼が踏み込んできた。右腕を薙ぎ払い、かぎ爪で光乃を斬りつけようとする。
――すっ
光乃は音もなく半歩ぶんだけ後ろに下がる。
上半身はまったくぶれていない。
眼のすぐ前をかぎ爪が通り抜けていく。
瞬間、下段に構えていた薙刀をそのまま斬りあげ、太ももの裏側を撫でるように切り裂いた。
狼の下肢から血がどくどくと噴き出した。だが、期待していたほどの勢いではない。
ハガネのような筋肉に阻まれたのか、太い血管を傷つけるには至らなかったようだ。
連撃の気配を察したのか、狼はふたたび後ろに飛びのく。
その身の丈は七尺(2.1m)ほど。
その腕は不格好に長く、どこか猿をおもわせるところがある。だらりと垂らすと膝ほどまで達するから、四尺(1.2m)ほどだろうか。この腕の長さが、おおむね間合いとなる。
一方、光乃のもつ諸刃の薙刀は五尺強(1.7m)ほどもある。
むろん、石突をもって振り回すわけではないから、それがそのまま攻撃範囲になるわけではない。
だが、狼と光乃の身長の差を加味しても、なお光乃のほうが攻撃半径は広い。
つまり、狼の攻撃の届かない距離から一方的に斬りつけられるということである。
――どんっ。
再び狼の妖が踏み込んでくる。
光乃はそれを間合いギリギリでかわしながら、またもや太ももを切り裂く。
さっきよりも深くはいったとみえ、噴き出す血の量も多い。
これが繰り返される限り、時間はかかるにせよ、光乃が負けることはない。
そのことに狼も気づいたようだ。
”さすがにそこまで阿呆ではないらしい”
光乃はひとりごちる。
狼は猜疑にみちた目で光乃をねめつけながら、隙を伺うように足をつかう。
光乃もあわせて、あしをつかうから、はたから見るとまるで二人がくるくるとゆっくり回っているように見える。
ふと見ると、光乃の斬りつけた下肢の傷口が、しゅわしゅわと泡をたてながらふさがっていた。
”あやかしだけあって、回復もおそろしく早い”
一撃で、とは言わないまでも、回復のいとまを与えずに殺しきらないとならないようである。
”それでも勝てない相手じゃない”
まず、狐火のような遠距離攻撃のすべをもたない、というのが一番大きい。
また、逃がす心配をしなくていいというのもある。どうあっても信乃や光乃を殺したいらしい。だから狐と違って積極的に接近戦を仕掛けてくる。
そのうえで、やはり鎧を脱いだのも効いた。
膂力も速度も、狼のほうが圧倒的にうえである。その無骨なかぎ爪の一撃は、目にもとまらぬ速さである。
だが、狩衣装束になった今、まともに戦えばくらうことはないと、光乃は確信を持っていた。
なんとなれば武芸の心得がまるでないからである。
毛皮越しにでも隆起してみえる筋肉の動きだけで、次にどこをどう攻撃しようとしているのかがわかった。
足さばきを見るだけで、その攻撃がどこまで伸びるのかがわかった。
大振りな攻撃をくるり、くるりと舞うように躱しながら、薙刀を中段に、下段に突き入れて、狼妖の各所に裂けめを入れていく。
傷つけられながら回復し、回復しながらも傷つけられて、やつの体のあちこちが泡立っている。
だが、時間は狼の味方であった。
――ひゅっ
初めて狼の一撃が光乃にかすった。
夜明け前の空のような
衣だけではなく、腕の皮膚にも少し食らったと見える。
しだい、しだいに掠める攻撃が増えていく。
もとの体力が狼妖と光乃では桁違いだから、長引けばやがて攻撃をかわせなくなっていくのは自明だった。
”今はまだギリギリで躱せているけど……”
光乃は焦る気持ちを抑えて、薙刀を握りなおす。
”そろそろけりをつけなくては……”
――どんっ。
しびれを切らしたのか、狼は四足になって大きくとびかかってきた。
――がぶり。
狼の頸がぐいっと伸び、噛みついてくる。
”ここだ!”
と光乃は思った。
最小限の足さばきだけで躱していたのを、初めて大きく左に飛んで躱した。
飛んだ勢いのままくるりと回って薙刀を上段に振りかぶる。
狼のやつは慌てて身をよじる。
みずからの頸椎めがけて振り下ろされる諸刃の薙刀に気づいたのだ。
ふくらはぎ、太ももの筋肉が収縮する。四足のままおおきく飛びのいてかわす。
二足で着地すると素早く光乃のほうにむき直ろうとする。
「いまよ! 葵ちゃん!」
瞬間、狼に水流が直撃した。
大蛇の大妖ほどの大きさもあろうかという水のうねりである。
そう、葵の陰陽術であった。おそらくは水神の力をかりて行使する術ではなかろうか。
水というのは重たい。加えて高速でぶつけると、まるで岩のように固くなる。
龍のように荒れ狂う洪水が、またたきするほどの一瞬で村ごと消し流してしまう、というのは珍しくもない。
葵の引き起こしたそれは、さすがに洪水に比べればはるかに小規模である。
だが見上げるほどの大きさの水流をぶつけられた相手はどうなるか。
ばごん、ともばちん、ともつかぬような鈍い音と共に狼は吹き飛んだ。
十間以上(20m弱)も吹き飛ぶと、そのまま塀をぶち破って堀を超えたところにぐしゃりと落ちる。
神力をうしなって、本来の姿に戻った水が、庭にサァっと広がっていく。
「やりました……かね……?」
駆け寄ってきた葵が自信なさげにつぶやく。
「あれで駄目だったら勝ち目はないわね。」
光乃と葵は、穴のあけられた塀に向かって、ゆっくりと、油断なく歩いていく。
堀の外、短く刈られた葦の野原に、狼はぐしゃりと倒れ伏していた。
その手足はあらぬ方向にぐにゃぐにゃと折れ曲がっていて、ひとまわり小さくなったようにさえ見える。
明らかに即死だった。
そのすぐ横に、一人の騎馬武者がたたずんでいる。
だいぶ西の空に傾いた満月の光を反射するその武者の髪の色は、陸州の雪景色をおもわせる銀。
「……そうか。荒々丸、お前も……。」
銀髪の武者の、おそらくはだれに聞かせるでもないその言葉は、静かな夜のゆえか、奇妙なほどにはっきりと聞こえた。
モレイが来たのだった。
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