第18話 若藻の本気


――若藻視点――


庭に放り投げられた白い何か、ねばねばとした液体のような何かは、ぼこぼこと泡立ちながら、急速に犬の形を取り戻していった。

それはまるで、解けてドロドロになった犬の死骸から新しい犬が生まれてくるようにも見えた。


犬が立ち上がった。

みずからの体液にまみれて汚らしくぬれそぼっている。

四つ足だったところから、まるで人か、猿のように二本の足ですっくとたちあがる。


昼間においかけまわしていたときは、みじめな子犬くらいの大きさだったが、今こうして立ち上がった姿は、大の男よりも二回りほど大きい。


白い毛にはところどころ灰色や黒い毛がまざっていて、全体として溶けかけの泥んこ雪みたいな汚い見た目だ。


……よく見たら犬じゃなくて狼のあやかしか。まあどちらにしても下品で野蛮なやつらだ。


前足、というのか今はもう人型だから腕、というのか、とにかく丸太みたいに太く発達している。殴られたら痛そうだ。


みたところ、中妖格の、それも弱いほうだろう。正体がわかってしまえばたいして恐ろしい相手ではない。


狐火でさっさと燃やしてたきつけにでもしようと妖力をあつめたところで、後ろから光乃とかいう小娘が飛び出してきた。


小娘は館から庭に飛び降りがてら、太刀を抜き払い、狼に斬りかかる。

まずは先制攻撃といったところか、一撃食らわせる。

いや、避けられた。浅いな。


ついさっき戦ったから光乃の実力のほどは分かっている。

打ちものいくさに強い光乃と、ケモノまるだしの狼妖。

なかなか悪くない勝負になりそうだ。

お手並み拝見、これならオレが出るまでもないだろう。


と、物見遊山気分のオレに冷や水を浴びせかけるように、小娘は劣勢に追い込まれていく。


というのも、狼妖の速度に、小娘の足さばきが全くついていけていない。

不審におもってよく見れば、小娘の鎧は騎馬戦闘用の大鎧である。


今も、狼の一撃をよけようとして……。

体勢をくずしてたおれこんでやがる!


「お、おい! バカ! 小娘、死ぬ気か!」

お前が死んだら誰がオレの潔白を証明するんだ!


狐火を放とうとしたところで、光乃を巻き添えしかねないことに気づく。

あわててオレは飛び出し、右手に杖を現出させると、いまにも光乃の首にかみつこうとしている狼を打ち据える。


「お前は下がってろ! あぶなっかしいな!」


形勢不利と見たのか、人型の狼は後ろに飛びずさった。


――あおーん、あおーん、あおーん

景気付けだろうか、野太い遠吠えを三発かますと、でくのぼうみたいにその場でうろうろし始めた。


館にいるご婦人を食いちぎりたいが、それには目の前の小娘や貴公子が邪魔だな……、とかおおかた誰をどう倒せばいいのか迷っているのだろう。

狼ってのは群れのボスがいないと、まったく自分では何をしていいかわからないというボンクラどもだからな。


「おい、小娘、弓でもとってこい。今のお前は役立たずだ」

そういいながらとびかかってこようとした狼妖に、狐火を投げつける。

避けようとして勢い余った狼のやつがたたらを踏む。

どうもやっこさん、まだ二足歩行のやり方を思い出していないらしい。


「小娘じゃない!」

憮然とした顔で小娘がさがっていく。


狼の中妖は、群れると厄介だが、単体であればそこまで脅威ではない。

近寄られるとそれなりの膂力があるからすこしだけ手ごわいが、妖術があまり得意ではないから、近寄らせなければなんなく勝てる。


おまけに15年も犬のふりをしていた狼など、牙すらぬけおちてしまってるにちがいない。


オレは狼が一足飛びに嚙みついてきても届かない距離を維持しながら、狐火をはなった。

なんども狼のやつはとびかかろうとしては、狐火をみてあきらめて避ける、というのを繰り返している。

外れた火が館の塀やら厩を爆発四散させているが、かまいやしない。


正直、光乃の妖力――神力ともいうが――は絶品だった。質も高いし量も多かった。

オレは絶好調で狐火をはなつ。


みぎにひだりに、狼が狐火を避けるたびに館が崩れていく。

冬も終わりかけの寒々しい夜空に、炎が揺らめく。

乾燥していたからか、よく燃えるぜ。


狼のやつの足が地面を大きくけった。

土埃がまいあがる。

見切った、と思ったのか知らないが、狐火をよけた狼が、そのまま踏み込んでとびかかってきたのだ。

おおかたオレが狐火を連発できないとでも判断したんだろう。


だがそれは、オレがそう見せかけただけだ。飛び込んできた瞬間が一番当てやすいからな。


狼のやつが飛び上がって、四本の足すべてが宙に浮いた瞬間――いいかえると、何をどうやったってやつが回避行動をとることができないその瞬間――に、オレはとびっきり特大の狐火を叩き込んでやった。


狐火はとびかかってきた狼妖の腰あたりに直撃し、火だるまにする。

やつはくるくると木の枝みたいに回りながら塀に突っ込んだ。

もともと、狼のやつが躱した狐火が何個か直撃したこともあって、ほとんど骨だけみたいな状態になっていた塀が、やつがぶつかったことで完膚なきまでに粉砕された。


塀を壊しながら、そのままやつは館の回りをぐるりと囲む水堀の中に落ちていった。

落ちた水堀から煙が出ているところを見ると、狐火はばっちり消火されてしまったらしい。


この一撃で絶命させることができれば世話がなくていいが、どうだろうか。

狼妖は、妖術が使えない分、肉体は頑強だし、なによりもオレは昨日からの連戦でそうとう弱っている。

昨日までのオレだったら、あんなチンケなあやかし、狐火の一撃で燃えさし一つ残さずにイチコロだったんだが……。


とどめを刺すべく、オレは警戒しながらゆっくりと水堀に近づいていく。

燃え盛る塀であたりが昼間のように明るい。

炎が水堀に反射している。


狼の姿が浮かんでくる様子もない。

じたばた泳ぐ音もない。

音といえば、火の粉がパチパチはじける音くらいだ。


「やったか?」

後ろから小娘の声が聞こえる。鎧の小札が狩衣とこすれる衣擦れの音も聞こえてくる。


「いや、まだのはずだ。さがってろ。」

おれは崩れた塀のがれきを足でのけながら、身を乗り出す。

水堀の中にはいないのだろうか。水面はざわついているものの、底で人型の狼が泳いでいるふうではない。

もう堀からでて、その奥で潜んでいるのか……?

だが、館の回りは丁寧に刈られていて(防衛の都合上、あたりまえだ)、およそあやかしが隠れられるような場所はない。


首筋を焦がすような殺気。


そっちか!

オレがすばやく右をむくと、瞬間、燃え盛るがれきの下から狼妖が飛び出てきた。

汚らしい毛皮はところどころ剥げていて、焼け爛れたようなやけど跡がむき出しになっている。

毛皮が残っている部分も無事なところはあまりない。真っ黒こげになっている部分、まだ火がついている部分、全体としてみると、燃え始めた炭みたいなありさまだ。


すばやくうしろに下がってよけようとする……が再び殺気。

おもわずころげたオレのすぐ耳の横を矢が掠めて、狼妖のやつに突き立つ。

小娘のやつの援護射撃だったようだが、もっとオレの動きを読んでくれ!


「なにやってんだ小娘! 殺す気か!」


「あなたが変なよけかたしなきゃいいだけの話よ!」


ぶちぎれたオレが振り向いて叫んだところに狼が組み付いてきた!

不潔そうな爪の生えたでかい手が、オレのシミ一つない首筋をつかむと、そのまま上体ごと引き倒された。

焦げ臭い、毛むくじゃらの巨躯に地面に押さえつけられる。


最悪だ! 今のは隙を見せたオレがわるい。痛恨の過ちだ。


――グワァ


狼のやつが大口を開けてオレの喉笛に噛みつこうとしてくる。

うまれてから一度も口をゆすいだことがないとみえ、ありえないくらい臭い。最悪だ。


くそっ!

オレは素早く蛇に変化すると、すべすべの鱗をいかしてするりと奴の手から逃げた。


――がちん。

いきおいよく閉じたやつの顎から、痛そうな音がする。


オレは再度変化、もとの狐の姿に戻った。


立ち上がった人型の狼が、ゆっくりとオレを見上げる。

いきなり小屋ほどの大きさの狐が現れて、信じられないとでも言いたげな表情だ。

自分が何と戦っているのかすらわかっていなかったのかもしれない。


オレが狼の頭にかぶりつこうとしているのに逃げることさえしない。

蛇ににらまれた蛙とおなじように身がすくんじまっているらしい。


短時間のうちに二度も姿をかえたせいで、オレも少々疲れている。

さっさとおわりにしよう。


最初からこの姿で戦っときゃよかったな、とオレは思った。

館にいるご婦人方の目を気にして、貴公子姿で打ち倒そうと思ったんだが……。




――ぺっ。

オレはかみちぎった狼の頭を吐き出すと、堀に顔を突っ込んで、口をゆすいだ。

犬っころの臭気が口中にしみついていて、呼吸するだけで吐き気がするぜ。


なんにせよこれで終わりだ。

館は惨憺たるありさまだし、信乃とかいう小娘も気を失って倒れているだろうが、すくなくとも一人も死んでいない。たぶんな。


「一件落着だな。めでたしめでたしだ」

貴公子の姿にもどったオレは、光乃に声をかける。


「そうだね。若藻のおかげだ。ありがとう」

言葉の割に、その声は元気がない。

光乃のやつは、首から上を失った、みじめな狼の死骸を見下ろしてぼうっとしていた。

まあ、長年親しんできた飼い犬が、実は妖でした、とわかったわけだからな。そう簡単に認められる事実ではないだろう。

オレも長いこと生きているから、多少はヒトの気持ちもわかる。


「なあ」

オレは明るく陽気にいった。

「そう落ち込むなって。普通の犬だったら寿命でとっくにくたばってた。あらあらまる?だったっけか、そいつも寿命で死んだと思えばいいのさ。そんなことよりも、なんだってこいつが15年間も飼い犬のまねごとをやっていたのか、そこが謎だよな」


悩み事には別の悩みをぶつけろ、というオレなりの人生訓だな。


案の定、おちこんでいた小娘もオレの言葉を聞いて考え込みはじめた。

「そうね。15年のうち、もしかしたら10年とちょっとくらいは本当の荒々丸だったのかも。途中であやかしにすり替わった、なんてこともあるのかしら」

ぶつぶつ独り言を言っている。

オレからするとなんだっていいが。


「まあ、そんなことよりも尾のある所に案内してくれよ。約束通り手助けするどころか、この狼はオレ一人で倒してやったんだぜ。尾だけじゃ割に合わないね。イキのいいヒトの子供を何人かオマケにつけてほしいくらいだ」

子供はやわらかくておいしいからな。もちろん、本当につけてくれるなんて期待はしちゃいないが。


「そうだね。わかった、案内しよう。その前にモレイと合流して事情を話さなくては。うっかり若藻が殺されかねないからね」


「そいつはぜひともお願いしたい。できれば朝日がでるまえに、一通り片付けちまいたい。急いでくれよな」


オレも光乃もすっかり油断していた。

なんせ、二人とも夜通し危機一髪!ってなぐあいだったし、事件はここで一件落着まちがいなしに思われたからだ。


そんなとき、今晩で最大の殺気を感じた俺はとっさに光乃を抱えて地面に伏せた。


――びゅうごう

俺たちの頭があったあたりを、神力のかたまりが通過していくのを感じながら、オレは光乃をかかえたまま側転した。


起き上がったオレの眼に、二本目の矢をつがえる銀髪の騎馬武者の姿が飛び込んできた。

そうだ、あのモレイとかよばれていた武者だ。

昼間、オレの尾を一撃で吹き飛ばしたバケモノである。

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