11話・彼女の罪と罰
罪と罰
「まるでヒサルキのようだね」
喫茶店のメニュー表とにらめっこをしていた私に、友人の吉川静江はそう言った。
吉川は高校のクラスメイトだったが、こうしてお茶を飲むようになったのは大学に入 ってからである。
170あるスラリとした高身長、短く切りそろえられた髪、静かな色合いのユニセックスファッション。切れ長のツリ目。
高校生だった時からいつも彼女の周りには彼女に焦がれた女子生徒が群がっていて、私はその様子を遠巻きに見ていた。
「ヒサルキ?」
「掲示板サイトで語り継がれる怪談だよ、西くん。」
彼女は宝塚に憧れを抱いているようで、立ち振舞や話し方もまるで男役のように芝居ががっている。
演技力が足りず学校には入れなかったと、成人式の後の飲み会で少し悲しげに語っていたのを覚えている。
「山から降りてくる怪異さ。サルを始め様々な動物の皮を被って降りてきては近辺の動物を食い荒らす。柵や杭などの先に百舌の速贄のように小動物を突き刺す修正があり、目視すると精神を病むか、目をえぐり出そうとしてしまう。稀に人の皮を被るケースも有る。」
これだよ、と彼女は少し大きめのタブレット端末を操作し、ヒサルキがまとめられているページを見せてくれた。
メニューを伺いに来た店員に、彼女はコーヒーとワッフルのセットを頼んだ。君は?と尋ねられとっさに選べなかったので同じものをもう1つ注文する。
注文した品を待っている間、私はそのページに目を通す。
―――――なるほど、よく似ている。
私が調べている彼氏の地元の風土記に出てくる怪異といくつか共通点がある。
彼らは動物の皮を被って山から降りてくる。他の同種の動物より二周りも大きく、銃や刃物などでは中々殺せず頑丈で再生能力もある。
悪人がいなければ唆してでも悪人を作り出すという執念深さ。御使いに狙われることを"見つかる"といい、見ると気が狂うだとか目を潰されるということもない。
「確かに似てるなあ。」
「だろう?私も君から聞かされたときその一種かと勘違いしてしまったぐらいだからね。」
「日本各地に同じような怪談ってあるんだな~」
「悪人を好んで襲う……というのも、ヒサルキとは異なる点だね。くねくねも八尺様も日本の怪異は向こうに見つかったもの。あるいはこちらがあちらの領域に踏み込んだ場合、襲われたりするじゃないか。」
「悪いことを行う事で、向こうの領域に踏み込んでしまうのかな?」
「どうだろう。罪を犯したもの以外襲われた記録はないのかい?」
「無いなあ。どんなに潔白な人間でも御使いに唆されて罪を犯して、それから襲うから。逸話の中で御使いに唆される事を「見つかる」って表現するんだけど……見つかる人間の共通点ってのはツイタチ信仰が広まっている土地の人間以外ない。」
「罪を犯した人間のみ食べることができる……条件は罪だけかい?目が合うとかでも無いのかな?」
「うん。突然、魔が差すんだって。」
「予兆もなくかい?」
「罪を犯したあと謝って襲われずに生き残ってる例は結構あるんだけど、不思議なことに魔が差して犯した犯罪を、誰も言い訳に逃げたりしないんだよね。自分が犯した罪として認めて納得してしまうんだ。自分は悪くない、とは言わない。」
「それもやはり”見つかる”事による仕業なのだろうかね。人間って何事も他責にしたい生き物じゃないか。」
「謝れば許される、というのも都合が良すぎる気がするよ。犯罪を目印にしているなら、反省した途端にその標的から外れる。心からの反省……というのがミソだと思っていたけど、最近残っている風習ではもはや形だけのもので、誰も心から反省なんてしてない。御使いから見る人間の罪というのが、なんだかとても大雑把すぎると思うよ。」
「あくまで人の法を参考にしているだけで、御使いには罪の本質はわかってないんじゃあないか?」
「人の法って時代で変わるし臨機応変に対応してるみたいだけど、その割には私刑や過度な取り締まりをすると標的をそっちに変えるからなあ……」
「神の使い……と人間ではやはり価値観や概念が大きく異なるのだろうね。」
もう1つ、違うところは何度も作中で語られる、人を襲う動物たちは「神の使い」であるという言い回しと、群れをなす習性、そして襲うのは獣ではなく一貫して人間だけで、それも悪人を好み率先して狙っているという点。
牛の腹もそのまま件の話だったので伝承が伝わるのは珍しいことではないのかもしれない。
2つ3つ読み終えた頃、おまたせしました、とウェイターがコーヒーとワッフルのセットを机に運んできた。焼き立てのワッフルは香ばしい香りで上に乗ったバターが熱さでちょうどよく溶けかけている。お好みでおかけください、と透明な小瓶に入った黄金色のはちみつを置いてウェイターは厨房に戻っていった。
「ヒサルキはさ、読んでみた限りだと動物の皮を被っている”何か”なわけじゃない。」
「そうだが。」
「そこがまた違う気がするんだよね…彼が言うには……動物の皮をかぶるんじゃなくて……動物そのものだって。」
「ほう。」
彼は御使いを例える言葉としてよく「畜生」という単語を用いる。
御使いは神の「使い」であり、神そのものではない。
彼曰く、ツイタチ信仰における祭神を始めとした神話に名を連ねる神と明確に「種族」が異なるらしく、同等に扱うことは酷く失礼な行為に当たるらしい。
例えるならアフリカゾウとハリガネムシぐらい、種族として差があるという。
しかし御使いもツイタチも人の概念として「神」と「妖怪」以外に形容しようないので、怪異として一括りにされることに神々は気分を害しながらも渋々受け入れてくれているということらしいのだ。
ただ、私の彼は自分のことを神だと思いこんでいるので、これも彼の妄想の1つなのかもしれない。
人も虫も犬も猫も鳥も植物も等しく命であることには間違いはないし、時に人間よりも命の重みが勝る事があるが、人と他の動物が同格かと言われれば違うと断言できる。
「ふむ、私は犬が好きで実家の犬のためなら命を投げ出しても構わないが、実家の犬と同じかと言われれば確かに違うね。家族であることには間違いないし優先順位も私より上だ。しかし同じ権利を有するとは考えたこともなかったな。しかし、それは御使いが既存の動物とは違うという事かね?それとも既存の動物の延長にいる同種のモノなのかな?御使いが既存の動物に憑依している可能性も拭えないのでは?」
「うーん。その辺詳しく聞いてないからよくわからないのだけど、どーも憑依とは違う気がするんだよね。」
「そうかい?」
「殺した御使の描写はどれも動物の死と変わりないの。蛆が湧いて腐って死ぬ。」
「ああ。」
彼女はワッフルにはちみつをたらふくかけながら頷いた。彼女は甘党で私は会食する度に自分の分のコーヒーシロップを彼女に渡すことにしている。ありがとう、と私から受け取ったシロップの蓋を開け二杯目のシロップをアイスコーヒーに注ぐ。
「私が読んだ中で、憑依したものが抜け落ちるという描写は全く出てこなかった。獣に憑依して獣が変質する描写もね。大きかったり丈夫だったり回復が早かったり、普通の動物とは異なる描写あるんだけど、あくまで動物そのものって感じがするよ。生まれながらに御使いは御使いで、憑依というより輪廻転生のような感じ。」
「神道系の逸話なのに?」
「うん。例えば室町時代に倒された蛇の御使いが、江戸時代の逸話にも出てくるんだけど、「あの時の恩を……」みたいに同一精神を宿してるような描写もあるのね。でも蛇の外見は異なっていて平安時代は人を丸ごと飲み込む大蛇だったのに室町時代はニシキヘビ位の大きさで数も4匹に増えてるの。」
「ほぼ別物だね。」
「それでも白髪の青年は同じものとして扱うんだよね。「今も昔もお前は人を犯すことしか頭にない色狂」みたいな言い方だったけど……」
「その白髪の青年も人間とは思えないね。」
「そうだね、逸話の中でもメタ表現をよく使うんだ。性格も毎回同じような感じ。人が好きで働き者で動物に容赦がない。まるで――――」
私の彼のような……と言いかけて口をつむぐ。
私の彼の詳しいことを、今まで吉川に伝えてはいない。
口いっぱいにパンケーキを頬張る姿は、普段カッコつけている彼女からは想像もつかないほどあどけない。トントンと口の端を指で叩き、ついているよと教えると慌ててハンカチを取り出して口を拭った。本性が垣間見える瞬間というのは、いつ見ても良いものだ。
「白髪の青年がツイタチなのでは?」
「あー、私もそれ思った。」
禍津神を調伏し、それを御使いとし、頂点に立ったとされる神。
各地に残る逸話も1つにまとめれば、ツイタチが白髪の青年に化けて諸国を回り、生まれ変わるその都度各地の禍津神を退治して調伏し手下に加えるものとして見えてくる。
「ヒサルキも人に憑依するタイプもあるようだけど、白髪の青年も憑依……いや、輪廻転生した神なのだろう。神道は肉体は魂の依代であり死後も存在し続け、仏教の輪廻転生は解脱というゴールがあるし全く違うものだが……人間が都合よく解釈しているだけで、実際の神々の生死観とは大きく異なるのかもしれないし……それにしても輪廻転生なら毎回同じような外見を保持出来るのだろうか?」
「背の高い白髪頭の美形は彼の親戚筋にちらほらいるし、猿の時の白髪の青年……つみしろの末裔なら似たような外見の青年が生まれるのは説明が付くと思う。ただ、中身は本当に地続きで同一人物、全部いっしょというか。」
「話を聞く限りでは、そうだろうね。」
「輪廻転生なのか、憑依なのか、全部同じなのか……でも寿命を全うしたり事故で死んだりしているし、輪廻転生だろうなあ。」
どうしても、私は白髪の青年に彼の姿を重ねてしまう。
いや、白髪の青年に焦がれた彼がその生き方を習っている、という順番なのだろうが、今世における白髪の青年が彼でないと否定はできない。
「ああ、我々が名前だけのオカルト研究サークル会員なばかりに詳しい考察が出来ない……もっと風土記と各地の怪異に詳しい人の意見を伺いたいね。」
私も吉川もオカルト研究サークルに所属しているものの、ただ集まって駄弁ることを目的としているので土着信仰や怪異、風土記、神話のことをうっすらとしか知らない。
「それね。吉川さん、知り合いにいないの?村上くんとかは?」
村上という吉川がいつもつるんでいるグループの中でミステリアスを絵に描いたような青年がいる。
黒髪で黒い服を好んで着用し、かといって地味ではなく清潔感があり、同年代らしからぬ落ち着いた雰囲気を身にまとっている。
少し背が低い……いや、背は高いほうかも知れない。何度か話をしたことがあるがその度に見上げていたので間違いなく私より高いだろう。男性と言えば180を超える兄や、2m近い彼氏を思い浮かべる所為で大抵の男性が小さく見えてしまうのは私の悪い癖だ。
吉川は一瞬キョトンとしたが、直ぐにアッハッハと声を上げ豪快に笑った。
「いやー、村上は我々の中でも特にオカルトとは遠い……実に俗にまみれた人間だよ!」
どうやら私の印象と本人の性根は大きく異なるらしい。
「オカ件に彼女が欲しいから入ったと、新入歓迎会のときに言っていただろう?ウケ狙いではなく本気でそうだったんだから。」
因みに、いまだに彼女はいないよ。と、吉川は付け加えた。
「風土記に興味を持っているが、旅行に行くための口実に使っている節があるね。資料館を巡るのを趣味としているが、その日に居酒屋に入ると展示物の内容の半分を忘れてしまう程度のものだよ。まだ多摩や多聞の方が詳しいんじゃないかな。」
多摩誠司は目肌立ちがはっきりした好青年で、吉川の親友氷見京子の彼氏だ。斉東多聞は同じ高校出身だったらしいがあまり記憶に残っていない。おっとりとした関西人でいつも村上の隣に陣取っている。氷見京子は兄の共通の知り合いでもあるので、個人でなんどか会って一緒に遊んだことももあるが、多摩と斉東、村上の三人は吉川を介する以外話したことはなかった。
「いい加減なやつだよ、村上は。」
「そこがいいの?」
「うん。」
包み隠さずまっすぐ、好意を示した。吉川のこういう威風堂々とした姿には素直に感心する。
私のように軽蔑に人の皮を纏ったような人間ではない。
私は彼や吉川のような、私とは真逆の純粋な精神を装う人間を好む質であるらしい。
「君は相変わらず意地が悪いなあ。」
彼と違って吉川は、私の内面のドス黒いところを知っている。知った上で表面しか出せない私に友として付き合ってくれる。
出生を疎み、兄を疎み、外見しか取り柄のない私を彼女は決して否定しない。
そして私に対する軽蔑を一切隠さず、ありのまま向き合おうとする。
――ああ、流石舞台女優に焦がれるだけのことはある。
裏表がなく打算しない姿を、まるで本性のように皮を被って生きている。
高潔というものが何たるかを知っている。
自分がそれに程遠いということも。
「そうだ、西くん。君も我々の旅行に同行しないか?」
ワッフルを食べ終え、残ったアイスコーヒーを啜っていると店員が机の上にレシートを置いていった。
ありがとう、と答えたあとレシートを手に取った吉川は、ふと思い出したように私に提案した。
「なに、8月にいつものグループで只の観光をするだけさ。しまなみ街道を自転車で走ろうと思うのだけど、よければ君もおいでよ。」
「え、いいの?」
「男3、女2だかね。もうひとりいたほうがバランス的には良いのさ。」
「私、彼氏いるんですけど……」
「大丈夫さ。多摩には京子くんがいるし、私は村上くん目当てだからね。斉東は独り身だが、彼女と別れたばかりで傷心気味……今は特定の相手を作るつもりはないと言っている。なんなら、君の彼氏も呼べば良い。」
「バランスが今度は男4,女3に崩れない?斉東くんが可哀想じゃん。彼氏呼ぶならもう一人声かけようよ。」
「あてはあるのかい?」
「夏休みに暇そうにしてる子なら何人か……」
「それはまた置いといて君はどうだい?斉東は人の女に手を出すような男ではないから、気を使う必要はないよ。」
「逆に気を使うよ。」
「それとも君の彼氏は嫉妬深いのかな?」
「全然……ていうか、さては私に道案内させたいだけだな?」
「バレてしまってはしょうがない!」
再び豪快に笑い、そろそろ行こうかと吉川は椅子から立ち上がる。
「まあ、考えておいてくれたまえ。」
髪をかきあげながら、レジに向かう。どうやら無理強いではないらしい。
「もしOKなら、そのツイタチ信仰とやらを是非とも我々に詳しく教えてほしいね。いやなに、この間、ただ駄弁っているだけでは何をしにオカ研に所属しているのか……という話題になってしまってね。調べたものをネット配信とか逸話集的な同人誌を作るとか真面目な活動を1回ちゃんとやろうと思ったところなんだ。」
「私と同じだね。」
表向きだ。正確には全く違う。
私は、承認欲求を満たしたいが為だ。
どうにもならない現実から目を背けたいだけだ。
「だが、私や村上を始めみんなオカルトに興味があるくせに民俗学や風土集には何も詳しくない。うっすらとネットロアを齧っている程度だ。自発的に企画から始めるにはテーマを決めなければならないが、それを決めるまでに一体何回居酒屋に行くことになるやら……。それなら誰かの企画を手伝う方がいい。」
「私の研究に協力してくれるの?」
「是非とも!我々は必要最低限、おこぼれを肖りたいだけだからね!」
下心を一切隠さないので、思わず笑みがこぼれてしまった。
吉川は私が財布を出す前にここは奢ろう、その代わり道案内を頼むよとさっさと会計を済ませてしまった。
喫茶店を出て、同じ施設内の映画館へ足を運ぶ。因習村をテーマにしたホラーもので、血まみれの主人公が睨みつけるようにこちらを見ているポスターがそこかしらに貼られている。
「君の彼氏に会えるのを楽しみにしているよ。」
「一応、声かけてみるよ。」
笑って答える。
彼女は私の性根を知っているが、内情までは悟っていない。
正直、彼のことを誰にも紹介したくなかった。
白髪、赤目、2m近い身長、ヤクザのような和彫りの入れ墨、人懐っこく、働き者で、動物が嫌いな、息を呑むほど美形……
特徴だけ上げるなら、相当目立つはずなのに、彼はどこでもその場に溶け込んでしまう。
彼が稀有な目で見られない事は、良いことだ。
彼の父親が施した「見た目だけでも人から忌避されるように」という呪いが込められた入れ墨も、効力をなさないに越したことはない。
彼は万人を愛しているが、同じ様に万人から愛される。
私は、時々それが我慢ならなくなる。
彼を取られるという嫉妬ではない。
彼に、周りの人間を取られてしまうという、懸念だ。
兄にせよ、彼にせよ、本当に選ばれた人間の前で私は所詮付属品でしか無い。
藤原…いやそれは私も兄も捨てた姓だ。田原秀郷――――または弥勒藤太の妹、小江の坊っちゃんの彼女。ヒヤシンス園の子。
西千尋という個人で認識されなくなる。
それが、許せない。
結局、広島に旅行に行く計画は流れてしまった。
八月一日に起きたあの事件。
吉川が恋焦がれていた村上八朔は、殺人に手を染めた。
弟の同級生の女の子を惨たらしい方法で殺したセンセーショナルな事件。
学校には連日マスコミが押し寄せて、有ること無いこと吹聴しては報道合戦を繰り広げていた。
そこそこ大きな規模であったサークルは真面目にオカルトや怪談を研究していた数名を残しみな散り散りに去っていった。
私も、去っていったその一人である。
犯罪者が生まれたサークルに所属していたなど、マイナスな印象でしかない。
ただでさえ反社の兄がいて、その存在をリークされた結果、オーディションに落ちたというのに。
もともとサークル活動を深く活動を行っていたわけではないので、早々に縁を切ろうとした。
しかし、私のSNSも野次馬にとって美味い餌であったようだ。
事件を犯したあとで知ったことだが、私が返信を返していたフォロワーの中に村上がいたらしいのだ。
返信を返したと言っても数回しかない。他の連中と同じただ、ありがとうございます!と差し障りのない返信をしただけだ。指摘されるまで記憶にすら残ってなかったものだ。
私のアカウントは、目も当てられない罵詈雑言と共に投稿を引用拡散された。どこで漏れたのか電話番号に直接罵倒を浴びせる輩も現れた。
SNSアカウントは炎上した。
私の評判は完全に地に落ちた。
兄と彼の勧めで広島の彼の実家の離れの一室を借り一時休学せざるを得なくなった。
私は配信用に集めた資料を棚に終いながら深くため息を付いた。
動画配信どころか、女優業そのものが閉ざされてしまった。
辞める理由を探していたのも確かだが、こんな形で終わってしまうのはあまりも不本意だ。
私のアカウントが特定されたのが比較的早かった事もあって、サークルメンバーがその後どの様に散っていったのかをよく知らない。
事件があった日、真っ先に吉川に電話をした。
「冤罪に決まっている。村上くんがそんなことをするような男ではないよ。」
そう言い切っていた吉川だが、その後プツリと連絡が途絶えた。
心配で何度も電話をかけたが一向に出ず、4回目でブロックされてしまった。
氷見京子は怪しげな宗教にのめり込みしきりに教義を布教してくるようになったので、兄に促されるままこちらから縁を切った。多摩は引き籠もって家から出ないのだという。斉東はどうだろうか、パタリと噂を聞かない。
「京子の事は忘れろ。最初から居ないものと思え。仮に向こうから接触を試みられたら真っ先に俺に言え。絶対に耳を貸すなよ、村上は冤罪なんかなじゃない。」
兄は、何か事情を知っているようだった。だが未来を閉ざされた私に事件を追求する程、興味は残っていなかった。
人でなしに関わるのは、御免だった。
兄は野次の危険に晒される寄りましだと私を彼氏の実家によこしたが、田舎のほうが噂が広まるのが早い。
会う人みんな、私に事件の事を伺う隙を探している。むしろ都会の雑踏に埋もれていたほうが噂が収まるのが早いのではないか。
彼はいつまでも居ていいと嬉しそうに語るが、私は一刻も早く都会の自分の家に帰りたかった。
ゆっくりしていってね、と彼によく似た美人の母親が気ずかいもただ気落ちさせる要因でしか無い。
いっそ彼を連れて上京したほうが良い気がする。
彼は見た目の割に人に溶け込んでしまうが、ガタイの良い男が一人、家にいるだけで防犯面は格段に良くなるはずだ。
――――見られている。
そう感じるようになったのは9月の終わり頃だったか。
彼と祠を見て回ってから、どこからか、視線を感じようになった。
最初は長く滞在する余所者の私を珍しがった村人が、こちらを見ているのかと思っていた。
カエルと虫の合唱、朝一番に響き渡る養鶏場の鶏の知らせ、瀬戸内の海の香が含まれた湿度の高い風。
娯楽も何も無い、コンビニですら17時で閉まってしまう、電子マネーも対応していない、海と山に挟まれた村。
彼の家に籠もっていても暇でしか無いので村の中を散策して回った。
狭く小さな村なので半日もあればだいたいの所は見て回れる。散歩のついでに視線の正体を探った。
昔からその土地に住んでいる村人の集落がある北側の閉鎖した空気とは違い、南側は比較的新しい住居が並び以前来たときよりも活気があるように見えた。
どうやら尾道の市内中心部が観光で繁盛し始めてから土地価格が上がっており、空き家再生も上手く行っておらず、移住者が郊外に流れているとのことだった。
あそこにも来年新しい家族が来るんだよ、と彼は建設中の工事現場を指差す。
同年代の大学生と中学生の男の子がいるご家庭らしい。
村で唯一の小中合同校には今中学生は女子生徒2人しかいないそうで、どんな子が来てくれるのか来年の8月が楽しみだと話していた。
村の端々に置いてある祠の中には招き猫を模した御神体が鎮座している。
髑髏を持ったその招き猫は、全身に漆を塗られ赤い塗料で縦縞に模様が入っている。顔には大きな目が1つしか無い不気味な姿をしている。
備えられている枝は榊ではなく橘であった。
「可愛かろう。俺の姿を模したやつだけど、よう似てる。特徴捉えてデフォルメされちょる。」
まあ作られたのは最近じゃけぇ、ただの置物でしか無いが……と語る彼はどこか自慢げであった。
彼には、彼自身がこの様に見えているのだろうか。正直、似ても似つかない。人間の形すらしていない。
彼は既に精神科にはかかっている。躁鬱が悪化し、夜寝付けないので睡眠導入剤を貰いに行っている。
彼の父親が死んだ時に比べれば幾分回復しており、今も色々相談をしているようだが、妄想癖だけは改善される様子はない。
―――――妄想はあえて、否定してはいけないのだという。
耐えきれないほどの傷を負った精神を守るためのものであり、否定してしまうとより強固になって症状を悪化させてしまうのだそうだ。
私はいつも肯定も否定もしない。
「へえ、そうなんだ。」と、大凡心がこもっていない返事でも、人の表面しか見ることが出来ない彼には十分だった。
彼は本家の嫡男、村人は興味はあれどジロジロ見るのは失礼だと理解しているようで、赤羅様な好奇の目を向けてくることはなかった。
見られている。
―――――視線に悪意はない。
背筋がゾッとするような悪寒でもなければ、幼子を見守るような温かみもない。
ただ、なんとも言えない神妙さを持って、私の様子をじっと伺っている。
最初はSNSのアカウントを世間に荒らされている私だからこそ感じる、被害妄想の一種なのかと思った。
シャッター音に怯えたり、すれ違う人の囁きを気にしたり家に帰る度にエレベーターに乗るのを恐れたり毎朝窓の外を気にして洗濯物も干せないような、自意識過剰からくるものだと思っていた。
違うとわかったのは、視線を感じていたのが私だけではなかったからだ。
彼もまた、私に向けられた奇妙な視線を感じ、ひどく機嫌を損ねていた。
「なにジロジロ見よぉるんじゃ。」
外出する度、なにも無い所に向かって、または村を囲む森に向かってメンチを切って声を張り上げる彼。
彼が幻覚を見ているのは日常茶飯事なので、その事を指摘するものは私を含め、村に一人も居ない。
しかし私が視線を感じるようになってから、確実に妄想の解像度が上がっているように見える。
彼の目にはっきり映るなにかに向かって野次を飛ばし、威嚇するように低い唸り声を上げる。
決まって、私が視線を感じる方角に。
そんな姿を見て、ふともしかしたらこの視線が実在するのかも知れないという疑念が頭をよぎる。
――――――そんなはずはない。
彼は私がしたことをそのまま返しているだけだ。
私が、彼の空想を否定しないように、彼もまた私の被害妄想を否定してないだけだ。
被害妄想に押しつぶされそうになる私に、ただ気を使っているだけだ。
そのはずなのだが。
表も裏もない人なので、人に嘘を付くことが苦手な彼。
口が軽く、思ったことは何でも口にしてしまう。少々空気が読めないところがある彼は……良くも悪くも真っ直ぐな彼は、私に対してそんな気遣いができるほど器用な人間ではない。
改めて、彼の外見が異質に見える。
人ゴミの中、白い頭1つ抜きん出た和彫りの入れ墨の男。
ぞっとするほど、美しい顔の男。
人の往来が激しい東京でも、観光客が利用する福山駅でも、繁忙期以外の昼は閑散としている尾道駅でも、彼は目立たない。
誰も「彼がそこにあって当然のもの」だと信じて疑わない。
「…ったく、こいつがつごもりの女だと知らんはずがあるまいに…無礼な連中よ。」
大丈夫?心配いらんよ。俺が守っちゃるけえな。
視線の方角を睨みつけたまま、彼は私頭を引き寄せて胸に抱く。
――――もしかして、彼が語る妄想も実在なのでは。
風土集に出てくる、白髪の青年は、全て彼自身なのでは。
そんなはずはない。
怪異など、人間が作り出した物語でしか無いのだ。
因習がその時々の厄災の対処法だったりするように、伝承の怪異はその時々の当時では説明できなかい様々な自然現象や少々変わった人を表すように。
怪異は実在しないのだ。
――――私が何かをしたのだろうか?
この視線は、私に何を訴えようとしているのだろうか?
御使いは罪を犯したものを「見つける」と言うが、私は一体何をしでかしてしまったのだろうか。
ただ、周りの人間を軽蔑していただけだ。
表にはその素振りすら見せていないのに。
御使いの正体は獣だ。
猪に襲われた彼の親戚も、たまたまタイミングが一致しただけの獣害だ。
ひかみ様も、たまたま繁栄した集落の周りに住み着いていた猿の集団だ。
件は、たまたま村八分に会った青年の娘があまりに美しく人を狂わせたものだから、全国各地に残る伝承を被せただけに過ぎない。
白髪の青年は、あの近辺で見られる、そういう遺伝なのだと。
私や、私を始めとしたサークルに所属していた人たちは、オカルトを好みながらも本気でオカルトを信じているものはいない。
皆フィクションだと割り切ってオカルトを楽しんでいる。
だが……
――――――彼が、本当に神であるなら。
これは何も無い田舎で気が滅入っているだけど決めつけて溢れ出しそうな疑惑に無理やり蓋をする。
気を紛らわすために、図書館で本を借りてきては読み漁った。
映画館やボーリングやカラオケ等、室内の娯楽施設は軒並み、車で2,30分かかる郊外にしかない。
車がなくても行けることには行けるのだが、電車とシャトルバスを乗り継いで片道40分かけねばならない。人目を避けたいし移動が億劫なのも重なり、私は自転車で行ける市の図書館に連日足を運んでいた。
時間が空くと思考の渦に飲まれてしまうので、普段は手に取らない難しいそうな本ばかり借りた。
内容の半分も理解できない本をスマホを片手に何日もかけて解読した。
何も考えたくなかった。
小さな本屋のラインナップが、土日を挟むと4日以上遅れる事に苛立ちより諦めを覚え始めた年末。
SNSの炎上が鎮火し、村上が起こした事件の話題も下火になった頃、事態は思わぬ好転を見せる。
所属していた事務所から連絡が来たのだ。
メールアドレスを見た瞬間、とうとう解雇されたかと思いきや、長い間連絡を取らなかったことに対する謝罪と、舞台に出てみないかという打診であった。
どうも監督が「事実無根による誹謗中傷と差別を嫌うタイプ」の人間であるらしく、あえて私を起用することで世間のネット私刑に反発しようと試みたいらしい。
完全に炎上商法で、私を利用する気しかない。
しかし、おべっかも並べずその下心を一切隠さい姿勢は一度眉をひそめたものの、一晩経つと潔さに好感を抱くことが出来た。
かくして私は世話になった彼の実家を後にする口実を得た。
久々に戻った自宅を掃除し、彼の実家から送った荷物を開封する。
私を心配して手土産に地元の名産品をたんまり詰め込んだ段ボール箱の中身を仕分けし、一息ついた所でスマホが鳴った。
着信相手の番号に覚えがない。
無視しようかと、クッションにスマホを投げた瞬間、田舎でさんざん感じたあの視線が全身を深く突き刺した。
―――――東京まで来ている。
悪意と好奇のない視線は不快ではない。
田舎に居た時も、私より彼のほうがずっと苛立って居たように思う。
鳴り止まないスマホを拾い上げると、途端に視線は消え失せた。
温かみはない。
善意ではない。
これは、お節介なのだろう。
こちらの顔色を伺うような媚を感じ、不快ではないのだがしつこさを覚える。
ならば恐れるに値しない。
着信を受けると消えそうなほど小さな声がスマホから聞こえた。
「もしもし、」
「西さん?」
「吉川ちゃん…?」
あまりにも弱々しい声色で一瞬誰だかわからなかった。
「久しぶり、ごめんね…突然電話して…」
「いや、いいの。大丈夫。どうしたの?一体、ねえ。吉川ちゃん、貴方…」
早る気持ちを抑えぐっと言葉を飲み込んだ。
縁を一方的に切られた時の悲しみや怒りが、どっと胃の中から湧き上がるのを感じる。
―――――――衝動のままに問いただしてはいけない。
私は相手の言葉をじっと待った。
「ああ、ごめんなさい。その…目が…いや、なんでもない。違う…そうだ、久々にどうしても声が聞きたくなって…」
「うん。」
向こうも、私になにか伝えたい衝動を抱えているらしく、荒い息遣いをどうにかして鎮めようとふうふうと唸っていた。
「だめだ。電話なら…いけるとおもったんだけど、もう。ああ…」
「どうかしたの?」
「………」
「ん?」
数回深呼吸を挟んでふーっと吐き出すように彼女は言った。
「……会えないかな?直接。」
「ごめんなさい。これ以上は…だめだ。ごめんなさい。ごめんなさい。」
「大丈夫だから落ち着いて…吉川さん。」
か細い声で嗚咽を交えながら謝る彼女を大丈夫だとなだめる。
「わかった。私も貴方に会いたい。いつ会える?ワッフル食べた喫茶店とか」
「だめ!家に来て!!!」
突然の大きな声に思わずスマホを耳から話す。
あ…と小さくつぶやいた後、ごめんなさいと彼女は続ける。
「外はだめだ…外は…私の家に来て欲しい。お願い。」
「わかった。何時行けば良い?」
「…明日。」
随分と急である。
―――――しかし、これを逃すともう二度と彼女には会えない、そんな気配がした。
聞きたいことは山のようにあった。
あれから何があったのか。
何故、私を切り捨てたのか。
他の連中はどうなったのか。
村上に何がおきたのか。
一体、今なにが起きているのか。
「わかった。明日、行くね。昼過ぎでいい?」
「…ごめんなさい。ありがとう。」
ふつふつ湧き上がる怒りを抑え込み、できる限りの優しい声色で答える。
彼女は数回謝った後、電話をぷつりと切った。
翌日、予定をすべてキャンセルした。
正月モードで賑やかな商店街をぬけ、彼女の家に向かった。
フリルが付いたお気に入りのワンピース、厚めのタイツとコート、手土産にマカロンを買った。
久々に訪れた彼女の家は以前来たときと比べ、どこか薄暗さを感じた。
曇っているわけではない。太陽も出ている。なのに、何故か暗い。
郵便ポストに詰め込まれた郵便物を一瞥しチャイムを鳴らすと、何回か鍵を解除する音が聞こえてドアが空いた。
「……………………西さん?」
久々に会った友人の姿に言葉が詰まった。
短く切りそろえられていた髪は、ざんばらに伸びてフケだらけ。
何日も風呂に入っていないのだろう、ドアを開けた瞬間に鼻に突き刺さるすえた匂い。
ギョロギョロと大きく見開かれた目は充血し、まぶたがくぼんで隈が出来ていた。頬は痩せこけ腕は枯れ木のように細い。
汁を零したような染みがあちこちに出来たトレーナー。
頭に巻かれたアルミホイル。腕には数珠のような玉と目玉のようなアクリルが付いた奇妙なブレスレット。
「吉川さん?」
「あがって早く!」
腕を掴まれ家の中に引きずり込まれる。
「見つかる…早く、早くしないと……」
ドアには何個もの南京錠がぶら下がっており、彼女は私への挨拶もよそに一心不乱に鍵を掛ける。
ガチャガチャとカギをかける音を聞きながら、ドアの向こうに落ちてしまったマカロンの事を考える。もう、恐らく彼女の口にも私の口の中に入ることはないだろう。
全てに鍵がかかるとようやく安堵したのか、ふうとため息をついて口角を無理やり引き上げながらこちらを振り返った。
「ごめんなさい。やあ、久しぶりだね、西くん。」
ボサボサの髪をかきあげ、取り繕うように笑う。
以前のような威風堂々とした様子はなく、私に心配をかけまいと無理に以前の態度を再現しているように見えた。
「吉川さん、どうしたの、一体…」
狼狽を隠せない私の手を取りをまあ、座りたまれよ、と居間に通す。
部屋の様子は、またひどかった。
部屋はゴミと衣類で溢れかえり床が見えない。生ゴミを出していないのか、ブーンというハエの羽音がそこかしらから聞こえてきた。
ジメッとした湿気に混じって吐き気を催すほどの悪臭が部屋の中に充満している。
窓と換気扇はアルミホイルが貼られ外の光を遮断しているため昼間だと言うのに暗く、シーリングライトにはヒビが入り点滅を繰り返している。
座る場所などあるわけもなく、私は呆然と部屋の入口で立ちすくむ。
壁一面が赤いことに気がついたのは、一番最後だった。
「何も出すものがなくてすまないね。」
彼女がゴミの上に腰を掛けるとじゅわっとなにか茶黒い液体が溢れた。思わず口を手で塞ぎ後ずさる。
吉川は、綺麗好きだ。
見栄っ張りで、潔癖なところがあったと言ってもいい。
以前部屋に来たときはそれはもう綺麗に掃除が行き届き、雑誌で見るような片付いた部屋に生活臭すら感じないほどだった。
なんだ、この有り様は。
一体なにがあったのか。
私もSNSが炎上し自宅が特定され、玄関に生卵をぶつけられた時もあったが、ここまでひどい状態になっていない。
村上とは所詮同じサークルでただSNSで2回会話をしただけの私と、同じグループで仲の良い友人だった吉川では非難の数が違ったのだったろうか。
それにしても――――
「大丈夫よ。」
声に覇気は一切感じられなかった。
「大丈夫。西さんが来てくれたんだ、もう大丈夫。私は大丈夫。」
赤いマジックペンを拾い上げ蓋を開けたり絞めたりを繰り返しながら、呟く。
部屋の中は暖房が付けられておらず、彼女の指はしもやけで真っ赤に染まっている。
吐く息が視界を白く遮る。
「吉川さん、何があったの……」
口を開ける度に、異臭が体内に入ってくる。
逃げ出したい気持ちを堪える。深呼吸すら出来ない。
失礼だとわかっていても、両手で口をふさぐのを止めることが出来ない。
「――――――見られている。」
赤いマジックを握りしめ、吉川は答えた。
「暗いだろう?部屋も荒れ放題だ。ごめん、すまない、み、見られているんだ。私が、私であろうとするのを、あいつら、ひどく、嫌がるから。」
「見られて?なに?」
「ごめんなさい私も、おかしいと気がついているんだ。こんな、こんなねえ、部屋を掃除もしてないし外出もしてない、風呂には何時…入ったかな…おかしいだろう?変だろう?でも、こうしないと、ああ、見つかってしま…ッ!!」
赤いマジックを壁に放り投げた。
「見るな!!!」
壁に向かって吉川は声を張り上げた。
「見るな、見るな!!ああ、ごめんなさい、ごめん、見ないでくれ!!」
頭に巻かれたアルミホイルをクシャクシャにしながら彼女は茶色い液体で汚れたゴミの中に埋もれる。
赤いマジックを追って、視線を凝視する。以前は淡いクリーム色の壁紙を貼っていたはずだ。
塗料ではない。
赤いマジックで壁一面に、ひらがなで書かれたごめんなさい書かれていた。
「ひっ」
思わず悲鳴を上げ腰を抜かした。
服がじわっと何かで湿る感触に、背筋にゾワッとした寒気が走る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、どうか許して…ごめんなさい。」
「よ、吉川、さん。何?何があったの…?!」
あらぬ方向になおも謝り続ける吉川に声を掛ける。
何も無い所に怒鳴り声を上げていた、彼氏の姿が重なる。
彼と違うのは、彼が威嚇していた相手ははっきりとした輪郭を持った「なにか」であるのに対し、彼女は得体のしれない「視線」であるということ。
そんな事を考えながら、彼女の後頭部を見つめる。複数箇所、禿が見つかった。
できるだけ声が引きつらないように努力しても、どうしても裏返ってしまう。鼻が麻痺し始めていた。
「どうして今まで連絡してこなかったの?こんなになる前に、なんで相談してくれないの?」
「急に、きゅ、急に呼んですまない。……君のお兄さんが、二度と関わるなってキレって怒って……」
兄が。
余計なことをしやがってと内心悪態をつく。
「でも、京子が、君に許されたら、私は大丈夫って電話をくれたんだ。」
「京子ちゃんが?」
「うん、彼女、今へんな宗教にハマってるだろう?私をひ、引き入れようとしてるのさ、ひひっ…でも……」
「待って、京子ちゃんが言ったからそんなアルミホイルとか巻いて部屋を締め切っているの?」
「違う!こうしないと、連中は見てるんだ!もう縋れるなら、なんだっていい、カルトだってなんだって…ああ、怒っている、まるで自分のことのように、私を見て…私が。わ、私が君の…君のを…ああ…」
ごめんなさいと何度も頭を下げる。
「落ち着いて…」
鼻が麻痺した事で、大分この部屋の空気にも慣れた。
つま先で歩きながら彼女に近づく。
気に入った服で来るべきではなかった。
もう二度と袖を通すことは出来まい。
一度躊躇ったが、膝をついて彼女の肩に手をかける。
「貴方もあの宗教に?」
「いや、あんなものは所詮気休めだよ、西くん。集まって懺悔しあった所で…所詮、赤の他人に許された所で罪など消えるものか。連中の視線から逃れることは出来はしまいさ。私のようにね…」
私の手を取って縋るように握りしめる。骨と皮だけの手。手首には最近つけられたであろう無数の傷。力を込めたら折れてしまいそうでそっと両手で包み込むように握り返す。
「連中って誰?」
「見ているんだ。」
「貴方を?誰が?」
「わからない。じっと見ているんだ、私を、そして、怒って、私に……く、喰らおうと…」
「食らう?」
「御使いが。」
―――――――御使い。
ツイタチの使いの獣。
「御使い?」
「君が、君が私に話したんだろう!!ヒサルキに似た化け物だよ!」
今度は掴みかかるように私の腕に爪を食い込ませる。
一体どこにそんな力が残っているのか、あまりの痛みにぐうっと低い声が漏れた。
「落ち着いて!!御使いが?何故!?」
「お前が話したからじゃないか!!!お前がよこしたんだろう!お前が!!」
「知らない!落ち着いて、どうして?ねえ、落ち着いてよ。」
揺さぶりながら半乱狂になっている彼女をなんとか宥めようとする。
「私は何も知らない。知らないってば!」
「とぼけるな!今だって私を食おうとあたりを飛び回ってるじゃないか!」
「本当だよ!!私だって……」
――――見られている。
ずっと、見られている。
視線の強弱と数は違えど、ずっと、見られているのだ。
君も?と呟くと吉川は再び頭を抱え込んで床に突っ伏した。
「あああ、あ、君も…見られているのかい?」
「今まで、私、彼の実家にいたの…その頃からずっと…」
「そんな、君も手遅れだったのか?私は…」
「吉川さん。」
「す、すまない。西さん。私は…ああ、許してくれ。私を。」
「大丈夫。」
御使いに「見つかった」のか?
同じような幻覚を見る彼を思い出し、深く深呼吸をする。
彼は、自身が見つかったような、視線に怯える素振りは見せていない。
ただ、視線を煩わしそうに私のために怒ってくれていただけだ。
部屋の腐った空気が、体撫で回す。
幻覚は、否定してはいけない。
まず、肯定から入り、相手と同じ目線に立たねばならない。
しかしこれは幻覚なのだろうか。
私も視線をずっと感じている。
窓の外から、壁の向こうから、排気管から、シンクから、水道から、換気扇から。
私達を見ている。
様子を伺っている。
「御使いは、怒っているんだ。私が……だから、食べようと、私のしたことを許さなかったから…」
怒り。
視線から一度も感じたことがない。
彼らはただ、見ているだけだ。
むしろ、彼が威嚇する度に弱々しくなっていたぐらいだ。
なんの感情も込められていないと、最初は思ったが、どうやら違うらしい。
今、はっきりと感じる視線の正体は、畏れだ。
――――連中は私を畏れている。
私の顔色を伺っているのだ。
どうりで敵意も善意もないはずだ。
「許して欲しい、西さん。」
「何を?」
「ごめんなさい。」
「なにを…」
「許して、私を許して…」
壊れたラジオのように許してほしいと懇願する彼女を抱きしめた。
大丈夫だよと背中をさする。
垢だらけの体。でもそうしなければ、今にも壊れてしまいそうだった。
「ねえ、何をしたの?」
「ごめんなさい、おこ、怒ってるよね?勝手なことをしたから…ごめん、なさい…」
「違うの、そうじゃないの。」
「怒らないはずがない、だって…」
「吉川さん。教えて、何をしたの?」
「ごめんなさい。」
「吉川さん。」
ごめんなさいと、ただ泣きじゃくる彼女に苛立ちを抑えながらできるだけ優しい声色でなだめる。
「教えて、吉川さん。怒ろうにも、許そうにも、私は何も知らないの。」
彼女の頬を両手でつつみ、まっすぐ瞳を見据える。
瞳に張り付いたコンタクトレンズが薄黄色に変色している。
「何が…いえ、貴方は何をしてしまったの?私に、何をしでかしたの?」
「それは…う、ごめんなさい。」
「今日私を呼んだのは、私に許される為でしょう?違う?私は、貴方が心配だった。貴方のことが気がかりで、だからここまで来たんだよ。貴方を助けたい。このままじゃ、許しようがない。」
「西さん…私…」
「うん。」
「ごめんなさい、私は…」
「うん。」
彼女は視線を窓、壁、換気扇、シンクに泳がせた後、数回深呼吸をし、やがて決意したようにまぶたを閉じた。
「――――――……教えたんだ。」
「教えた?」
「村上くんに。」
村上。
あの人でなし。
彼女が追い詰められることになった原因。
「西くん、君のSNS…龍首瀬織のアカウントを…」
「あのアカウント…」
村上くんが私をフォローし、返信をしていた所為で炎上してしまったあのアカウント。
「旅行に誘いたい子がいるって……この子だよって……アカウントを、見せた。」
返信の時期は、確かに重なっている。だが――――
「そんな事、……そこまで気に病むことはないじゃない!」
つい、思ったことがそのまま声に出た。
確かに村上に絡まれたことで私のアカウントは炎上したし、大学を一時休学しなければならないほど追い詰められはしたが…
「あのサークルに所属していたみんなが、被害を被っているでしょう?私だけじゃないし、ましては吉川さん、貴方の所為なんかじゃない。だってわかるはず無いじゃん!」
吉川を挟んで何度か会話をしたときだって、村上が弟の同級生の女の子を殺すような異常者には見えなかった。
「…私が、紹介したから、村上くんは……あのアカウントを……」
「たかがファンに混じって応援メッセージ送っただけだよ。……―――私さぁ、今度舞台に出るんだ。小さな役だけど、ちゃんと貰えたんだよ。私は大丈夫だから、貴方はなにも気に病まないでいいから、だから……」
「違う!」
吉川は食い気味に唾を飛ばし私の腕に縋り付く。もう拭い去るのも億劫でそのまま彼女を見つめ返す。
こんな顔をしていただろうか。幾分老け込んで見える。あんなにきれいな人だったのに。
「違う、いや違わない…私が、君のアカウントを村上に教えた、だから、村上は知ってしまったんだ。」
「何を?」
「ヒサルキの事。」
「……」
ヒサルキ。
動物の皮を被り、百舌の早贄のように獲物を鋭利な柵に突き刺し、森の中の動物を食い荒らす。
見てしまったものの目を潰し、赤子のような声でおびき寄せようとする。
ツイタチの御使いがよく似ている、ネットロアの怪異。
「ヒサルキを、――――……ツイタチを。」
ツイタチを知った?
村上が?
「つ、ツイタチ様っていうアカウント……君が言っていた、ツイタチ信仰の祭神になりきったアカウントが…ああ、あの真っ赤な目がこちらを見たアイコンの…」
「なに、そのアカウント。そんなのがあるの?」
知らない。
そんなアカウントがあるなど初耳だ。
ごめんなさいと謝罪を挟みながら彼女は懸命に説明しようと言葉を探しているようだった。
ゆっくりでいいから、落ち着いて、大丈夫、いいよ。怒ってないよ。と額に額をくっつけて瞳を閉じる。
「と、友達が調べてるやつそのまんまって笑って見せて……見せたら、彼…ま、まるで…」
ガチガチと歯がこすれ合う音が聞こえる。
「………………――宝物を見つけたように、瞳を輝かせた。」
「見つけて」しまったのか。
御使いを、ツイタチを。
「見つかる」のではなく、こちら側から、「見つけて」しまった。
だから。
連中が、固唾をのんでいる。
私に向ける視線は、明らかな困惑を含んでいた。
何を怯えている。
よくも。
まっすぐに、純真に、高潔たろうと努めた彼女を。
大多数の人間がそうであるように、ただの愚か者でしかない彼女を、よくもここまで穢してくれたな。
お前らの所為ではないか。
お前らが勝手なことをしたから。
いや、肝心な時に何もしなかった分際で。
ふうふうと息を繰り返し肺の中で暴れまわる熱を吐き出す。
よく6秒間我慢すれば怒りは去ると聞くが、グツグツ煮えたぎる脳は冷めるどころか沸騰していく。
外は雪が降っていた。
口から漏れる吐息が私の視界を白く蝕んでいく。
言葉を選ばなければ。
この衝動に任せて彼女を傷つけてはいけない。
彼女に対して怒ってなどいない。
それは紛れもない事実だ。
確かに、彼女が私のアカウントを村上に教えたからだろうが、悪いのは村上であって彼女ではない。
もっと厳密には村上に対してすら、怒りを覚えていないのだ。
勝手なことしたと思う。
どんな理由があっても、人を殺してはならない。
だが、元はと言えば放置したあいつらが悪いんじゃないか。
放置?何を。わからない、ただ、くだらない理由だと、はっきりと察した。
面倒くさがったんだろう、元から不真面目な奴だ。
一番自分が彼に近いと勘違いをして、己が立場にあぐらをかいていたような奴だ。
だから、逆に村上ごときに見つかってしまったんだろう。
やつとは誰だ?知らない。私は、誰に対してそんなに怒っている?
わからない。知らない。この視線の正体か?それとも――――
「黙って見てないで、なんとか言ったらどうだ?」
自分でも信じられない程、低い声が出た。
聞き覚えがあるその声色は、私のものではない。
ひゅっと息を呑む音が聞こえて、部屋中に溢れた視線が、途切れた。
蝿が飛び回る音がする。
これははたしてゴミに集る蝿なのか、耳鳴りなのか。
時間が4,5分ずれた時計が正午の知らせのエーデルワイスを奏でる。
「消えた?」
私に対してだけではないのだろう、吉川さんもまた部屋中をキョロキョロ見回している。
「いなくなった?」
「………私は、怒ってないよ。吉川さん。」
立ち上がり、鞄を肩にかける。
彼女は顔から憑き物が落ちたように、ぽかんとしながら私を見上げた。
微笑んで、彼女を見下ろす。
「許すよ。だから、もう大丈夫。」
その言葉を聞いてもなお、状況を理解していないかのじょは口を大きく開けたまま、私を眺めていた。
根拠はない。
「因習を作るのは人だよ。」
彼の言葉を思い出す。
過度な規律も、変わった風習も、土地の”いわく”も作り出すのは人だ。
呪いとは結局気の持ちようなので、私が許したのだから彼女はもう大丈夫だろう。
私が許したのだから、罰する必要はない。
それでもなお、喰らおうとするなら、きっと彼は黙ってはいないだろうから。
『千鶴か?』
玄関先に転がったマカロンの入った箱を回収し、彼女の家を後にした直後、兄から電話がかかってきた。
体中が臭くて不快でたまらない。電車には乗れない。バスも無理だ。
自宅より対して離れた距離ではないが、歩いて帰るには遠すぎる。
「お兄ちゃん。丁度良かった。ちょっと迎えに来てくれない?」
『それは構わねえけどよ、俺もお前に今、用があるんだ。』
「なーに?」
今か……と面倒くささを感じつつ、足を借りようとしている手前断るわけにもいかない。
何でも無い風を装って返事を返す。
『お前に紹介したい奴がいる。』
「誰?」
『お前の同じサークルにいた、斉東多聞って男を知っているか?』
―――――何故、と喉から出そうになる言葉をぐっと飲み込んだ。
今し方同じグループにいた友人と会ってきたばかりである。
「知ってるけれど…彼がどうかしたの?」
『………うーん、ちょっと電話では話しづらい。お前…というよりお前の彼氏に話を持っていきたいんだよ。』
斉東多聞が、彼に?
何を。
「晦くんなら、お兄ちゃんは連絡先知ってるでしょう?直接電話すればいいじゃん。こんなお正月にさぁ、なんで私を介する必要があるの?」
早口にどこか棘のあるようにまくし立ててしまい、少し後悔した。あの部屋で感じた怒りがまだ収まっていない。
『アイツは包み隠さず何でも話すけどよ、だからこそ信用できねえっつーか……あえてお前から…アイツを知っているやつの客観的な視点がほしいのよ。』
「―――――晦くんが、どうかしたの?」
胸がざわめく。嫌な予感がした。真っ先に思い至った事を、兄は続ける。
『ツイタチ様というアカウントがあるのを知っているか?』
やはり、そこに繋がるのか。
タイミングが良すぎて口の端が歪む。
まるで計算されているようだ。
「――――――……うん。ついさっき知ったよ。」
隠してもしょうがないので、こちらも素直に返事を返す。
「…村上くんが私のアカウントといっしょにフォローしていたんでしょう?」
『…なにかあったのか?』
「別に、なんでもないの。久々に友だちと会って、その話題になっただけ。奇遇だね。」
『本当に、なにもないのか?』
「無いってば、大丈夫だよ。で、そのツイタチ様のアカウントがどうかしたの?」
フーっと息を吐く音がした。またタバコを吸いながら電話をかけているのだろう。
一息ついて兄は続けた。
『そのアカウントの持ち主が、晦かもしれない。』
「はあ…」
彼氏のアカウントは知っている。
趣味のゲームの考察やファンアートを引用して感想を述べるだけの小さなアカウントで、名前も意味のない単語を定期的に変更していた。今は確か「ビビデバビデガチャ爆死」だった気がする。
ツイタチ様という名前を用いてはなかったはずだ。インスタとフェイスブックは本名で登録している。
「そんなの、ますます本人に直接聞いたほうが早くない?」
『本人に知られたらまずいことがあるから、お前を介したいんだよ。』
彼に知られるとまずいこと。
村上が、宝物のように目を輝かせたアカウント。
友人を破滅寸前に追い込んだアカウント。
人が好きな彼が、そんな恐ろしいアカウントを作るとは思えない。
「本当にそれ晦くんが作ったものなの?」
『わからん。』
「わからんって…」
『ただ、俺と多聞だけじゃあ判断ができない。時間がないんだ、今行く。どこにいる?』
「待って、斉東くんもいるの?」
『そうだが。』
「ごめん。一旦家に連れて帰って。着替えたい。」
『本当に、何があった?』
「何も無いってば!コーヒーを零したから着替えたいの。」
よくわからない液体で染みだらけになったワンピースの端を握りしめる。フリルの中から蝿が飛び出てきたが、もう鳥肌すら立たなかった。一刻も早くすべてを洗い流してしまいたい。
こんな姿を見られれば、ますます怪しまれるだろうが、どうしても歩いて帰りたくなかった。
回復してきた鼻が、異臭を全身に運び始めていた。
「京子と3人で行ったレストランあるじゃない、中華の。あの店の前で待ってるから。お願い。」
『わかった。すぐ行く。ああ、あと俺が付くまで絶対にツイタチ様のアカウントを覗くなよ。』
「なんで?」
『それも後で説明する。とにかく、絶対に見るな。』
そこまで言うと一方的に電話を切った。
中華レストランの前まで付くと、中にはいるのも億劫なので寒い中一人で待つことにした。
見るなと言われれば、見たくなる。
スマホを操作し村上のアカウントを開く。
私的なアカウントからはブロックしていたのでそれを解除してフォロー一覧を見る。
ログインすること避けて8月から更新していない私の女優業宣伝アカウントと、もう一見ツイタチ様というアカウントが2つだけ並んでいる。こんなアカウントからフォローされた記憶はない。
アイコンはあの村でさんざん見かけた奇妙な招き猫。ヘッダーは尾道駅の写真。映り込んだ腕に入った見覚えがある入れ墨。確かに彼のものだ。
――――――――――――
1月1日
あけましておめでとー!!今年も一年人間讃歌!!
人間が楽しく幸福に生きていけるように頑張ります!!
1月1日
どうぞどうぞ参拝していってね!!今ならたんまりご利益あげちゃうよ!
――――――――――――
確かに、彼のいつものテンションとよく似ている。
似たようなことを常日頃、彼はよく喋っている。
呆れる程のしょうもなさも、同じだ。
恐らく、彼のものなのだろう。
このアカウントをみて、村上は何を思ったのだろう。
一体このアカウントのどこに、輝く一筋の光が見えたというのだろう。
――――人を殺すほどの、何があったというのだ。
朝から降り始めた雪が、辺を白く染めていく。
傘を持ってくるべきだった。寒くて仕方がない。
彼の毛髪のように白いそれを、兄が来るまでただじっと眺めていた。
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