第5話:もうあんたの娘じゃないし、あんたがくれたものを全部捨ててやる
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泣いたり愚痴ったり、そうかと思ったら空回りするやる気を出してみたりと、コクリコはそれから数日間、いつものように精神的にひどく不安定な状態で過ごした。こういう時、変に俺が気を回したりしない方がいい。そうすると俺も引きずり込まれる。一緒になってうつ病の深みにダイブしたくはないし、しない方がいい。
かといって俺が正常でずっといることは、コクリコにとっては辛くもあるだろう。ますます不安定な自分を直視するだろうから。コクリコが泣いても俺は泣かない。そもそも泣けないのだ。ただ黙って側にいるだけ。相当参っている時になると、コクリコは「シンジには分からないよね、この苦しさが」と俺にも当たってくることがある。
幸いこの日はましだった。そこまで見境なく当たることはなく、何度も「ごめん、シンジ」と言ってきた。そのたびに俺は「いいんだ」と答えるようにしている。それにしても『生きるのって難しい』か。コクリコはメンヘラだけれども、同時にそれだけ純粋でもある。普通の現代人は社会や他人に対しての緩衝材を用意しておくものだ。
それなしで生きていくことはほぼ不可能だからだ。でもコクリコは社会の枠組みから外れてしまった時点で、そんなものを全部失ってしまっている。むき出しの自分に、社会も他人も容赦なくぶち当たってくる。そんな状況でどうする? 心を病んで引きこもる以外に選択肢なんて無いだろうが。癒えない痛みだけが現実で、幸福は全部幻想の彼方だ。
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ひたすら愚痴と辛いことを吐いてふらふらになったコクリコだったけど、ようやくそれで打ち止めになったらしい。今はレトルトのカレーと、付け合わせに作った茹でただけのキャベツをゆっくりと口にしている。俺もほっとしつつ、向かいで同じものを食べる。
「シンジ……あのさ」
「ん、どうした?」
「シンジってさ、私の昔の話とか全然聞かないよね。関心ないの?」
「まさか。話してくれるなら俺は聞きたいよ。お前の過去」
当たり障りのない返答に対し、コクリコは目をおずおずと上げた。
「……すごく嫌な思い出とかあるし、死ぬまで誰にも話したくないこともあるから、適当でいい?」
「もちろん。でも話してくれるんだったらちゃんと聞くぞ」
「ん……」
コクリコは少し考えたようだったが、やがて話し始めた。
「私さ、中学二年の時に父親が蒸発してさ……家とかそういうのは残してくれたからいいんだけど、母も精神的にちょっと参っちゃったみたいでね。それで私は親戚の家に預けられたの」
俺は信徒の懺悔を聞く聖職者の気持ちで、ただ耳を傾ける。
「うん……それで?」
「そこでは一応普通に生活できたんだけど……なんか馴染めなかったっていうかさ。で、学校ではいじめられて、家に帰っても居場所がなくて……。母親ともう一回会いたいって、それだけが望みだったんだ。でもさ……母親、再婚したんだ」
俺はカレーを口に運びながら思う。子供のコクリコにとっては、自分が捨てられたと思った瞬間だろうな。
「なんかさ、可愛さ余って憎さが百倍、ってことわざがあるけど、それと同じだった。今までずっと大好きだった母親が、大嫌いに変わって……。私を捨てたんだって」
俺は無言でカレーを食べ続けた。コクリコが本当に話したかったことを、急かしたり飛ばしたりすることなく聞きたかった。でも黙ったままでは伝わらないので、先に俺が口を開いた。
「で、再婚した母親とは会ったのか?」
「……一度だけ会った。大げんかした。もうあんたの娘じゃないし、あんたがくれたものを全部捨ててやるって言って……別れた」
そこでやっとコクリコは俺の顔を見た。自嘲的な笑みだ。なんだかそれだけで俺の胸は締め付けられるようだった。割れた鏡の向こうに映るひび割れた姿のようだった。
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