第26話 思い出のコーヒーと懐かしい香り

電話のコールが鳴り響くオフィスフロア。


空翔は、仕事に熱中するあまり、いつの間にか肩書が平社員から部長まで昇格していた。そもそも、若い人は昇格したくないと断る人が多い。就職して3年も持たずやめていく人もあとを立たない。年を取って、仕事も慣れて、教えられる側から教える側に立ち、今では部下を仕切る立場に。いろんな場面で苦労はあるが、恋愛のこじれを戻すよりはまだマシと思ってしまう。女子の考えることは本当にわからないものだ。夏楓と別れて、結婚式にも参加してもう3年は過ぎた。式を出てからというものこれと言って、2人からの連絡は一切なかった。アメリカでの生活で忙しいんだろうと自分の生活に没頭していた。未だに独身。もう、誰かと付き合って傷つくは嫌だと前に進むのに臆病になっていた。


「部長、コーヒーは砂糖とミルクどっちも入れていいんですよね」

「あ、ありがとう。別にいいんだよ。自分で入れるから」

「いえいえ、部長は仕事に熱中しすぎて水分補給するの忘れてますから、倒れられても困ります。飲んでくださいね」

「あ、ああ。悪い。ありがとう」

 

 いつからかこの会社でのお茶出しはやらないことになった。男女差別だの仕事が多いだのクレームが入って、お客様以外のお茶やコーヒーは各自で飲むようにということになる。その代わり、ボタンを押せばすぐに自動で出て来るコーヒーマシンが導入された。コーヒーの種類も豊富でエスプレッソやカフェラテ、カプチーノ、抹茶ラテ、ココアなどファミレスのドリンクバー並みにある。職場で飲み放題なら、お茶出しされなくても全然不満はない。福利厚生も良いと評判になりつつある。

 むしろ、こうやって、用意してくれるのが珍しくなった。かえって目立ってしまう。ほかの社員からうらやましそうに見られる。それもそうだ。空翔に興味があると宣言された女子社員。石澤奈緒美いしざわなおみは入社して3年。ちょうど、夏楓と別れた頃だった。独身だフリーだと言ってしまった時から目をつけられていた。自分には適さないと断り続けていた。

 ため息をひとつこぼして、甘いカフェオレを飲む。いつも飲むのはペットボトルのお茶だったため、カフェオレを飲むのが久しぶりだった。夏楓のことを思い出す。ずっとブラックコーヒーを飲み続けていた。今は緑茶や麦茶などのお茶生活になって、コーヒーとは無縁の生活だった。あの頃が懐かしい。


 時刻は午後の5時。今日は何も予定は無かったが、無性に早く帰りたくなった。残業もせずにタイムカードを切る。部下たちも帰りやすくなるだろうという計らいだ。

 

「お先に失礼します」

「お疲れさまでした。部長珍しいですね」

「うん。まぁね。たまにはいいかなと思って……。みんなも早く帰るんだぞ」

「「「はーい、お疲れさまでした」」」


 数人のスタッフが返事をした。和気あいあいとした職場で過ごしやすい。今の雰囲気になったのはつい最近のことだ。

 石畳が広がる遊歩道。商店街を通ってから帰ろうと歩いているとどこからか匂いが漂う。もつ煮込みのお店だ。今日はここで食べて、飲んで気分転換してから帰ろうかなと思い立つ。その日に決めるのも空翔にとっては初めてのことだ。暖簾を避けて、カウンターの席に座る。静かなお店にお客さんが数人座っていた。


「いらっしゃいませ」


 マスターにおしぼりを渡された。古民家をリフォームした新しい個人経営のお店だ。1人暮らしになってから時々外食もすることも多くなる。1人黙々と食べる夕飯は寂しさで溢れて来る。


「お通しは肉じゃがです」


 青いおしゃれな小鉢に入った肉じゃがを出された。おふくろの味のように優しくて懐かしい味だ。しばらく家で食べたことがない。生ビール片手に1人で味わった。


 また1人お客さんが入って来る。近くを通り過ぎて嗅いだことのあるムスクの香水が漂った。


「いらっしゃいませ」

「生ビールひとつ」


 白いフリルのオフショルダーに黒のデニムショートパンツを履いていた女性が隣に座った。ほかにも席は空いているのに。


「今日も暑いですね」

「そうですね。食欲も減りますよ」


 マスターとその女性は知り合いのようだ。空翔は顔を見るのは失礼だと横で声を聞くことしかできなかった。黙ってビールを飲む。よく考えると聞いたことのある声だった。


「あれ……」


 その女性は空翔を見て、指差して驚いていた。




 

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