第十四話:鈴川さんがクズなクソヤローなのか、そうじゃないのか。確かめましょうか?

 突然発されたリカと呼ばれた女性の叫び声に、まばらにいたフードコートの客らが鈴川たち二人をちらりと見た。あれほど耳に騒々しかった喧騒が静まりかえる。


 俺達も例に漏れてはいない。思わず鈴川たちの方を見てしまう。


 しかし、衝撃だったのは鈴川も一緒のようで、開いた口が塞がらないといった様子だ。俺達に気づく素振りはない。


「おなっ……あかっ……」


 よくある痴情のもつれであると判断したのか、周囲の人間も興味を失い、遠くなった喧騒が戻ってきた頃、鈴川が言葉をつまらせながら声にならない声を出す。


「どっ、どういうこっ」

「そのままっ! お腹に! トウジのっ! 赤ちゃんいるのっ!」


 今度は喧騒が消え去ることはなかった。


 しかし、こと俺自身の状況を述べるなら、ざわめくフードコートなどすっかりと意識の外だ。


 混乱する頭をなんとか落ち着かせようと、思わずスマートフォンを握る力が強くなる。

 他人事だ。そのはずだ。にも関わらず、手の中のスマートフォンが熱く感じ、手は汗でぬめる。


 ――そうだ、ヒマワリは?


 俺はヒマワリの方を見る。

 ヒマワリはもう、今にも泣き出しそうな顔で、力いっぱい眉をハの字にし、眉間に縦皺を作っている。


 まずいと感じた。ヒマワリが限界を迎えている。なんとなくそう思った。


 身構える。次にヒマワリが取りそうな行動は、すぐに想像できた。

 俺は機先を制し、立ち上がる。もう鈴川にバレても構わない。


 勢いよく立ち上がろうとしたヒマワリの腕を取る。瞬間、「どういうつもりだ?」と言いたげな目が俺を捉えるが、気にしない。


 ここにいてはいけない。特に、ヒマワリは。


 少しだけ岡平さんに申し訳なく思いながらも、自分は絶対に動かないぞとばかりに全身をこわばらせるヒマワリを力任せに引っ張る。

 俺は帰宅部で、ヒマワリは運動部だ。


 しかし、流石に男の俺が本気を出して、女であるヒマワリに力負けすることはない。

 少し危うかったが。


 そのまま、フードコートを駆け抜ける。ヒマワリの必死の抵抗が、思った以上に強い。

 駆け足と言うにはのろのろとした速度ではあったものの、それでも十秒とかからずにフードコートから抜け出すことができた。


 今になって、息が上がっていることに気づく。


 衝撃的すぎて俺の身体は呼吸を忘れていたのだろうか。荒い呼吸音が頭の中で響いていた。

 それはヒマワリも一緒のようで、ふーっ、ふーっ、と深く早い呼吸を繰り返している。


 いや、正確には一緒とは言えない。少しだけ違う。


 俺は驚いて息切れを起こしているのに対し、ヒマワリは興奮と怒りで息切れを起こしている。


 フードコートからだいぶ離れたところで立ち止まる。

 ヒマワリが腕を掴む俺の手を強引に振りほどいた。


「ヨウ! どういうつもりっ!」


 涙を必死でせき止めていたヒマワリの努力は、すっかり無駄になってしまっていた。


 眦から大きな滴が頬を伝い、マスクを濡らす。


「落ち着け」

「落ち着けるかっ!」

「いいから、落ち着け。お前何しようとした?」

「鈴川さんにっ、あの女に、本当なのか問い詰めてっ!」


 ため息を吐く。


「なんの意味がある?」

「なんの……って」

「お前があの二人の会話に割り込んで『それは本当なのか?』と騒ぎ立てたところで何になった?」


 何にもならない。


 いくつか仮定して整理しよう。


 まず、鈴川とリカという女はどれくらい前かは知らないが、恋人同士だった。そこは間違いないだろう。

 付き合っていた頃は、ずいぶんと甘々な関係だったようだ。少なくとも、周囲の目はそうだったろう。


 あのメンヘラ女――リカと呼ぶのもおぞましい――の口ぶりからするとおおよそそこまでは推測できる。


 次に考えなければならないのは、「メンヘラ女が妊娠している」ことが事実か否か、だ。


 直感として、事実であろう、と俺の頭は軽率に結論を導き出そうとしている。

 だけど、少しばかり判断が早すぎないか? と思う俺もいる。そう思いたい。


 だから、一旦ここからは仮定だ。仮定としよう。


 諭すようにヒマワリに話しかける。


「もし、あの女が言っていることが本当だったとしよう」

「本当だったらって……」

「お前が突入して、騒ぎ立てて、状況が改善したか?」


 ヒマワリが言葉を詰まらせる。


「それは」

「一方で、もし、あの女が言っていることが嘘だったとしよう」

「嘘なの?」

「わからん、黙って聞け」


 そう。現時点では半々なのだ。事実でも嘘八百であったとしても、そのいずれかの可能性を高く見積もる材料はない。


 あるとすれば、「二人は付き合っていた」ということと「そういった行為が二人の間でなされていた」というものだが、それすらも判断が難しい。


「あのメンヘラクソ女が、お前が突入して、騒ぎ立てたとして、『嘘でした』なんて言うと思うか?」


 ヒマワリが黙り込む。そのまま俺達は見つめ合った。


 数秒、ヒマワリがゆっくりと口を開く。


「そう……だけど」

「だから、あの場にお前が現れてもどうにもならない」

「でもっ!」

「あー! 喚くなっ! 今考えてるっ!」


 どうするべきだろうか。俺は。ヒマワリは。


 もし、メンヘラ女が妊娠していたことが事実だったとしよう。

 鈴川が取れる選択肢は二つ。


 ユリカさんとの婚約を解消し、メンヘラ女と結婚する。


 もしくは、メンヘラ女に妊娠中絶をさせる。


 どちらかだ。その二つしか選択肢がないということが最悪だ。


 では、嘘八百だったとしよう。

 鈴川が取れる選択はいくつもある。


 メンヘラ女の嘘を暴き、二度と近づかせないようにすること。すべての連絡経路をブロックし、関わらないようにすること。

 仮に、付きまとわれていたのなら、ストーカー被害を警察に相談すること。第三者に説得してもらうこと。メンヘラ女に新しい男をあてがうこと。


 複数の手段を同時に使っても良い。


「……くっ、あー!」


 頭をかきむしる。

 兎にも角にも、妊娠した、という証言の真偽を確かめないことには話が始まらない。


 ぼろぼろと涙を流しながらしゃくりあげるヒマワリを視界に収めて、考える。


 そもそも、なんで俺がこんな面倒なことを必死で考えてるんだ?

 放っておけば良い。


 これで晴れて、鈴川とユリカさんの婚約はご破産だ。

 ユリカさんは傷つき、しばらくは引きずるかもしれない。

 もしかしたら、男性不信になるかもしれない。

 もう恋愛なんて懲り懲りだ、なんて思うかもしれない。


 そんなユリカさんをいつか立派になって迎えに行けば良い。ほかでもない、この俺が。


 なのに、なんでだ。


 頭は思考を止めない。脳みそは今この瞬間も、現状の打開策をいろんな角度から検証している。


 願ったりかなったりじゃないか。

 こじれれれば、こじれたぶん、俺にとってのチャンスが増える。


 なんで、俺は、こんなに必死なんだ?


「ヨウ……」


 絶望に瞳を染めたヒマワリが、すがるように俺を見る。


 わからない。わからないが。


 今この状況に、俺は「最悪だ」と感じている。そのことだけはわかる。


 それだけが事実・・だ。


「ヨウ君! ヒマワリちゃん!」


 立ち尽くす俺とヒマワリのもとに、岡平さんが駆け寄ってきた。


「探しましたよ」


 肩で息をしながら、俺達に呼びかける岡平さんのほうへ、ヒマワリが振り返る。


「岡平さん……アタシ、どうすればっ!」


 マスクを邪魔に感じたのか、右手で剥ぎ取ってヒマワリが言う。


「ヒマワリちゃん……」


 岡平さんが、実に複雑な感情を秘めていそうな目でヒマワリを見た。

 その後で、きっ、と顔を整えてヒマワリに語りかける。


「ヒマワリちゃん。落ち着いてください」

「落ち着けるわけっ――」

「いいですか? あの女の人は嘘を言っている可能性が高いです」


 岡平さんの言葉に、ヒマワリが言葉を失う。「え?」と、呆然としたような声だけを上げて。

 俺も同じく口をあんぐりと開けた。


 ここまで俺たちが望んでいた言葉を、さらりと投げかけられるとは思っていなかった。


「整理します」


 ゆっくりと岡平さんがヒマワリに近寄り、その肩に手をかける。


「ヒマワリちゃん。鈴川さんとお姉様がお付き合いされたのはいつですか?」

「だいたい三ヶ月前……いえ、もっと前かも……です」

「わかりました。良いですか? これから私の主観や、独断と偏見が思い切り詰まった仮説を話します」


 岡平さんがそこまで言ってから、大きく息を吸う。


「鈴川さんは誠実なお方です。二人と同時に付き合うようなクズ男とは思えません。ちゃんと、あの女性との関係も精算してから、お姉様とお付き合いをされたはずです」


 怪しくも、その仮説は俺が立てていた片方の可能性とほぼ同じであった。


 そして、岡平さんが話し始める内容は、高校生という俺の幼い人生経験からは行き着かないものでもあった。


「鈴川さんとお姉様がお付き合いを始めたのが三ヶ月以上前だとしたら、あの女性は少なく見積もっても妊娠四ヶ月くらいは経っています」

「どうして三ヶ月じゃないんですか?」

「妊娠した時の月数の数え方は、最後の月経開始日から数えます。保険の授業で習いませんでしたか?」


 習ったような、習っていないような。俺は記憶を引っ張り出す。保健体育なんて、体の良い自習の時間だ。俺にとってはそうだった。

 いくら記憶を探ってもそのような知識はない。


 ただ、記憶を探った後で、女性の妊娠などに対して知識が十二分にある男子高校生というのも気持ちが悪いことに気付き、やめた。


「お付き合いしている女性が他にいるのに、鈴川さんがお姉様と仲良くなろうとするというのも、あまり考えられません。ですから、もっと経過している可能性もあります」


 岡平さんの瞳は真剣だ。だからこそ、ヒマワリを落ち着かせるためにあることないことを、まくしたてているわけではないと感じる。

 ただ俺が、そのように感じたいのだけなのかもしれないが。


「それに、ヒマワリちゃん。思い出してください」

「な、何をですか?」

「女の人の服装をです」


 メンヘラ女の服装……。あまりちゃんと見ていなかったが確か。


「スキニージーンズとタイトなTシャツ」


 ヒマワリが答える。そうだそうだ。

 やけに細身のパツパツとしたジーパンを履き、身体のラインを強調するようなTシャツを身にまとっていた。


「妊娠四ヶ月以上ともなれば、少しずつお腹も膨らみ始めてきます。あんなに細身の、タイトなジーンズを履くのは余り考えられません。少なくともウエストがきついです」


 続けて、「勿論、マタニティスキニーも売ってはいますが……あのTシャツからは余り考えられませんよね」と岡平さんが小さく言った。


「それに、あの女性がどういう思考回路をしているかわかりませんが、安定期に入ってから父親かもしれない男性にそれを告白する、というのは一般的に考えにくいです」

「どうしてですか?」

「中絶手術も、初期と中期ではリスクが大きく違います」


 岡平さんが深呼吸した。


「あの女性の態度、私にはひどく計算高く見えるんです。なりふり構わない、判断力の欠如した女性とは思えません。鈴川さんを糾弾するように喚いていらっしゃいましたけど、目は常に鈴川さんの様子を冷静に見ていました」

「そうなんですか?」

「わかりません」


 岡平さんが、ふっ、と笑う。


「だから言ったじゃないですか。私の主観や独断と偏見が思い切り詰まった仮説だ、と」


 つまるところ、岡平さんは「普通の感覚であれば、ずいぶんとお粗末な設定だ」と言っているのだ。


「それに、中絶にはお金もかかります。初期であれば十万円から二十万円。中期であれば、最大で五十万円。経済的にもリスクなんですよ?」


 岡平さんの話す内容は理路整然としていて、否定する材料を見つけることができない。


 ただ一点、少し気になった至極どうでも良いことを俺は思わず口に出した。


「お詳しいんですね」

「ちょっと前、妹が大恋愛をしでかしまして」

「それは……」

「あ、ご心配なく。大恋愛の末、なんだかんだちゃんと結婚して子供も産みましたので。幸せそうですよ」


 俺を見て、岡平さんがにこりと微笑む。それから、もう一度ヒマワリを見つめて言う。


「ヒマワリちゃん」

「はい」

「私の理屈の中で一つだけ、覆されるとすべてが破綻する部分があります」


 どこだ? 俺からすると反論材料のない推理に聞こえた。

 岡平さんの「主観と独断と偏見」が詰まったものだとしても。


「どこですか?」

「それは、今までの推理は飽くまで『鈴川さんが誠実なお方である』ということが前提になっている、ということです」

「あっ」


 ヒマワリが息を呑む。俺も同じだ。


 確かにそうだ。岡平さんが言うように、その点が崩れ去れば、今までのすべての話が違ってくる。


「ですから、確かめましょう」


 岡平さんはずっと笑顔だ。マスクをつけていてもわかるほどに。


「私だって、ヒマワリちゃんほどじゃないですが、怒っているんですよ?」


 その笑顔が空恐ろしい。


「鈴川さんがクズなクソヤローならそれはそれで。あのクソ女が嘘八百を言っているならそれはそれで」


 向けられた対象を呪い殺しそうなほどの、凄惨な微笑みだ。


「さて、私はどちらに対してこのふつふつとこみ上げる怒りをぶつければよいのでしょうか? どちらにしても、由々しき事態です。なのでまずは――」


 岡平さんがマスクを取った。あらわになった口元は、口角が異様につり上がっていて三日月のようだった。

 小動物のような印象? 誰だ最初にそんなイメージを彼女に抱いたのは。とんでもないことだ。


「鈴川さんがクズなクソヤローなのか、そうじゃないのか」


 今までのイメージとは全く想像もつかない、爬虫類を思わせる微笑みを浮かべて岡平さんが言った。


「確かめましょうか?」

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