第62話:決着

  2029年8月15日


 誰一人、おじいちゃんに一撃を与えられずに迎えた、山籠もりの最終日。

 徹夜修行で寝不足なはずなのに、わたしの目は不思議と冴えていた。


 まだ星の見える明け方から、滝の頂上の岩に座禅し、山の変化を飽きることなく見続けていた。


 ――太陽の気配を感じる。

 微かに差し込む朝陽が、東の空を、ほんのりとした桃色、オレンジ色、そして水色へと染め変えていく。


 鳥、獣、樹、風、そして空気。

 あらゆるものの動きに意識をゆき渡らせる。


 おそらくおじいちゃんは、森のどこかに気配を殺して潜んでいる。

 そして、隙を見せた順に、襲い掛かってくるはずだ。


 おじいちゃんの気配を感じられる唯一の瞬間が、その襲撃のタイミングだ。

 その機を逃せば、まるでカメレオンのように、再び気配を自然に溶け込ませてしまう。


 そうなると、その姿を見つけることさえ困難になる。


 わたしは、滝の上の岩で座禅を続ける。


 1時間ほど経っただろうか。


 東の方角から、”ぱんっ!”とソジュンの銃声が響いた。

 次いで、西の中空にアレクの矢が放たれる。


 それに呼応するかのように、南の木の枝がしなり、鳥が羽ばたく。

 恐らくミゲーラが蹴り上げたのだろう。


 最後に、北に位置する木の幹が”カンッ!”と乾いた音を立てる。

 夢華の三節棍だ。


 東西南北からほぼ同時に合図が放たれたのは、もちろん偶然ではない。

 おじいちゃんを見つけられないのであれば、四方から徐々に包囲網を狭め、炙り出そうという作戦だ。


 個の力では、いずれもおじいちゃんに劣るわたしたちは、一対一になった時点で敗北することは目に見えている。


 だから、一対多に持ち込むことが勝利への絶対条件だ。

 おじいちゃんが言ったように、あらゆるものを利用するしかない。そう、人も自然も。


 わたしは、深く深呼吸し、フローを経て、ゾーンへと入る。

 ――森のあらゆる変化を見逃すな。


 全力で集中し、俯瞰目線で、違和感を探す。

 気配を消すのが天才的に上手いおじいちゃんであっても、体重を持つ生身の身体を持っている以上、どこかに痕跡は残るはずだ。


 東の方のある木の幹に、鳥が留まろうとし、思いとどまったかのように翻って飛び去ったのが見えた。

 わたしは目を凝らす。


 わずかだが、木の枝がしなっているのが感じ取れる。


 ――あそこだ。


「三時方向!ソジュン、おじいちゃんは!!」

 わたしは、能うかぎりの大声で、森中に向かって叫ぶ。


 おそらく、おじいちゃんは、ソジュン側の防御網を突破するつもりだ。

 一対一にさせてはいけない。


 そして、全力で斜面を駆け降り始める。

 木の枝がわたしの身体を容赦なく鞭打ってくるけど、気にしてはいられない。


 ”最短距離で駆け抜けろ!”

 わたしは自分に言い聞かせる。


 パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!


 ソジュンの銃声が立て続けに聞こえる。

 連撃がおじいちゃんに当たることはないにせよ、時間稼ぎにはなる。


 わたしがソジュンのもとにたどり着いたとき、夢華とミゲーラもまた、駆け付けたところだった。

 アレクの姿はまだ見えない。


 おじいちゃんの位置から最も遠かったせいか、あるいはあえて距離を取っているのか。


 わたしたちは、30メートルは下回らないであろう、巨大なヒノキを見上げる。

 樹齢500年は優に超えているだろう。


 まだその姿は見えないが、この樹上に、おじいちゃんが潜んでいるはずだ。


 そのとき、”ひゅっ”と空気を裂く音が響き、”カッ”と何が幹に刺さる音がした。

 アレクの弓矢だ。


 ここから数十メートル東の樹上から、アレクがおじいちゃんが潜む木を射たのだ。

 その後も、立て続けに矢を射続ける。


 ――この布陣なら。

 わたしは、包囲網の穴を埋めるべく、西方向にその身を置く。


 やがて。

 ざわっと、葉と葉が擦れる音を立てたかと思うと、枝から枝へと器用に飛び移り、おじいちゃんが地上へと降り立ってきた。


「これと、これかの」

 そう言って、おじいちゃんは、落ちていた木の枝を二本拾い、ひゅっと一振りする。


 いずれも、50cmほどの木の枝それは、普通の人にとっては、武器になど到底ならない。

 けど、おじいちゃんが持てば、すぐさま凶器へと変わる。


 東にソジュン、西にわたし、南にミゲーラ、そして北に夢華。

 わたしたちは、包囲網を崩さずに、慎重に距離を詰めていく。


 数的には圧倒的に不利なはずなのに、おじいちゃんに全く焦りはない。

 まだ、フローの状態を保っている。


 おじいちゃんは、わたしたちをぐるりと一瞥する。

 

 ――全く隙が見えない。


 おじいちゃんの怖さは、フローからゾーンへの切り替えの早さにある。

 普通の達人であれば、心を整え、それから順を追ってゾーンに入る。


 一方、おじいちゃんは、常にフロー状態を保ち、攻撃された瞬間にゾーンへと切り替えることで、即時に迎撃できる。だから、脳波の消耗も最低限で済むし、相手も気配が悟れない。


 その無言の圧力に耐えかねたのか、ソジュンが引き金に指をかける。


 ――ダメ。今、ここで撃ったら……。


「撃つな。対角線上の味方に当たる」

 すんでのところで、夢華が制止する。


「まずは全員、呼吸を整えて、ゾーンに入りなさい」

 夢華と、わたし、そしておそらく後方のアレクは既にゾーンに入っている。


 ミゲーラ、そしてソジュンのゾーンはまだ不完全だ。

 二人は改めて深呼吸し、フローに入り直す。そして、数秒後にはゾーンへと至る。


 夢華は緊張を崩さずに言う。

「まずは、わたしが全霊を賭けて攻撃する。それでも、おそらく斬り合えるのは、二十手が限度だと思う。体力を消耗させ、最後に一斉攻撃に移るの」


 おじいちゃんは笑う。

「十七手じゃよ」


 おじいちゃんは、そう断言し、二本の枝を構えた。

 その構えは、剣術にしてはあまりに奇妙だった。


 まるで獣が、二つの爪を誇示し、威嚇するような……。


 ――あれって、もしかして……。

 たぶん今、わたしたち全員の脳裏には、全く同じ映像が浮かんでいることだろう。


 夏美さんが見せてくれた、火龍の舞の映像が。


 あの舞のストーリーは、7人の舞い手が、一人ひとり順に火龍に立ち向かい、いずれも返り討ちに遭ってしまう。

 ただ、最後には、7人が力を合わせ、火龍を鎮め、地に還ってもらうという結末だ。


「やあああああ!」

 夢華が三節棍で攻勢をかけ始める。

 おじいちゃんは木の枝で、それを何なく受け流す。


 そしてきっちり17手目。

 夢華の三節棍が叩き落される。


 ……と、同時に、おじいちゃんの斬撃がわたしへと移る。

 すぐに、防戦一方になる。


 だけど、おじいちゃんは、すぐにとどめを刺す気がないようだ。

 倒す、というよりもまるで稽古をつけてくれているかのようだ。


 今度は私の竹刀が弾き飛ばされた。

 標的がソジュンに向かい、次いでミゲーラ、そして最後に木から降りてきたアレクと順に対峙する。


 火龍の舞のストーリーさながらに、やがてわたしたちは全員でおじいちゃんに立ち向かう。


 わたしたちは不思議な感覚が貫いていた。

 他の誰が、どう動くかのイメージが鮮明に脳裏に浮かぶのだ。


 修行で疲れ果てているはずなのに、体は自然と動き続ける。

 まるで全てが、あからかじめ決められた舞のようだ。


 気が付けば、しっとりとした驟雨しゅううが森を濡らしていく。

 誰一人として気にせずに、おじいちゃんとわたしたちは舞い続けた。


 わたしたちの最後の一太刀が、ようやくおじいちゃんに届いたころ。

 雨はとうに通り過ぎ、七色の虹が、祝福するかのようアーチを描いていた。


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