第61話:落水

 ――死んだかと思った。

 髪までぐしょ濡れになりながら、わたしは落水の瞬間を振り返る。


 十数合切り結んだ後のことだった。

 三節棍をみぞおちに喰らって激流に飲み込まれたわたしは、すんでのところで、夢華がアレクに助けられた。


 もしあと数秒遅ければ、わたしは数十メートル下の滝つぼに落下し、命を失っていただろう。


 わたしが水中に落下する瞬間。

 全てがスローモーションのように、わたしの眼には映っていた。


 アレクが、矢を放った。

 その矢は奇妙な軌道を描き、夢華に向かって飛んでいく。


 そして、信じられないことに、のだ。


 私の身体が水に飲み込まれるのとほぼ同時に、夢華も水中に飛び込み、私を抱きかかえる。

 だが、いかに夢華でも、人を抱えて激流を泳ぎ切るのは不可能だ。


 ――ダメだ、二人とも流される。

 そう観念した瞬間、強い力で引っ張られた。


 後で聞くと、夢華の手に握られていた矢には、ひもくくり付けられたいたらしい。

 それを岸からアレクが引っ張ることで、急流に逆らい、どうにか岸までたどり着くことが出来た。


 全ては数瞬の出来事だった。

 命が懸っている状況にもかかわらず、二人には寸分の焦りもなかった。

 まるである種のルーティーンであるかのように、流れるように一連の動きをこなしていた。


 わたしは実感する。

 ゾーンに入るだけでは不十分なのだ。


 ゾーンは極度に集中することで、脳の認知速度を高めているにすぎない。

 周囲の動きがゆっくりに見え、次に何が起こるのかを予測することまではできる。


 だけど、それに合わせて身体を動かすには、高い身体的練度が求められる。

 夢華もアレクも、気の遠くなるような鍛錬を続け、そこを積み重ねてきたはずだ。


 そして、おじいちゃんは、更にその数倍の時間をかけて、あの領域に達している。

 夢華やアレクをして、なお届かない高みへと。


 ぜえぜえと息をするわたしを、河辺の岩に寝かせた夢華は、いつもよりは少しだけ優しい口調で言う。

「さっきの打ち合いは、今までで一番マシだったわ」


 実際に打ち合ったのは十数回に過ぎない。

 でも、脳内ではその十倍以上の打撃と防御が繰り返されていた。


 ほとんど闇雲に戦っていた過去のどんな試合よりも、濃密な時間だった。


8月15日最終日まで残り3日。そのときまでに、その密度の鍛錬を繰り返しておいて」

 まるで、お姉ちゃんが妹に宿題を与えるかのような口調で言う。


「もう行くわ。おじいちゃんと戦える時間を、一瞬たりとも無駄にしたくないから」

 そう言って、濡れた服を乾かすこともなく、夢華は踵を返す。


 アレクは、いつもの本気とも冗談ともつなかない表情でいう。

「もし良かったら、服乾かすの、手伝おうか?」


 夢華が無言で三節棍を振り上げる。


「はは、ジョークだよ。スペイン風のスパニッシュジョークってやつさ」

 軽く肩をすくめて、アレクも夢華の後を追うように歩きだす。


 二人の背中を見送ると、わたしはふたたび岩に寝っ転がる。

 陽光で温められた岩の熱を背中に感じる。


 わたしは残された3日間のことを考える。

 恐らく、一対一では、誰一人としておじいちゃんに一撃を与えられないだろう。

 それほどまでに、今のおじいちゃんの強さは神懸っている。


 だからこそ、共闘が解禁される最終日。

 人も武器も自然も、それこそあらゆるもの利用した、全方位からの連携攻撃に賭けるしかない。


 わたしは、再び竹刀を取る。

 今はまだ、自分が主役じゃなくてもいい。周りを活かすことで、掴める光もある。

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