第60話:見えるもの

 急流からわずかにせり出す岩の上で、わたしは夢華と対峙する。

 足場はいかにも不安定で、滑らせれば、すぐに激流に飲み込まれてしまうだろう。


 ――そして、一気に滝の下まで叩きつけられる。


 わたしの脳裏から、数十メートル下の滝つぼに自分が呑み込まれるイメージが、こびりついて離れない。


 足がガクガクと震え出す。


 夢華が呆れ声で言う。

「これでよく、カミラと戦えたものね」


「あ、あの時は、こんな危険な場所じゃなかったから」

 わたしは弁明する。


「失敗したら、自分が死んでいたことには、変わりないのに?」

「悠くんを助けるのに必死で、それどころじゃなかったし……」


リンあなたは、


 夢華は三節棍を一振りして、一本の棍へと変える。

 その棍を小さな岩に突きたてると、それを軸にして、自らの身体を宙に押し上げた。


「あ、危ない!」

 わたしは思わず、声を上げる。


 次の瞬間。

 夢華は、その棍の上で、の姿勢でピタッと静止していた。


 その身体には一切のブレがない。

 落ちたら激流に飲み込まれるにもかかわらず、優美な美しささえ漂わせながら、その身を宙に留めている。


 そして、彼女は静かに目を閉じた。

 そのアクロバティックな体勢とは裏腹に、夢華の姿はまるで風景に溶け込んでいるように自然に見える。


 ――まさか、この状態でフローに入っている?


 やがて静かに夢華は岩場に降り立ち、三節棍を構えなおした。

「自分がどこにいようと、関係ない。雑念を捨て、自分自身の波と、周囲の波を一体化させること。それがフローの本質」


 気が付くと、私の足の震えはおさまっていた。

 夢華の美しさに気を取られ、滝や足場のことは頭から消えていた。


 わたしは竹刀を正眼に構え、目を閉じる。


 ”ざぁぁぁぁ”と、水音が聞こえている。

 水面で、”ぴちゃっ”と何かが跳ねた音がする。


 夏の緑の匂いがする。

 風が頬を撫でる。


 何かが宙を舞って私に近づいてくる。

 あれは、木の葉?


 わたしは静かに目を開け、青さの残る楓の葉を、竹刀の尖端に乗せる。


 夢華が言った通りだった。

 わたしは目に見えるものに囚われすぎていた。


 視覚を閉じるだけで、他の感覚が研ぎ澄まされ、周りをここまで鮮明に感じることができる。


 ――もしかして、これがおじいちゃんが普段から見ている、いや感じている世界なんだろうか?


「さ、始めるわよ」

 そういって、夢華が三節棍を構えなおした。


 まるで、燃え上がる炎のように、夢華の気持ちの昂りを感じる。

 間違いない。ゾーンに入った。


 わたしも、内なる気を高める。

 ゾーンへと至るため、意識を集中させ、脳波を増幅させる。


 周囲の時間が、ゆっくりと流れだす。

 夢華の呼吸が感じられる。


 短く息を吸った。

 三節棍を握った右手に力が入る。


 、数瞬後、夢華の打突が来る。

 それを剣先で跳ね返すイメージが脳に浮かび、僅かに竹刀の切っ先を上げる。


 夢華が少し微笑んだ気がした。


 三節棍を左手に持ち替える。

 わたしが後の先を取ろうとしたイメージを、夢華もまた感じ取ったのだろう。


 わたしたちは動いていない。

 でも、脳内では既に、幾十の打撃を繰り出し合っている。


 そして、わたしは実感する。


 やっぱり、夢華には敵わない。

 脳内イメージが間に合ったとしても、斬撃スピードそのものに彼我の差があるから。


 いずれ、彼女の一撃が私の身体に刻まれるだろう。


 ――それでも、その全てを受け止めて見せる。

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