第58話:裏側

「誰?」

その声は、滝の中から響いてきた。


――いや、違う。

この声の反響の仕方は、おそらく、洞穴ような場所から発せられているはずだ。


三式島の、蝙蝠こうもり洞窟での会話を思い出す。


もしかして……。

滝の裏側に、洞窟が存在している?


どうせ雨に濡れた服だ。

わたしは、思い切って滝つぼの中に入る。


水深は膝ほどまでしかない。

ただ、夏とはいえ、滝の水はやはり冷たい。


わたしはじゃぶじゃぶと水を掻き分け、遥か高みから落下してくる水に触れる。

思いのほか水の膜は薄く、手がすっと奥の空気に触れる。


――やっぱり、滝の裏側に空洞がある。


一歩、足を踏み入れる。

雨雲が光を遮っているせいか、薄暗くて視界が悪い。


「誰か、いるの?」


竹刀に手をかけ、そうわたしが口にする。


ひゅっと何かが風を切った。

わたしの左の側頭部に、何かが付きつけられる。


――しまった。

正面でなく、左方向に潜んでいたのか。

警戒していたにもかかわらず、気配が全く感じ取れなかった。


頭は動かさず、横目でそれを見る。


それは、見覚えのある三節棍だった。

「ゆ、夢華……?」


「やっぱり、リンなのね」

そう問うわたしに、横から、ため息のような声が漏れる。


「相変わらず、隙だらけね」

そう言って、夢華は三節棍を下げ、歩み寄ってきた。


普段夢華が着ている現代風の中国服漢服は干されていて、スリットのような下着一枚になっている。スタイルの良さが浮き彫りになる。


「夢華、なんでこんなところに?」

「決まってるじゃない。おじいちゃんを倒すためよ。いくら達人だろうと、1週間水を飲まないわけにはいかない。水場ここには必ず寄るはず」


そうか。

わたしのように闇雲に歩いていたんじゃ、おじいちゃんの居場所を突き止めることさえ難しい。

結局、相手に先手を打たれっぱなしだ。


「ま、結局は、侵入されて、倒されちゃったけどね」

そう自嘲する。


「夢華は何回、おじいちゃんと戦った?」

「4回。人生で、同じ相手にここまで負け続けるなんて、初めてよ」


――ただ、と夢華は言う。


「徐々に切り結べるようにはなってきている。何があろうと、あと3日以内タイムリミットまでに、必ず一撃くらわせてやるわ」


わたしなんて、おじいちゃんの姿さえまともに視界に捉えられていないのに――。

姉妹にもかかわらず、圧倒的な実力差にさすがにへこんでくる。


”ぐるるるる”

そんな焦りとは裏腹に、わたしのお腹は呑気な音を立てる。

空腹は待ってくれない。


「お腹すいているなら、わたしの携帯食を食べていいわよ。口、つけてないから」

「え!?食べてないの」


夢華は平然と答える。

「だって、おじいちゃんも言ってたでしょ。水さえ飲んどきゃ、1週間くらい食べなくても死なないって」


「でも、体は、大丈夫なの?」

夢華の顔をまじまじと見る。

確かに、五日前よりも、更に痩せた気がする。


ただ、その瞳は意思の炎で燃えている。

「むしろ、感覚が研ぎ澄まされていく感覚があるわ。昔の修験者は絶食して悟りを開いたって聞いたけど、案外本当かもしれない」


夢華の実力はまだまだ底が見えない。

わたしとの対戦のときも、おそらく一度も本気を出していない。


――このままじゃ、一生夢華には追い付けない。むしろ、差は開く一方だ。

「夢華、わたしと、真剣勝負をしてくれない?」


「真剣って意味、分かってる?」

わたしの眼を見返す。


「分かっている……つもり」

「なら、いいわ。じゃ、外で手合わせしましょう」


わたしたちは洞窟の入り口へと向かう。


山の天気は変わりやすい。

気が付くと、雨は止んでいた。


滝の水を透過して、洞窟の中に光が差し込んできている。

まるで、天女の羽衣が舞い降りてきたような、神秘的な光景だ。


見蕩れているわたしを夢華が、厳しい口調で戒める。

「この滝の外に出た瞬間から、常在戦場だと思いなさい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る