第57話:目印

2029年8月12日


あー、お腹すいた……。

残り僅かになった干し芋をかじりながら、わたしは山野を踏み歩く。

8月8日に始まった山籠もり修行は、既に5日目を迎えている。


――正直、ここまでシンドいとは思わなかった……。


雨が降り出してきた。

ぬかるみは俊敏な動作を奪う。


”ざざっ!”

左前方で、僅かな音が鳴る。


わたしは竹刀を握り、足音に耳を澄ませる。

リズミカルで軽い、跳ねるような足音。

恐らく、小動物の類だろう。


竹藪からリスが飛び出してきた。

わたしはほっとして、竹刀を握る手を緩める。


不意に反対方向右前方から、何かが飛んできた。

私は慌てて、竹刀を握り直し、迎撃態勢に入る。


それは小さなヤマガラだった。

つややかな黒と白、そして鮮やかなオレンジが織りなす羽模様と、真っ黒でクリンとした小さな目。


三式島でもよく見た鳥だ。

美紀ちゃんと一緒に餌をやっていたことを思い出し、思わずほっとする。


突如、後頭部に何かがぶつかってきた。

弾力のある何かが。


思わず、振り向くとそこに人影はない。

足元には、細長い楕円形で、両端がやや尖っている薄紫の果物が落っこちている。


――アケビだ。


恐らくこれも、おじいちゃんの仕業だろう。

これが例えば銃弾だったら、わたしは頭を貫かれ即死していた。


たぶん、飢えたわたしを見かねて、慈悲をかけてくれたんだろう。


わたしはアケビを手に取る。

ほんのりと甘い香りが漂い、熟したアケビの甘いイメージが、わたしの口の中に広がる。


かぶりつきたい衝動にかられる。

すんでのところで思いとどまる。


――ダメだ。

ここで妥協したら、修行の意味が薄れてしまう。

せめて自分が食べるものは、自分で獲るべきだ。


わたしは、アケビを地面に戻し、前に進んでいく。


――それにしても。


これが実戦なら、もう何度殺されているだろうか。

初日だけで5回襲われ、5回殺された。


その後は気を張り続けたせいか、2、3、4日目と進むにつれ、少しずつ襲われる回数自体は減ってきた。


それでも一度も攻撃は防げていない。

おじいちゃんは、わたしが隙を見せた瞬間に襲ってくるからだ。

それも、動物や鳥、植物や雨など、あらゆるものを利用して。


わたしはおじいちゃんの言葉を反芻する。

「生き残るために、周囲のあらゆるものを使うのが、本当の強者じゃよ。それが、人でも、自然でも」


もし相手がおじいちゃんではなく本当の敵だったら、間違いなくわたしは何十回もこの世から消えている。それなのに、おじいちゃんの姿をまともに捉えられてさえいない。


8月15日タイムリミットまであと3日。

それまでにおじいちゃんに一撃を喰らわせられるだろうか?


雨脚が強くなってくる。

夏とはいえ、着替えのない山中では、確実に体温と体力を奪っていく。


雨宿りしなければならない。

わたしは、足を速める。


元来方向音痴のわたしだけど、修行5日目にもなれば、東から昇り西に落ちる太陽の位置を見たり、木に石で印をつけることで、どうにか方角が分かるようになってきた。


だけど、今は雨雲に覆われ陽が隠れている。不安が募る。

でも確かにこの先には、住職さんが教えてくれた、隠れ滝へとつながるあの目印があるはずだ。


わたしは、視界を遮る枝や蔦を振り払い、前へと進む。


果たして、目印それはあった。

古来より、無数の迷い人を導いてきたであろう、無名の地蔵が。


ここを左に曲がれば、隠れ滝に辿りづけるはずだ。

かつて森に迷い、水に飢えた人にとっては、光明のように映っただろう。


わたしは、思わず駆け足になる。

暫くして、滝が視界に入る。


喉がごくりとなる。

喉の渇きは既に限界に近づいていたようだ。


わたしは水を手ですくい、喉に流し込む。

水が慈雨のように体を巡る。


そのとき。

「誰?」


水音に紛れてはいたけど、張りつめた声が、確かに聞こえた。


わたしは、思わず振り返る。

人影は見えない。


――違う。


声は、確かに前方から響いてきた。

そう、滝の中から聞こえてきたのだ。

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