第34話:真実
2029年8月7日
わたしと星は、山野辺家の畳の間で、父と向き合っていた。
父は、ちらりとわたしの隣に座る星を見る。
父も知っている。
わたしにとって星がどんな存在なのかを。
「今まで、きちんと伝えられずにすまなかった」
父は口を開いた。
「お前のお母さん、
どこか、遠くを見つめるような目になる。
「その後、私たちは恋に落ち、結婚した。もちろん、別れる前に中国に子どもがいたことも聞いてはいた。その子の教育を考えて、裕福な父親に親権が移していたこともね。隠し事のできない、まっすぐな性格だったからね」
「じゃ、なんで!?」
――それを、わたしに言ってくれなかったの?
と言いかけたとき、星がわたしの手をぎゅっと握った。
わたしは言葉を出かけた飲み込む。
「……ごめん、続けて」
「その後、2010年の3月にはリンが生まれたんだ。本当にうれしかった。昔から運動神経が良くてね。6カ月もすると、自分の足で歩きはじめた。やんちゃでね、わたしたちがいく場所にはどこにでもついてきたがった」
そこで、父の声が低くなった。
絞り出すようにいう。
「だから、生まれてちょうど1年がたった2011年の3月11日、知り合いに友人に呼ばれて、3人で宮城県の剣道大会のボランティアで行った時も、ちょっとした家族旅行のつもりだった」
父の表情が悲痛で染まる。
「だけど、そこで、
――2011年3月11日。
日本人で知らない人はいないだろう。
東北地方を襲った未曾有の災害、東日本大震災のことを。
「え!?東日本大震災の現場に、わたしもいたの?」
「そうだ。翌日の大会準備のために、わたしと玲は、リンを連れて3月11日の金曜日に現地に入っていたんだ。そして、ちょうどわたしたちが友人宅に着いたころ、あの悪夢のような津波警報が流れてきた」
テーブルの上に置かれた父の手は、僅かだが震えている。
「もちろん、わたしたちはすぐに避難しようとした。でも、濁流が一気に家を飲み込み、わたしたちは屋根の上に逃れるしかなかったんだ」
――映像でしか見たことがないと思っていた。
「そこで見た光景は今でも信じがたいよ。多くの家屋が濁流に流され、家の一部しか水面にでいなかった。水面に沈んでしまった家もたくさんあった」
「人も、何十人、何百人と流されていた。この濁流に吞まれれば命の保証はない。だけど、とっさのことで、ロープもゴムボートも何もなかった。だから、わたしたちは、
「え、あの濁流の中を!?」
「そうだ。友人にリンを託し、私たちは何度も何度も飛び込んでは、溺れている人たちを助けようとした。無事に助けられた人もいたし、手が届かなかった人もいた。ただだ必死だった」
――自分一人でも溺死しかねない激流だ。ロープもなしに他人を救助するのはまさに命がけだ。
「数十分も救助を繰り返すうちに、わたしも玲も、体力が限界に近づいていた。だから、わたしは玲に言ったんだ。もう十分だ。これ以上は、君の身が危ないって。自分の生まれた国でもないのに、何でこんなに頑張るんだって」
「それでも、玲は決して止めようとはしなかった。『国なんて関係ない。日本だろうと、中国だろうと、目の前に助けられる命がある限り、それを見過ごすことなんてできない』――と。本当に、本当に立派だった」
父の声が詰まった。
「でも次の瞬間だった。私達の立つ場所に、折れて尖った看板が風にあおられて飛んできたのは。わたしはとっさに家族をかばい、肩に裂傷を負った」
無意識の内に、父は肩に手をやる。
「その看板の端が友人にもぶつかり、抱えていたリンが宙に投げ出された。濁流の中に墜落しそうになったリンを、玲が抱きかかえ、投げるようにして屋根まで引き戻したんだ」
絞り出すように、父が言う。
「そのまま、玲は冷たい水の中に落ちていったよ。もちろんわたしは、すぐに飛び込んだ。ただ、それから先のことは覚えていない。出血多量で私自身が気を失っていたところを、救助されたらしい」
「そ、それで、お母さんはどうなったの?」
沈んだ声で言う。
「いまだ、行方が分かっていない」
涙で視界がにじむ。
「じゃ、お母さんはわたしの身代わりになって亡くなったってこと?」
わたしの目を見据える父。
「そんなふうに、自分を責めてほしくなかったんだ。だから、どうしても伝えられなかった。1歳の記憶は残らないものだから」
わたしは言葉を失う。
責めたい気持ちは霧散している。
ただただやり場のない感情が渦巻いていた。
「でもそれ以上に、わたし自身が認めたくなかったんだ。玲が亡くなったということを。まだ遺体にさえ対面できていないんだから」
父の頬を、一筋の涙が伝う。
強い父が、人前で泣いているのを初めてみた。
途方に暮れるわたしの手を、もう一度星が強く握ってくれた。
体温が手のひらを通し、心臓に行きわたるのを感じる。
星が、その大きな瞳でわたしを見る。
言葉はない。ただ、その想いは、十二分に伝わってきた。
――そうだ。来年、わたしは二十歳になる。
もう子どもじゃないんだ。
大人として、こういうときこそ、親へ伝えるべきことがある。
「お父さん、そしてお母さん。ありがとう。あのときのわたしを助けてくれて」
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