第34話 間接キスと刺激物

「今日はここまで。日直、号令」


 そうして日直の号令が終わった後、少し遅れてチャイムが鳴った。


 期末テストが迫る中、先生たちは追い込みに入っている。いつもより授業の進むペースが早い。特に遅れている教科はなおさらで、テスト範囲に追いつこうと必死だ。


 そのせいで、いつもより授業の進み具合が早く、追いつくのに頭が疲れてしまった。

 四時限目が終わり昼休憩に入ったけど、脳疲労からか、数秒はど黒板をぼーっと眺めていた。


 それから俺は売店へとやって来た。

 お昼はいつもここで何か甘いパンを買う。


 やっぱり疲れた脳には甘い物は必須だ。

 糖分を摂らないで午後の授業を挑むのは、裸でライオンと戦うようなものだと思っている。

 ん? この例え合ってる? 

 頭が疲れすぎてよくわからないや。


 そんなことより何か甘いものないかな。

 一つ一つ個包装されたパンを一通り眺め、美味しそうなのを二個手に取ってお会計へ。

 電子決済に対応しているので、お会計はスムーズだ。


 席取り合戦をしないだけでも、心のゆとりは変わってくる。

 多少教室でぼーっとしていても、こうしてパンは手に入れられる。

 食堂だと人気メニューはすぐになくかるからな。その取り合いと、席取りが非常に面倒くさい。


 ちなみに買ったのは、ホイップクリームがたっぷり挟まったパンと好物のメロンパンだ。

 

 教室に戻ると、なんだか異様な雰囲気が漂っていた。

 食堂に行かず、教室内でランチタイムを過ごすクラスメイトたちが一斉に俺の方へと視線を向けた。


 正直、教室のドアを開けた瞬間から、この、俺に向けられる視線の理由はわかっていた。


 俺の席は窓側にある。そこに、なぜか我が物顔で座る保坂さんがいる。

 俺は彼女に声をかける。


「おはようございます」


 保坂さんはこちらに顔を向けると「おはよう」と相変わらずの無表情で挨拶を返してきた。


 保坂さんが教室に来るなんて珍しい。それも俺のクラスに。

 ただ会いに来たというわけではなさそう。

 

「保坂さんが教室に来るなんて珍しいですね。何かあったんですか?」

「ホームルームが終わったら空き教室に来て。それを言いに来た」

「空き教室ですね。分かりました」


 昨日、保坂さんがひたすら紙を折っていた場所だ。

 今度はそこで何をするのか気になるところだけど、裸になってとかそう言うことをここで言われたら大きな誤解を招かねないので、ホームルームまでドキドキして待っておこうと思う。


「保坂さんそれお弁当ですか?」


 俺の机の上に、青い布で包まれたお弁当が置いてある。

 これはまさか一緒にお昼を食べれるのでは。

 ここは紳士としてこちからお誘いするべきだな。


「うん、お弁当。一緒に食べようと思って持って来た。どう?」

「全然いいですよ」


 先に誘われてしまったな……。

 良かったら一緒にどうですか? みたいな感じで、会話の流れで自然に誘おうと思ってたんだけど、案外あっさり誘われてしまった。


 まぁでも、どちらが誘っても、一緒にお昼を過ごせることに変わりない。出来れば俺から誘いたかったってだけだから。


「ついてきて」


 そう言うと保坂さんはお弁当を持って立ち上がる。


「ここで食べないんですか?」

「よくわからないけど、目立ってるみたいだから。それに、絶好の昼食スポットを知ってる」

「そう、ですね」


 悪目立ちと言うわけではない。不思議なものを見るような視線がクラスメイトたちから注がれている。

 確かにこんな状況では落ち着いて食べれないな。


 でも意外だな。

 てっきり目立っていることにすら気づいてないと思っていた。

 ただ、目立っている原因が保坂さん自身だということに自覚はないみたいだ。

 

 それから、保坂さんに連れられ、屋上へとやって来た。


 本来なら立ち入りを禁止され、ドアには鍵がかかっている、はずなんだけど……保坂さんはそのドアの鍵を持っている。そしてなぜか立ち入りを許されている。


「やっぱりここは気持ちいいですね」


 晴れ晴れとした青空。ほとんど雲がなく、そのせいで日差しは若干強いけど、風がよく吹くのでそこまで暑さを感じない。

 それに、この誰もいない広々とした空間が何よりも心地良い。


「たまに日向ぼっこしに来る」

「そう言えば前に大の字で寝てましたよね」

「うん。翔もやってみる? オススメ」

「そうですね。とりあえずこれ食べてからやってみます」


 今やったら寝てしまいそうなので、先にこのパンたちを食べてから後でやってみることにする。


「翔、隣来て」

「わかりました」


 柵を背に、保坂さんの隣に腰を下ろす。


 どんなシャンプーを使っているのか、それか香水なのか。風が吹くたびに、ふわりと香る優しい甘い匂い。

 その匂いだけで、俺が今、女の子のすぐ隣に座っていることを強制的に意識させられる。


 平常心、平常心……。


「麻婆豆腐なんて珍しいですね」


 保坂さんのお弁当箱の中には、美味しそうな麻婆豆腐がぎっしりと敷き詰められていた。だけど……。


「お米ってあります?」


 一見するとお米は見当たらない。もしかして下に隠れているのかも。


「お米はない。麻婆豆腐だけ」

「麻婆豆腐オンリーですか……それお米食べたくなりません?」


 麻婆豆腐だけ食べる人は一定数いる。

 別に珍しいわけではないけど、少なくとも俺は麻婆豆腐を食べる時には必ずお米が必須な人間。あのピリ辛のせいでお米が進むのだ。


「お腹いっぱいになるからお米は要らない。いただきます」


 そう言ってパクパクと麻婆豆腐を食べ進める保坂さん。


「保坂さんってけっこう小食ですよね」


 人並みより食べてないのは、あの細い体を見てればわかる。

 前にマイクロビキニを着た時に、肋が少し浮き立っていた。


 モデルのような細さではなく、心配になるような細さ。医者ではないので断言はできないけど、頬がこけていないのを見るに、恐らく栄養失調状態ではないだろう。

 それでも、ちゃんと食事しているか心配になる細さなのは事実。


「自分ではいっぱい食べてるつもり。翔からしたら小食?」

「そうですね。それで足りるのかなって思ってしまいます」

「足りるよ。これだけでもお腹いっぱいになる」

「それなら良いんですけど……」


 本人がお腹いっぱいになると言っているなら、俺からこれ以上何か言うことはないな。


「それにしても、美味しそうな麻婆豆腐ですね。もしかして保坂さんが作ったんですか?」

「ううん」


 保坂さんは首を振った。


「お母さんが作った。私料理したことない。やっぱり料理できた方が良い?」

「ある程度はできた方が良いと思いますよ」


 インスタントばかりだと栄養が偏るし、何品か得意料理があった方が便利だ。

 ちなみに俺の得意料理は野菜炒めだ!

 塩コショウで野菜を炒めるだけだからめちゃくちゃ簡単。


「それに今は簡単レシピとか増えてますし、料理したことなくても作れると思います」

「翔は、私が料理作ったら食べる?」

「もちろんです! 喜んで食べます!」

「わかった。チャレンジしてみる」


 いつの日か、保坂さんの手料理を食べられる日が来るのか。明日かな、明後日かな。楽しみすぎて気持ちが早まってしまう。


「翔、食べてみる?」

「ほ、保坂さん!?」


 密かに手料理を楽しみにしていると、保坂さんが麻婆豆腐をスプーンですくって差し出してきた。


 これは、あれだ。カップルがよくやる恒例の儀式。

 あ〜ん、と食べさせてあげるやつだ。


「お腹いっぱい?」

「あ、いえ、そう言うわけではないです……」


 意識しているのは俺だけか……。

 保坂さんは平然としている。きっと、あ〜ん、とかそう言うことなんて考えてないんだろうな。


「麻婆豆腐嫌い?」

「いや、好きです! その、いきなりどうして……」

「食べたそうに見てたから」

「そ、そうですね……美味しそうだなとは思ってました」


 というかそのスプーン、さっきまで保坂さんが使ってたやつ。

 あ〜ん、だけじゃなく、間接キスまで……。


「あの、保坂さん。良いんですか?」

「うん、良いよ」


 あ、これ、間接キスになってしまうことに保坂さん気づいてなさそう。

 こうなったら直接言うしかないか。


「俺が言いたいのはそういうことではなくてですね。その、スプーンに口つけることになるんですけど大丈夫ですかって言いたかったんです」

「うん、わかってる」

「あ、え、わかってたんですか?」

「うん。私は気にしない。でも、翔が嫌なら洗ってくる」


 洗うなんて、そんな勿体無いこと……俺は嫌とかないし、むしろ興奮してしまうというか……待て待て、何変なこと考えてるんだ。


 で、でも、保坂さんが気にしないなら……。

 ただ麻婆豆腐を一口貰うだけ、それだけだ。


「俺は全然気にしません」

「そう。なら食べて」

「はい……」


 一口貰うだけなのに、何でこんなに緊張してしまうんだ。

 どうしても保坂さんの柔らかそうな唇に意識が行ってしまう。


「た、食べますね」


 緊張しすぎてそんな宣言をしつつ、俺は意を決して保坂さんが差し出すスプーンをパクッと咥えた。


 口の中に広がる麻婆豆腐の辛味。

 一瞬で舌が熱くなり、ヒリヒリする。そして顔から汗がぶわっと噴き出る。


「かっらっ!!!!!」


 暴れたくなるような辛さ。

 いや、辛いを通り越してもはや痛い。痛過ぎる。口から火が出そうなほど辛い。


 何だこれ、俺の知ってる麻婆豆腐の辛さじゃない。殺人的な辛さだ。たぶん5歳の子が食べたら確実に死ぬレベル。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 水、水が……


 俺は咄嗟に近くにあった水筒に手を伸ばした。


「あ、それ」


 保坂さんが何か言いかけていたけど、今の俺には余裕がなかった。

 急いで水筒の蓋を開け、口の中にお茶をがぶがぶと流し込んだ。


 おかげで最初より痛みは少し引いたけど、それでも口の中はずっとヒリヒリしている。

 明らかに体の拒絶反応を感じる。特に胃がぐるるるると泣いている。


 これ、本当に麻婆豆腐なのか?

 信じられないくらい辛かったんだが。まだ口の中が痛い。一体何を入れたらこんなに激辛になるんだ?


「翔って意外と積極的」

「え、積極的ですか? 俺が?」

「うん。だってそれ、私の水筒。スプーンだけじゃなくて、水筒も。そんなに私と間接キスがしたかった?」

「へ?」


 そう言えば俺、水筒なんて持って来てないぞ。喉渇いたら自販機でジュース買うから、水筒自体持って来てない。

 じゃあこれは……ほ、保坂さんの……。

 淡いピンク色の小さい水筒。

 明らかに女子が持っていそうな水筒だ。


 俺、さっきこれにおもいっきり口つけて……。


「すみません!! 辛すぎて気づかなかったです!!」


 辛味を和らげるために必死すぎて全く気が付かなかった。でも、やってしまったことは謝るしかない。

 俺はその場で必死に頭を下げた。

 勝手に飲んでしまったことと、口をつけてしまったことへの謝罪だ。


「気にしてない」

「本当ですか……?」

「うん。むしろ、間接キスでそこまで意識してくれることがわかって満足」

「それは意識しますよ……そう言う保坂さんはしないんですか?」

「よくわからない」


 保坂さんは自身の胸に手を当てて一瞬何か考えたが、すぐに顔を上げた。


「それより、辛かった?」

「それはもう! 辛いというレベルを超えてましたよ。よく食べれてますね……」

「うん。辛いのは好物。これくらいはまだピリ辛」


 汗ひとつ掻かない保坂さん。


「これでピリ辛……」


 保坂さんの舌はだいぶ狂ってるようだ。

 好物と言うからには、よく辛いのを食べているわけで、辛さへの耐性があるんだ。それも常人の域を超えて。

 

 対して俺はあまり辛い物を食べない。甘い物はよく食べるけど。

 なので辛さへの耐性はほとんどない。


 せっかくの間接キスだったのに……。

 辛い思い出になってしまった。

 やばい、まだ口の中痛い。


「もう一口いる?」

「もう大丈夫です……さすがに次は気を失ってしまいます」


 いまだにヒリヒリする口の中。甘いはずのメロンパンの味が全くせず、代わりに痛みを感じる。そんな俺の口内に二度目の刺激物はさすがに死んでしまう。


 俺は空を見上げた。

 雲がほとんどない青空。

 お陰で日差しをモロに浴びて暑い。

 けれど、風がぶわっと吹くと、刺激物によって体中から噴き出た汗が冷やされて、涼しく感じた。むしろ寒くすらあった。


 午後の授業、お腹痛くならないといいけど……。

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