第16話 また変なことを
そろそろ部活が終わろうとしているのに、保坂さんは一向に姿を見せない。
他の部員たちは各々片付けに取り掛かっている。
俺はこの後も残る予定なので、引き続きスケッチブックと睨めっこだ。
デッサン人形は俺には手に余る代物らしいので、今はスマホで好きな絵師さんのイラストを表示させて、それを真似て描いている。
言うまでもなく散々な有様。
何度消しゴムを擦ったことか。
消しカスだけでそこそこ大きな練り消しが作れそうなくらい使った。
それにしても、保坂さんは何で来ないんだろう。部活出るって言ってたのに。
そもそもあまり顔を出す人じゃないし、来ない方がいつも通り。むしろ顔を出しただけで教室内がざわつく。
「河岡くんはまだ残るの?」
学生用鞄を肩にかけた徳永さんが帰り際に声を掛けに来てくれた。
「もちろん残るよ。保坂さんが来るかもしれないし」
「そ、そうなんだ」
相変わらず徳永さんは保坂さんの名前を出すと少し顔色が悪くなる。
もしかして昔に保坂さんから何かされたのだろうか。
「私もう帰るね。今日は全然教えてあげられなくてごめんね」
「いやいいよ。そんな申し訳なさそうな顔しないで。コンクール近いし、あんまり邪魔したくないから」
徳永さんはコンクールに向けて新たに作品を制作中。
あまり上手くいってないのか、たまに難しい顔をしてるところを見かける。いつも助けてもらってるし、俺から何かしてあげられたらいいんだけど……生憎、邪魔になるだけだからな。
「俺に何かできることがあれば言って。たぶんないだろうけどさ」
「河岡くんは優しいね。でもあともうちょっとで完成するから、それまで待っててくれたら」
「ありがと」
どっちが優しいのやら。
「また」
「またね」
徳永さんは教室を出て行った。
それから徐々に他の部員たちも帰って行き、気がつけば俺一人だけになっていた。
そんな中、教室のドアを開けて顧問の高橋先生が入って来た。
手にはここの鍵が握られていて、それを俺の座っている机の上に置く。
「戸締りよろしく。あまり遅くならないように」
「わかりました」
どうやら教室の鍵を渡しに来ただけだったみたいだ。置いたら高橋先生はすぐに去って行った。
開いた窓から運動部の掛け声や吹奏楽部の練習音がよく聞こえる。
うるさいとかそういうのではなく、むしろ集中しやすいノイズのようなもので、俺にとっては雑念を払拭できるのでありがたい。
スマホに表示させた好きな絵師さんの絵を見ながら、それをスケッチブックに模写していく。
腰に手を当て、胸を張ってどこか威張っているような小柄な女の子の立ち絵。
ギザ歯とオッドアイが特徴的で、ダボッとしたパーカーを着ている。
さてどこから描くべきか。
さっきは目から描いて、次に輪郭を描こうとしたら変になって失敗した。
その前は髪から描いて全体的な形がおかしくなって失敗した。
「うーん……」
頭の中ではスラスラと描けているのに、いざ実際に描こうとするとやっぱり思うように手が動かない。
とりあえず描いてみるか。
失敗したら消せばいい。
練習なんだから描かないとな。
きっと保坂さんからしたら非効率な練習方法なんだろうけど、さすがにあの練習方法は心臓に悪い。
今でも保坂さんのビキニ姿が脳裏に焼き付いて離れていない。
全体的に細身で、少しあばらが浮きだっていて、それでも魅惑的なオーラを放ち、やる気のない目でこちらをジッと見つめるあの姿が。
俺は邪念を振り払うように鉛筆を走らせる。
その時、ガラガラガラ、と教室のドアが開いた。
閉め切っていたカーテンを、暖簾をくぐるように手でどけて入って来たのは、白髪の、どこかやる気のない目をした保坂さんだった。
「あ、保坂さん。来ないかと思いましたよ」
「翔、裸になって」
保坂さんはスタスタとこちらに歩いて来たかと思ったら、また変なことを言い出した。
彼女にはぜひ順序というものを知って欲しいと思う。
「すみません、理由を訊いてもいいですか?」
「ダメ?」
「ダメではないんですけど、いきなり裸になってと言われても、理由が知りたいじゃないですか」
「翔の裸が見たいから。これが理由」
「なるほど」
理由を訊いてもさっぱりわからなかったので、俺は制服を脱ぐことにした。
「前みたいにパンツは履いたままでいいですよね」
「うん」
「わかりました」
保坂さんの前で裸になるのはこれで二度目。なのに不思議と抵抗感はなかった。ただ勘違いしてほしくないのは、抵抗感はないだけで、羞恥心はもちろんある。
平静を装ってはいるけど、やっぱり女の子の前で服を脱ぐという行為はそれなりに恥ずかしい。
「脱ぎました」
今の俺はトランクス一丁。靴下も上履きも全部脱いだ状態。
教室のドアの鍵はもちろん閉めてある。
こんなところ誰かに見られるわけにはいかないからな。
トランクス一丁状態の俺に静かに近づいて来る保坂さん。
「腕を上げて」
「こうですか」
「うん」
まさかこの状態をキープするのか。さすがに長時間はきついと思う。
そう思っていた。
このポーズで、保坂さんはまた俺のスケッチブックを勝手に使って、勝手にデッサンするんだろうと。
けど、近づいてくるなり、保坂さんは細く華奢な腕を俺の背中に回してギュッと抱き着いてきた。
バクバクと激しく脈打つ俺の心臓の音を聞くように、胸に顔を埋める保坂さん。
「ほ、保坂さんっ!?」
「動かないで」
「う……」
背中に触れる保坂さんの手は少し冷たく、胸に当たる彼女の吐息は生温かく、そして、俺の額からはぶわっと汗が噴き出る。
「保坂さんこれは一体……」
「翔も私と同じように背中に手を回して」
「いや、それは……」
俺の今の格好をご存じないのだろうか。
パンイチで女子に抱き着くなんて絵面が悪いにも程がある。
俺がなかなか手を回さないので、保坂さんはジッとこちらを見つめてきた。
目を逸らしても、彼女の視線が凄く伝わってくる。
「あの、しないとダメですか?」
「無理ならしなくてもいい」
「そこは強制にしてくださいよ……」
脅してでも何でもいいから、強制にしてほしかった。そしたら言い訳が立つし、降参という形で諦めがついた。
無理なら、なんて言われたら、俺が保坂さんを嫌ってるみたいになって、それこそ拒否しづらくなる。
「というかこれは何なんですか」
「お色気作戦と吊り橋効果」
「え、今お色気作戦って言いました? あと吊り橋効果とか」
「うん。翔が緊張してる間にこうやって体を密着させて……」
そう言って保坂さんはほとんどないような胸を押し付けてくる。
恐らくこれがお色気作戦なのだろう。
そしてこのドキドキを恋愛感情だと錯覚させようとしている。
「もしかして恋がしたいんですか?」
「してみたい。だから翔に恋人になってほしい。だからこうしてる」
「いいですか保坂さん。恋っていうのは、相手に好きになってもらうというのもありますけど、その前に相手のことを好きじゃないとダメなんですよ」
好きでもない相手を振り向かせようとするのは、かなりの魔性か、相当な構ってちゃんか、保坂さんくらいだろう。
保坂さんは俺に対して好きと言う感情は持ってないと思う。
そもそも保坂さんは誰かを好きになったことがあるのだろうか。この様子だと恐らくはないように思える。
「一つお聞きしたいんですけど、保坂さんは俺のこと好きなんですか?」
その問いに保坂さんは少し首を傾げる。
「好きっていうのがよくわからない。犬や猫を愛でるのとは違う?」
「それは好きと言うより愛ですね」
「愛……なるほど」
「とりあえず服を着たいので離れてもらえると助かるんですけど」
「わかった。でもそのままでいて」
保坂さんは俺から離れると、机の上のスケッチブックと鉛筆を手に持ち、椅子に腰掛ける。
もちろんスケッチブックも鉛筆も俺のやつだ。
「せっかくだからありのままの翔を描いてみる」
「そう言えば前に描いた時、なぜかムキムキマッチョでしたよね」
「将来の翔」
「将来の俺ってあんなマッチョになる予定なんですか」
もしかして保坂さんってマッチョな人が好みなのかな。
そんなことを考えたら、少し鍛えてみるのもアリかもしれないと思った。それに絵を描くのにも体力は使う。疲れにくい体作りも大切だ。
保坂さんは迷いのない手つきでスケッチブックに俺のパンイチ姿を描いていく。
ポーズの指定は特になかったので、何となく仁王立ちしてみた。
保坂さんにチラチラと見られる。
観察しているのだから仕方のないことなんだけど、やっぱり落ち着かない。
変な顔になってないかとか、そんなことを考えてしまう。
黙々と描き続ける彼女は、周りから奇人や変人などと呼ばれているとは到底思えない、可愛らしい女の子に見える。
思えば、保坂さんはどうして俺に構ってくれるんだろうか。
まだ三日程度の付き合いだけど、保坂さんが俺のところに来る理由がイマイチわからない。
恐らくは興味本位なんだと思うけど。
だとしたら、いつか、その興味が無くなったら、スッと消えて、二度と関わらなくなるのだろうか。
そして、違う誰かのところに行って……。
その先を漠然と想像しただけで、胸がもの凄くモヤモヤした。
これ以上は考えても仕方がない。というか考えない方がいい気がした。
今は保坂さんのためになるべく動かないように努めるのみだ。
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