監査局
その日、始発で出張から帰って来たルスランは、さっそく学長に呼び出された。
渡されたのは、辞職届。
「なんですかこれは?」
「何って、聞いておるじゃろう。君が雇い入れた料理人から預かったんじゃよ」
ルスランは何のことだか分からなかった。
だが封筒の裏には確かに『ココ・クルタリカ』とサインがある。筆跡も彼女のものだ。
頭を混乱させたまま、封を開けると、
『一身上の都合により退職させて頂きます。お世話になりました』
中には簡潔に、それだけ書かれていた。
「この辞職届は、いつ受け取られたのですか」
「三日前じゃが。君は知らなんだのか」
「ええ、私は何も……聞いていません。そんなそぶりも、全く……」
ルスランは必至で記憶を辿った。だがやはり、彼女にそれらしい気配があったようには思えない。
(なぜだ)
いや、何があった? 何もないのに、彼女がこんなことを言いだすはずがない。大学を出て行くとなると、彼女の場合弟妹のいる実家に帰るつもりだろうが、しかし家に帰ったところで働くところはないはず。もし元ブルーノ店、ポポロで働くつもりなら自分に相談してくるはずだ。それもなしに帰ったとなると。
(監査局か)
出張が終わってからの対処でいいだろうという考えが甘かった。せめて、ココ本人に監査局のことを話しておけばよかった。要らぬ心配をさせないようにと、伝えなかったのが裏目に出てしまった。
「クルタリカ君と話がしたいなら、まだ大学にいるのではないかのぅ。確か、昨日が最終出勤日だと言っておったし。実家に帰るなら今日の汽車じゃろう」
今すぐ行けば、彼女が発つ前に会えるかもしれない。
だが会ったところで、根本が解決しなければ引きとめられない。
(まず監査局と話をつける必要がある)
ルスランは学長に一礼すると、さっと踵を返し部屋を出た。
◆ ◆ ◆
ルスランが学長室に呼ばれるよりも早く、ペトラは監査局の長官室にいた。
クビ覚悟だった。
監査局どころか、もうこの国にはいられない。長官に逆らうということはそういうことなのだ。
幸い、元留学先の煉国につてがあったから、亡命の準備は三日で事足りた。
あとは言いたいことを長官に伝えるだけ――。
ペトラはすっと息を吸い込むと、執務机の向こうにいる人物を見据え、言った。
「調査の結果、ルスラン・ユト及びココ・クルタリカに関して、検挙に値する罪状は見つかりませんでした。ルスラン・ユトが異国の諜報員であるという噂は、あくまで噂でしかなかったようです」
「そうですか。君には期待していたのに、残念ですね」
長官はすでに目の前の自分のことなど、見えていないようだった。もうお前に興味はない。要らない。とその目が物語っている。
今までこの目を向けられることが怖かった。だけど今は、覚悟をしてきたからか、それとも、自分の信念を貫いた清々しさによるものか、想像していたより辛くはなかった。
それにこれで終わりではない。
長官の罪を暴いて、彼の計画をやめさせなければならない。そこまでしてはじめて、エリートの仕事といえる。
「一つ聞かせてください。占い師は誰を使っていたのですか? 裏の世界の者でしょうか。そこまでして長官は何を手に入れようというのです?」
またうすら寒い笑みが返ってくる。
かと思ったが、予想に反して、長官の顔には困惑の色が浮かんでいた。
「……君は、何か勘違いしているようですね」
「勘違い……? 今更とぼけるのはやめてください。長官が占い師を裏で操っておられたのは分かっています。ルスラン・ユトやココ・クルタリカを占い師にしたて、偽の罪を着せて検挙しようと、お考えだったのでしょう?」
「確かに私は、占い師の件を君に話ました。しかし、それは彼らに無実の罪を着せろということではありませんよ。あの料理人はもともと魔女だという噂があった。だから占い師サルヴィエである可能性も十分ある。なのに君はいつまで経ってもその可能性に気づかず、ちぐはぐな調査を進めていたでしょう。あの時占い師の話をしたのは、君に調査の方向性を再確認してもらうためです」
「という……ことは、占い師を操っていたのは、長官ではないのですか?」
「だから、そう言っているでしょう」
長官の表情から、嘘はない気がした。
でも、そうなると。
いったい占い師は誰だったのだ。
本当にココ・クルタリカが占い師だったのか? いや、この前会ったとき、彼女は「敵の正体がわかった」と言っていた。彼女は、
「君の今後については考えます。とりあえずこの件は、後任に引き継ぎなさい」
「いえ、長官。まだ私は、この件から降りられません。私にはまだ、やり残したことがあります!」
ペトラは長官の返事も聞かず、長官室から飛び出した。
長官が占い師だと思っていたから、自分が何とかしようと、何とかすれば彼女を守れると思った。でも占い師の正体は、長官ではなかった。とすれば。
(彼女……)
まだ行動を起こさず踏みとどまっているだろうか。もし、一人でサルヴィエに立ち向かう気なら――。
ペトラは長官室から飛び出したあと、速足で大学へ向かっていた。
頭の中は、先日ココ・クルタリカと話したことがグルグルと駆け巡っていた。
だから、廊下を歩いてきた人にも気づかず、思いっきりぶつかってしまった。
「すみませ――」
と顔上げると、ぶつかった相手はルスラン・ユトだった。
だけど、いつもの彼とはまるで雰囲気が違う。
いつも飄々としている彼が、こんなに冷たい瞳をしているのを、ペトラは初めて見た。
「
その声には、隠す気などさらさらない明確な敵意が含まれていた。
「それは、ココ・クルタリカのことを言ってらっしゃるのですか?」
「私に聞かなくても、ご自分が一番よくご存じでしょう。あなた方の思惑通り、彼女は大学から去りましたよ」
そう言いながら、ルスランは歩き出す。
「去った? どこへ、彼女はどこへ行ったのです」
「それは私が聞きたいですね」
「ドクターはどちらに行かれるおつもりですか?」
「監査局長官のところに決まっているでしょう。あなたと話しても埒が明きませんから」
「お、お待ちください」
だがその声は彼の耳には入っていないようで、ルスランは独り言のように呟く。
「私が甘かった。何もやましいことがなければ大丈夫だと。何もできるはずはないと、高をくくっていた」
「お待ちください、違うんです。それは――」
「でも、本当は無実かどうかなんて関係なかった。あなた方は、手柄のためなら人を陥れることなんて、何とも思ってないんでしょう」
「それは……でも今はそんなことより、私の話を――」
「そんなこと? まあ確かにあなた方には、駒の人生など関係ないかもしれーー」
「いいから私の話を聞きなさい!」
廊下に響き渡るほどの声に、さすがのルスランも足を止めてペトラをふり返った。
「あなたの言ったことは、間違いではありません。私たちはあなた方を疑っていました。占い師サルヴィエではないかと」
一思いに言い切ると、ルスランは怪訝な顔をしながらも話を聞く姿勢をとった。
「私たちが占い師サルヴィエ?」
「はい。しかし、私はあなた方がそうではないと分かっています。それに、ココ・クルタリカは、占い師の正体に気づいたようなのです」
「じゃあ、彼女……」
ルスランは独りごちったのち、ペトラに目線を戻す。
「ペペ次官は彼女から、その話を直接聞いたのですか?」
「はい。でも明言はしていませんでした」
「……」
ルスランが方向転換したのに続いて、ペトラも彼の後を追った。
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