ドラゴンの卵

 日曜日。大学食堂は、定休であった。


 ココは、宿舎の談話室でノアと二人、ババロアの爪切りをしていた。

 すると外から、重い台車を引きずるような音が聞こえてくる。

 どうやらその音は、宿舎の前でとまったようだった。

 直後、玄関の方から扉を叩く音がするので、ココは立ち上がって玄関に向かった。


「こんにちは。ちょっとお邪魔してもいいかな」


 扉を開けた先にいたのは、鹿顔の植物学科の青年ーーココは知り合って随分経ってから、彼の名がフィリップであると知ったーーは、片手を台車にそえて立っていた。

 その台車には、小さな植木鉢がいくつかと、木箱が乗っている。


「いいけど、どうしたの? それ……」


 ココが台車に載っている荷物を見つめながら尋ねると、フィリップは木箱の蓋を開け、中身を見せてくれる。

 するとそこには、黒くて表面のゴツゴツした球体が入っていた。

 これは、もしかして――。


「ドラゴンの卵?」

「そう。僕、今この植物を研究しているんだ。で取り寄せてもらったんだけど、欲しいのは種だけなんだ。でも実の部分を捨てるのはもったいないし、君なら上手く料理していくれるかなって」

「どうぞ。入って」


 ココは学生を中へ招き入れた。



 ドラゴンの卵。

 卵とはいっても、実際は木になる果実である。

 暖かい地域で育つ植物なので、冬はわりと冷え込むこの国では栽培されていない。ココも図鑑では見たことがあったが、実際目にするのは初めてだった。


「種だけ傷つけないようにしてくれれば、あとは君の好きなようにしていいよ」


 言われてココは、その真っ黒な果実を目の高さに持ちあげてみる。肌触りは見た目通りごつごつしていて重量感もある。

 ココの隣で、ノアも興味深げにドラゴンの卵を見つめていた。


「これって、このまま土に植えたんじゃ駄目なのか?」

「そうなんだ。実の部分に発芽を阻害する成分があるみたいで、種だけ取り出して、付着した実もしっかり洗い流さないと発芽しないんだよ」


 ふうん、と声が重なる。


「でもこんなにたくさん、一度に育てるの?」


 ココがそっとドラゴンの卵を箱に戻しながら聞いた。


「この植物は、一つの苗に雄花と雌花の両方が咲くんだけど、それぞれ開花の時期が違うんだ。だからいくつかの苗を一緒に育てないと受粉できない、珍しい植物なんだよ」


 再び、ふうん、と声が重なったとき、ノックもせずに誰かが宿舎に入って来た気配があった。ただ誰か、といってもココには、誰がやって来たのか見当はついている。

 日曜は食堂が開いていないので、食べ物をたかりにこちらへやって来るのだ。


「ああー、お腹空いたな。何か食べるものはある――。おや、お客さんが来てたのか」

「あ、こんちには……ドクター・ユト?」


 フィリップは言いながら不思議そうに首を傾げる。


「どうしてドクターがここへ?」

「彼女は僕の助手なんだよ。だからお世話しているというか、されているというか」


 そうなんですか、とまだ不思議そうにしているフィリップをよそに、ルスランは箱の中身をまじまじ見つめる。


「君、もしかして植物学科の学生? ホフマン教授のところの研究生だったり?」

「あ、はいそうです」

「なら、ちょうど良かった。ホフマン教授に、研究室で歌うのは辞めるよう言ってくれないかい。隣のドミトル教授がひどくご立腹なんだ」


 ルスランが切実な様子で告げると、フィリップは諦観の表情になる。


「やっぱり迷惑に思われてますよね。実は僕たちも散々言ってるんですけど、パキラ観葉植物に歌を聞かせると成長が早くなるかっていう実験中らしくて。何を言ってもやめてくれないんです」

「そうか……。誰が言っても駄目なんだな。あの人は」


 がっくり。と音が聞こえそうな勢いで、ルスランが肩を落とす。なんだかルスランって、いつもドミトル教授に八つ当たりされていないだろうか。


「ドミトル教授ってドクターのこと、サンドバックみたいに思ってるんですかね」

「サ、サンドバック!? いや、そんなことはない、と思うけど。うん。今回だって、眠剤をもらいに来たわけで、別に俺が八つ当たりしやすいからとかそういうことでは……」


 なるほど。診察のついでに愚痴られるなんて、医者も大変だなあと思ったココであったが、それはほんの一瞬のことであった。状況が違えば慰めの言葉の一つもかけてあげるところだが、今は目の前に、魅惑の食べものがある。


(さ、気を取り直して)


 ココはすでに用意していた果物ナイフを握り、もう片方の手で「ドラゴンの卵」をつかむ。


「参ります」


 果実の中身は図鑑で見たことがあるので、中の構造はだいたい把握している。中央の大きな種を傷つけないように注意しながら刃を入れ、果実を半分に切った。

 パカっと割れた断面には、美しい黄緑色の実がつまっている。種をそっとスプーンで取り除くと、フィリップがすぐさまその種を洗って、鉢の土に埋めた。種がちょうど半分だけ埋まるような恰好になっている。


「さあ、みんなこれ持って」


 全員にスプーンが渡ったところで、いざ実食である。

 それぞれ柔らかい実をスプーンですくって口に入れる。


「んんっ!」


 思わず声がもれた。柔らかく舌の上で溶けるような食感、まったり重厚な味わいは、まるで、なめらかに裏ごししたナッツのよう。それでいて少々青っぽい香りもあるのが不思議だ。こんな食べもの今まで食べたことがない。奥深く神秘的な果実だった。


 ただ、味覚というのは人それぞれである。

 ルスランは、


「無塩バターみたいだな」


 と言いながら勝手に塩をとってきて振りかけており、ノアにいたっては、


「なんだこれ。味がしねえ」


 と早々に匙を投げてしまい、フィリップは、


「たくさんは食べられないよね。胸焼けしそうだ」


 と様々な感想を呟いていた。


 ココはそのままでも丸ごと一個食べられそうだが、料理人としては、さらなるおいしさを追及したいところである。

 三人の感想を頭の中で反芻しながら、ココは宿舎のキッチンに向かった。


 すぐに湯を沸かして、夕食用にと思って切っておいた人参、じゃがいも、ブロッコリーを茹でる。

 その間に、食在庫からサワークリーム、大蒜、ディルハーブをとって来る。サワークリームは生クリームを発酵させて作ったもので、少し酸味があるのが特徴だ。


 このサワークリームに、潰した「ドラゴンの卵」の実部分を入れる。そこへ刻んだ大蒜、ディルハーブを加え、さらに塩、胡椒、それからレモン果汁をしぼる。

 それらをよく混ぜたら、美しい黄緑色のムースが出来上がった。 

 深めの小皿に入れ、茹で上がった野菜とクラッカーを添えて談話室に持っていった。


「これは何だ?」


 三人の男たちが首を傾げるなか、ココは人参を一つつまんで、先ほど作った黄緑色のムースを付けてみせる。

 それをパクリ。もぐもぐしながら、目を瞑って天を仰いだ。

 その様子を見た他の三人は、ココに続けとばかりにクラッカーや野菜を手に取り、ムースを付け――。


「ほう、こんなムースは初めてだな」

「うおー! これ、さっきのあれなのか?」

「酸味があるからかな。そのままよりずっと食べやすいね」


 「ドラゴンの卵」を使ったムースは、あっという間になくなってしまった。

 ココも含め、みんなお腹いっぱいになってしばらく談話室のソファでほっこりする。

 と鹿顔の学生がハッと夢から覚めたように立ち上がった。


「うっかり忘れるところだった。実は僕、今日は他にもココさんに用事があったんだ」

「用事?」

「うん。ココさん、図書館員に知り合いの女性っている?」

「図書館員って、眼鏡かけた黒髪の人?」

「そう。たぶんその人。僕この前、その人にココさんのことあれこれ聞かれてさ。何かあったのかなと思って」

 

 ココは「なんだろう?」と首を傾げる。

 特段思い当たることはないが、それほど親しい間柄でもないので、また魔女だ何だと噂でもされていたのかと、ココはあまり気にならなかった。

 むしろ関係ないはずのルスランが、表情を硬くしている。


「その女性ってすらっとしてて、髪が長くて、眼鏡は黒縁?」

「そうですそんな感じの人です」

「ドクター知り合いだったんですか?」

「あ、いや。そういうわけでもないんだけど……」


 そう呟いたルスランは、そろそろ診察に戻ると宿舎から出ていった。


「そんなことよりさあ、さっき植えてたドラゴンの卵って、いつ食べられるようになるんだ?」


 ノアはすっかりドラゴンの卵を気に入ってしまったらしい、鉢に植えられた種をしげしげと見つめている。


「実ができるのは、早くて五年後だよ」

「え、そんなに?」


 またもや声が重なった。

 どうやら次に食べられるのは、ずいぶん先になりそうだ。

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