邸宅付近の攻防戦

 フロレンスの中央広場で激しい攻防戦が続けられていた。


「ジュリアーノ様を守れ!」


「邪魔だ。どけえ!」


 一方はジュリアーノの立てこもる邸宅へと押しかける人々を撃退しようと懸命になり、もう一方は彼の身柄を取り押さえようと入口への突入を試みていた。


 国家の最高指導者を巡る争いは白熱するばかりであった。


「あなた。いざとなったら脱出も考えてください」


 ベアトリーチェと別れた後で邸内に逃れられたエヴァが、一階の床に備えられたマンホールに似た鉄蓋――脱出用の地下トンネルの入り口――を指差す。


「エヴァ。君の気持ちはありがたいが……私は故郷を捨てるつもりはないよ」


 だが、ジュリアーノは妻の進言を拒んだ。


 彼は自身へ向けられた憎悪を知らなかった訳ではない。


 特に富裕層から向けられたそれには敏感で、自身が公布した「貧困層への慈善事業のための富裕層に対する課税強化案」に強い反対があったのを、ジュリアーノはよく憶えている。


 さらに自分が模範となり、貧しい者のために無料の観劇や食料配給にかかる費用を進んで供出した時には、


『貧しい奴らに施す意味などない。こいつらは生まれつき貧乏になるよう神がお定めになったのだ!』


と中傷され、執政官は偽善者である、という噂まで流されることさえあった。


 心が何度折れかけたことか。


 だが、ジュリアーノは苦しい時には「ある言葉」を思い出して頑張ってきた。


 それは物心ついた頃に間もなく世を去った祖父アレッサンドロが、臨終の際に語った最期の言葉。


『いいか、お前たち。口であれこれ悪く言う奴に耳を貸す必要などない。そんな連中は豊かで余裕があるから、他人のやることに口出しはするが手は動かさない。


 だが、貧しい人々は助けを求めたくても声を出す元気さえないから、こちらから手を差し伸べる必要がある。


 幸いにもわしは銀行業で莫大な富を得ることができたが、その一部は貧しい民のために使うと決めて四十年にもなった。後悔はしていない……お前たちもそうしておくれ』


 七十歳で大往生を遂げた祖父の想いは父ピエロ、兄サルヴェストロ、そして現在の執政官コンスレジュリアーノに受け継がれていった。一人の男にかかる責任は重大であったが、彼は逃げずに戦ってきた。毀誉褒貶きよほうへんに負けることなく。


 ジュリアーノの支持者は着実に増えていった。彼の主な支持者、それは即ち貧民窟の住民たち。


『お風呂や教会でのお食事をくれて、ありがとうございます!』


 無邪気な笑顔とお礼の言葉。それは何度聞いても嬉しいもので、ジュリアーノの原動力となっていった。


 そんな彼だからこそ祖国フロレンスを、いやそこに住まう民を捨てて逃げることなど考えられなかったのである。


 夫の固い決意を感じ取ったエヴァは、


「たとえ今日が人生最後の日になろうとも、私はあなたの隣で最期を遂げたく存じます」


 夫に背中から抱きつくと運命を共にすると宣言。それを聞いたジュリアーノは妻に顔を向けずに呟いた。


「ありがとう。私の我儘わがままを聞いてくれて。やはり君は最高の伴侶だ」


 ジュリアーノの目には隠せぬ涙と後悔が湧き出てくる。


(ベアトリーチェさん、再会したらあなたに謝りたい。疑ったことを詫びさせてくれ)



 攻防戦は、段々と革命首謀者とその支持者の不利に傾いていった。


「どけ! 我々は正義を執行しているのだぞ!」


 首謀者の一人ジョルジョの言葉が空しく響く。彼は内心で自分たちへの賛同者が予想よりも遥かに少ないことに愕然がくぜんとしていた。どうして独裁を敷くミディナ家に味方する人が多いのかが、この貴族出身の男には理解できなかった。


「おい、ジョルジョ殿。このままじゃ群衆に殺されちまう!」


 そう言ってジョルジョに助けを求めたのは、首謀者三人の内の一人であるマッシミリアーノ。彼はジュリアーノと同じ銀行業を営んでいたが、やがて廃業の憂き目に遭い、それをジュリアーノのせいだと決めつけて勝手に恨むような男であった。


 というのも彼に言わせれば、


『富裕層の課税強化法案のせいで、俺は無一文になった。だから、そんな法案を施行したジュリアーノが百パーセント悪い!』


らしいが、実際は父の後を継いだ彼の無能に原因があった。マッシミリアーノには経営の才能がなく、父の死後は側近のやりたい放題にさせていた。結果、彼らが経営破綻を招いたのである。尚、マッシミリアーノ本人は遺産で遊びほうけていたのだから、彼にジュリアーノを責める道理などなかった。


「こいつ!」


「ああっ!」


 津波のように攻め寄せる群衆の手でマッシミリアーノは捕らえられた。彼は縄を持ち寄った住民によってぐるぐる巻きにされ、


「後でジュリアーノ様が裁いて下さるだろうよ」


 先ほどまで立っていた演壇に投げつけられた。口さえも縄で封じ込められた彼は反撃できなくなり、できるのは泣くことだけであった。


 首謀者の一人は無力化された。後は二人。ジョルジョと、


「おい、アルベルト司教殿。法皇猊下げいかからの援軍はまだか?」


「もうすぐでございます!」


 フロレンス司教のアルベルトであった。


 ジョルジョが叫んだ言葉の意味はこうである。


 アルベルトは現法皇マルティヌスのおい(本当は息子)であり、実はかつてジュリアーノに司教就任を断られた過去があった。


 事情を鑑みれば当然とさえ言えた。なにせ、ジュリアーノにとって法皇マルティヌスは十年前に兄を暗殺しフロレンスに戦争を仕掛けた男。そんな人物の親族を司教にするよう強要されれば何か企んでいると考えるのが自然というもの。


 結果、アベラルドは三年もフロレンスに入ることができず、司教に就任した後も人々からは軽蔑の視線を向けられ針のむしろとなってしまった。


 彼は怒った。

 

『全てはジュリアーノが悪いのだ。父上の言葉に耳を貸さず、あまつさえ父上の顔に泥を塗るとは!』


 明らかな逆恨みだが、彼の立てた計画はジョルジョよりはしっかりしていた。


 それはフロレンス南門を守備兵に扉を開けさせ、そこから法皇の雇った傭兵軍を突入させて都市を制圧するというもの。


 この計画はジュリアーノも完全にはつかみきれてはおらず、従ってこれが成功してしまうとフロレンスは法皇の手に落ちる可能性があった。


 正午の鐘が鳴る時刻になれば、法皇の軍勢は手筈通りになだれ込んでくる。そうなれば、我々にも希望が見えてくるはず。


 アベラルドは勝利を確信していた。


 しかし、彼は想定外の事態が起きていることを知らなかった。


「私に続いて!」


「「「おうっ!」」」


 甲冑を纏いし乙女の声とそれに応える男たちの雄姿。


 最低品質の鎧を身に付けた一行がフロレンス住民の希望となった。


「中央広場が見えた。あの群れに突っ込む。目標は首謀者だけ。あとは手を出さないで!」


 馬にまたがるベアトリーチェの姿は、我々の世界における自由の女神のように美しく、そして勇ましかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る