本作は、ある種の「現代寓話」だ。
構造的な暴力と、そこに抗う民衆の物語を、「少女の死」と「赦し」のイメージに凝縮させて描いている。
こういった作品は、ともすれば予定調和や感傷に回収されやすい。
けれど、この『ララの国』が多くの読者の心を打つのは、その感傷が持つ“本物の痛み”に裏打ちされた真摯さゆえだ。
ララという少女が象徴するのは、非暴力による抵抗、純粋さによる転換──だけではない。
その死は「赦し」という概念を、国家規模の変革の起点へと変貌させる。
その構図は美しすぎるほどに美しい。
だが、私たちがここで見逃してはならないのは、赦しが“無償”でなされたわけではないという事実だ。
この作品は、ララの死を「尊い犠牲」として扱ってはいるが、それを軽々しく称揚してはいない。
だからこそ、兵士の自死、ステンシルアートの変化、赦しの構図といった周囲の人々の“応答”を丁寧に描く。
赦しとは、死によって完成するのではない。
それをどう受け止め、どう描き直すかという「他者の選択」によって初めて成立するのだ。
美しすぎる構図に、時に私のような書き手は戸惑いを覚える。
だが、それでもなお、この作品の真摯さは否定できない。
これは、“どこまでもララを信じている物語”なのだ。
そういう意味で、本作はひとつの理想だ。
現実にはなかなかたどり着けない、しかし文学が描くに足る“赦し”の理想形。
その価値はきっと、読むたびに変わっていく。
そして変わっていくことこそが、赦しの物語における本当の重さだ。
感傷を超えて、倫理を語ること。
この物語は、それをやってのけている。
とても良い作品だと思いました。企画の参加、どうもありがとうございます。