第57話 ポコタ


 二人きりになったユリウスとフェンリル。なんだか気恥ずかしい気持ちになった。けれど。フェンリルはずっとこの時を待っていたのだ。二人は手を取り合い、そして剣術指南を行っていた庭へと足を運んだ。

 すべてはここから始まった。今よりもずっと小さく、幼かったユリウス。手足はすらりと伸び、幼さは微塵も感じられなかった。

 漆黒の髪と瞳は、今ではすっかり鳶色に変化しているものの、その横顔はユリウスのものであることは間違いがない。気恥ずかしそうに視線を伏せたり戻したりしている彼の頭の上では、ふかふかの耳が、ヒョコヒョコと動いている。そして腰から垂れているしっぽも、左右にゆったりと揺れていた。

 フェンリルは、そっとユリウスの名を呼び、彼の手を握った。

「傍に置いていただけますか」

「それはこちらのセリフだ。私はもう王ではない。私は行くところがないのだ。お前の傍に置いてもらえないと。宿無しだ。オルトロスのところにでも身を寄せるしかない」

「それだけは駄目です」

「そうか。悪いヤツではないが」

「いいえ。悪い男です。あなたを誘惑しようとする。オルトロスのところにだけは行ってはなりません」

 フェンリルはきっぱりと言い切った。

「最初から気に食わなかったのです。獣人けものじんだからではありません。あなたを見る目が気に食わない」

(ヤツの目は、ユリウス様を熱っぽく見つめるカストル様の目と同じ。あいつにだけは渡せない)

 フェンリルは固く心に誓った。

「しかし。カストル様が生きていらっしゃるのですから。記憶は戻らないということになりますね。ここでのこと。すべてお忘れですか」

 ユリウスは周囲を見渡して、首を横に振った。

「剣術指南を受けたことは覚えている。しかし、そこにお前はいないのだ」

「——そうですか」

「カストルが。そんな風に私を思っていたとは、気づきもしなかった」

 ユリウスの横顔が翳る。

「ずっとカストルには嫌われていると思っていた。ほんの少し、私が先に生まれただけで、彼は王にはなれない。憎まれていると、ずっと思っていた。しかし、私は一緒にこの国を治めていきたかった。私一人ではどうしようもできないことばかりだから。少しでも一緒にやってくれると信じていたのだ……」

「しかし、カストル様は違った」

「——王とは孤独。本当にその通りだったな。私が手を差し伸べたい者たちは、死に絶え、姿を消し、そして背を向ける。うまくいかぬ」

 ユリウスの目にはうっすらと涙が浮かんだ。

「エリスも悪い女ではなかった。だが。私を好いてはおらぬ。わかっていた。最初から」

「おれがいます」

 フェンリルは握ったその手に力を込めた。ユリウスの潤んだ瞳が、フェンリルを見上げた。

「例え、あなたの過去におれがいなくとも。おれはずっとそばにいた。それは事実なんです。そして、それはこれからも続く。おれは絶対にあなたのそばを離れない。約束したんですから。命尽きるまで。そばにいると」

「フェンリル……」

 ユリウスの手がフェンリルの頬にかかる。それに誘われるようにフェンリルは唇を寄せた。二人の唇が触れ合う。軽く。ついばむように。しかし、それは深いものに変わる。

 角度を変え、お互いの味を確かめるように。二人は口づけを繰り返した。頭の芯がぼうっとして。息が上がった。

(ああ、ユリウス様が欲しい)

「ユリウス様……」

 吐息交じりに彼の名を呼ぶと、ユリウスは小さく笑った。

「私は今日からポコタになった。ユリウスは死んだのだ」

「……ポコタ」

「そうだ。私の名はポコタ、だ。お前にその名を呼ばれると心が震えるぞ。フェンリル」

 名を呼ばれて歓喜するのは自分も同じだ。フェンリルはユリウスを抱え上げると、そのままそばの草むらに彼を下ろした。

「ずっと、こうしたかったのです」

「私も。きっとそうだ。記憶がない頃のことはわからぬ。けれど。お前とこうして再会してからは……。お前と一つになりたい、と」

 ユリウスの濡れた瞳が細められると、目尻から涙が零れ落ちた。

「そんなことを言われたら。我慢できません」

「我慢して欲しくないから言っているのだろう?」

「ポコタは意地悪ですね」

「そうだ。私は昔から意地が悪いのだ。わかるだろう? お前は過去の私を知っているのだから——」

 目と目がぶつかると、自然に笑みがこぼれる。フェンリルはユリウスの頬の涙に唇を寄せるとすぐに、彼の細い首筋を吸い上げた。「あ」と甘い声が洩れ出る度に、心の奥底が熱くなり、からだ中が燃やされているみたいだった。心臓が耳元にあるのではないかと思うくらい、鼓動が激しく聞こえてくる。

 フェンリルはユリウスの纏っているマントをはぎ、彼のシャツをまくり上げた。そして、脇腹から手を差し込んで、その素肌に触れる。

 川から救出したときよりも、からだつきはしっかりしてきているものの、それでも痩せていて骨ばっている。浮き出る肋骨を一本一本撫でると、ユリウスはからだを捩るった。

「……っ、くすぐったい」

「くすぐったいのがいいのです。あなたのからだの隅々まで触れてみたい」

「恥ずかしいことを言うな」

「恥ずかしいことを言うと、あなたの頬が赤くなって、かわいらしいですよ。ポコタ。——愛しています」

「フェンリ……ん」

 彼の言葉を塞ぐように口づけを再開する。ユリウスの腕がフェンリルの首に回った。二人は深く口づけを交わし、互いの熱、味を堪能していた。

(ずっと待っていた。この日を。どんなに夢見たことか)

 ふわふわとしたしっぽがフェンリルの素肌に触れる度に、くすぐったいような、幸せな気持ちになる。

 見た目は変わってしまった。けれど、ユリウスは変わらない。むしろ、フカフカの耳としっぽにフェンリルは夢中だった。

 そっと手を伸ばし、耳を撫でると、ユリウスの腰が跳ねる。

「耳はダメだ」

「ではこちらは」と言いながら、今度はしっぽの根元を撫でる。

「ひいいいっ」

 ユリウスはフェンリルに固く抱き着く。

「どちらもダメだ」

「ダメとは、言い換えれば『よい』に聞こえますね」

「聞こえぬ。そのままの意味だろうが」

「そうでしょうかね……」

(なんとかわいらしいことか)

 フェンリルは堪らない気持ちのまま、ユリウスのタヌキの耳に噛みついた。

「ひいいえええぇっ! や、だ、だ、ダメ、ダメダメダメ……」

 ユリウスの悲鳴はロマンスのかけらもないものだが。もし他人が聞いていたとしたら。なにをしているのか想像もできないような悲鳴だ。

 しかし。フェンリルは満たされている。こうして腕の中に最愛の存在がいるのだ。ずっとずっと恋焦がれてきた。王都を追い出されるよりもずっと前から——。

 それが、これからはずっとそばにいられる。この幸せは、どんな言葉でも表現しがたいものであった。






 

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