第56話 獣人の力



 遠くから中庭の歓声が聞こえる。新王の誕生に国民たちがわいているのだろう。しかし、フェンリルはユリウスを抱えたまま、静かな王宮を横切り、裏庭へと足を向けた。そこは、剣術指南をしていた場所。二人にとったら、『はじまり』の場所。

 誰もいない廊下を静かに進んでいくと、目の前にアニシアとオルトロスが立っていた。立ち止まったフェンリルの元に、彼女が歩み寄る。

「アニシア様。申し訳ありませんでした。お守りすることができませんでした」

 彼女はそっとユリウスの額にかかった漆黒の髪を撫でる。最愛の娘を失い、その子まで亡くしたのだ。彼女の悲しみは計り知れないだろう。フェンリルはそっとアニシアを見つめていた。しかし。

 彼女は突然、ふと口元を緩めた。惨憺たる状況に気でも触れたか。そう思ったとき、アニシアは「いつまで寝ている。ユリウス」と言った。

 彼女の声と同時に、ユリウスのからだが爆発したみたいにボフンと音を立てて、煙に包まれた。

 フェンリルはユリウスを落とさないように、必死に抱き寄せる。モクモクと立ち上る煙の中、「好きで寝ていたわけではありませんよ」とけだるい声が聞こえてきた。

 その声は。ユリウス。腕の中に納まっていたユリウスはそこからすり抜けると、床に降り立つ。そして、フェンリルの腕を握った。

 まるでなにかに騙されていたような感覚。煙が収まると、そこにはタヌキ姿のユリウスが、フェンリルと向かい合うように立っていた。

「ユリウス、様?」

「心配をかけたな。フェンリル」

「あ、あの。い、生きていらっしゃるのでしょうか」

「こうして話せる。立てる。こんなこともできるぞ?」

 ユリウスはフェンリルの手から離れると、クルッとターンをして見せてから、にっこりと笑みを見せた。

「アニシア様。これは一体。先ほど、ユリウス様は息をしておられませんでした。間違いありません」

 フェンリルは驚きを隠せずアニシアを見た。彼女は両手を腰に当てると、「ふふ」と笑った。

 タヌキの姿から元の姿に戻っていたユリウス。これはアニシアの持つ解除の実の力だった。タウルスを退け、王都に旅立つ直前、アニシアが一つの実をユリウスに渡した。

 それは、一時的に獣人の力を抑え、元の姿に戻れる実だと言った。元の姿に戻れば、国民はユリウスの言葉を聞くはずだ、とも。しかし、この実の力は永続的には効力を得られない。ほんの一時だという。しかも、この実は、もうこの世には存在しない。貴重な最後の一粒であるとも言っていたのだ。

「お姿の件は理解できます。もう時間ですから。お戻りになられる頃かと思っていました。しかし。息をしていなかったのは——?」

「死んでなどおらぬ。なあ、ユリウス」

「はい」

 ユリウスは両手を広げた。

「どこも怪我などしていないぞ」

「しかし」

「血が流れたか」

 フェンリルは「あ」と声を上げた。確かに、あの場にユリウスの血は流れていない。

「しかし。息も、鼓動も止まっておりました。ですから、おれはてっきり……」

「これは。タヌキの特技だ」とオルトロスが言った。

「タヌキの特技?」

「そうだ。タヌキという動物は、自らに危機が迫ると死んだふりをする。その死んだふりというのは、本格的でよう。息が止またみたいに見えるんだ。どんな動物も騙される。敵は他の動く獲物に気を取られるから、死んだふりをしたヤツは、ほとぼりが冷めれば、すぐに動き出す」

「死んだふりだったというのですか」

「そういうことだ」

 フェンリルは「騙された」と手で額を抑えた。醜態を晒した、と思ったのだ。

(だから、さきほど。オルトロスは対して興味もなさそうな態度をとったというわけか)

「知っていたなら教えろ」

 フェンリルはオルトロスを睨みつける。彼は両肩を竦めて笑った。

「面白いからな。そのままにした」

「お前、殺す」

 フェンリルは腰の長剣に手をかける。それをユリウスが止めた。

「そう怒るな。私もそんな特技があるとは思わなかった。あの時はもうダメだと思った。最後にお前の顔を目に焼き付けておこう。そう思ったくらいだ。計算外だったな」

「いや。計算通りだ」とアニシアは言った。

「計算通りですって?」

 ユリウスと同様にフェンリルもアニシアを見た。彼女は口元を上げると艶やかな笑みを見せた。

「タヌキ姿のお前は、もう王座には就けない。王ユリウスは死ななければならなかったのだ。皆の前で。ランブロスが新王になるためには、お前とカストルが邪魔だ。カストルは捕虜になって少々気が触れた王子として幽閉しておけば、なんとかなる。ランブロスが王になれば、お前は自由になれる。そうだろう? ユリウス」

 アニシアは小さい声で囁いた。

「このシナリオはランブロスと一緒に考えた。フェンリルと二人で暮らせ。お前たちを邪魔する者はもういない」

「アニシア様」

「私は帰ろう。やはり王都の空気は肌に合わない。——谷に来てもいいぞ。いつでも。歓迎する」

 彼女は笑みを浮かべると、マントを翻し、外へと飛び出した。慌てて追いかけても、もう遅い。細長い竜が晴天を切るように飛んで行った。

「行ってしまった」

「風のようなお人ですね」

「ああ」

 二人は顔を見合わせた。すると、後ろから「あーあ」とオルトロスの声が聞こえた。

「おれも帰るぞ。みんな、あの森が恋しくなっているからな」

 ユリウスは「ありがとう。オルトロス」と手を差し出す。彼は少し気恥ずかしそうにその手を受け取った。

 フェンリルは彼の元に歩み寄ると頭を下げた。

「すまなかったな。お前たちのことを一つも理解せずに傷つけた」

「いや。こっちも悪いことした。悪気はない。獣人ってやつはそういうものだと理解してやってくれ」

「人間もそうだ。互いに理解し合うことが大事だということも学んだ。だがしかし。お前はユリウス様を連れて行って、どうする気だったのだ?」

 フェンリルの問いにオルトロスは悪びれもせず笑う。

「かわいいタヌキだし。おれの嫁にでもしよかと思った」

「嫁?」

 ユリウスはフェンリルを見上げる。フェンリルは「妃のことです」と説明した。意味を理解したユリウスは耳まで真っ赤になった。

「今でも大歓迎だが。人間の世界で暮らすのは、なにかと不便かもしれないぞ。おれたちの元に来い」

 オルトロスは握りしめていたユリウスの腕を引っ張ると、あっという間に彼を抱え上げた。

「ちょっと待て。私はお前とは行かぬ」

「いいだろう? 少しくらい」

「少しとはなんだ? なにをするつもりだ」

 ユリウスに顔を近づけるオルトロスを避けようと、両腕で必死に抵抗をしているユリウス。フェンリルは長剣を抜き取ると、オルトロスに向けてすっと突き出した。

「じょ、冗談だろう? 冗談が通じないヤツだ」

「冗談には見えないぞ。オルトロス。これ以上、ユリウス様に手を触れたら、その手が飛ぶと思え」

「ちぇ、面白くない男だ」

 オルトロスはユリウスっを床に下ろすと、「おれも帰るぞ」と言って、窓から姿を消した。彼の場合も、追いかけても無駄だろう。もう姿は見えないに決まっている。北部の町に戻れば、また会うことになるに違いない。ここは一時の別れ。フェンリルはため息を吐きながら長剣を鞘にしまった。



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