第55話 決着。そして別れ
ユリウスのからだは、あっという間に崩れ落ちるた。フェンリルの頭の中で、なにかが弾け飛んだ。一緒に来ていたトルエノが槍を握り、駆けだそうとしたのをオリエンスが剣で止める。ウルも駆けだした。
カロスは目も口も大きく開けて凍りついていた。エリスは赤子を抱えたまま悲鳴を上げている——。
しかし、すべての音がフェンリルの耳には届かない。無音の世界だった。今のフェンリルには、音も、匂いも、触感も。なにも感じられなかった。悲しみの気持ちも、だ。
心の中に渦巻くは『憎悪』の念。倒れこんだユリウスに向けて、再び短剣を振り上げたシャウラの背後に駆け寄ると、長剣をシャウラの首元に突きつけた。その剣先は明らかに殺意に満ちている。少しでも力を加えれば、この邪悪なる男の命を終わらせることができるのだ。
(殺してやる——!)
だがしかし。シャウラの足元に倒れているユリウスの横顔を見た瞬間。フェンリルは我に返った。
「ユリウスを殺した私が憎いか。フェンリル」
シャウラは両手を挙げ、フェンリルを見上げた。その瞳は、まるでなにも映してはいなかった。ぽっかりとそこだけ穴が開いているみたいだった。気味が悪いくらいに空虚な瞳。しかし、フェンリルの心に浮かんでいた憎悪は納まるどころか、増長していくばかり。
——シャウラヲ、コロセ
心の奥底でそう叫ぶ声が響いている。フェンリルの手は震えた。死線を何度も潜り抜けた。何人もの命を奪ってきた手だ。今更、なにを躊躇することがある。そう囁く声も聞こえてくる。しかし。
(駄目だ。ユリウス様はそれを許さない。この男を裁くのはおれではない)
フェンリルの表情に殺意の色が薄れたのを感じたのか。シャウラは嘲るように、短い笑い声をあげると、「オリエンス! ここにいる者たちはみな殺しだ! 殺せ! みんな殺せ!」と叫んだのだ。
しかし、オリエンスは動かない。彼はトルエノとの攻防に敗北し、拘束され膝をついていたからだ。トルエノは「残念だな。シャウラ」と肩を竦めて見せた。カロスとエリスはウルに拘束されていた。
「お前を助ける者はここにはいない」
広間では国民たちが暴徒化していた。国民たちはシャウラの反逆を目の当たりにしたのだ。
「シャウラを殺せ」
「王を殺した」
「売国野郎!」
「おれたちをだました!」
国民と騎士たちは押し問答を繰り広げている。混迷が混迷を呼ぶとはこのことだ。この騒動をどう納めるのか。フェンリルはユリウスを見つめた。
(ユリウス様——)
その瞬間。シャウラはフェンリルの隙をつき、短剣を握り直すと、あっという間にフェンリルに襲い掛かってきた。
「どうせ死ぬならお前も道連れだ! ユリウスと共にあの世に行け!」
しかし、その剣先は鋭敏さには欠けるものだ。ここまでくると哀れにも見える。フェンリルは長剣を持ち替えると、柄の先で彼の後頭部を強打した。シャウラはよろよろと力なく床に突っ伏したかと思うと、動かなくなった。
足元に転がるシャウラ。憎かった。ユリウスにひどい仕打ちをしてきた。それから、自分のことも陥れたのだ。憎んでも憎んでも憎み切れない。だがしかし。
(これでいいのでしょう? ユリウス様……)
トルエノはシャウラの両手を背中で縛り上げた。
「団長は腑抜けではない。お前を殺したくて殺したくて仕方がない気持ちをぐっと堪えられるお方だ。情けないお前よりもずっとずっと崇高なるお人だ」
トルエノはそのままオリエンスに言った。
「お前も騎士としての端くれなら、最後にどうすべきはわかっているな」
「トルエノ様……」
オリエンスはうなだれた。
「こんなことをさせるためにお前を育てたわけではない」
トルエノはため息を吐くと、「終わりました」と言った。フェンリルはゆっくりとユリウスの元に歩み寄る。蒼白な横顔は微動だにしない。そっと口元に耳を寄せるが、息をする音は聞こえなかった。
フェンリルの中に初めて「悲しみ」が生まれた。シャウラへの憎悪などとは比べることもできないくらいの大いなる悲しみだった。
目頭から熱いものが流れ出る。漏れ出そうになる声を押し殺し、フェンリルはユリウスの頬に自分の頬をこすりつけた。
声にもならぬ悲嘆は、静かに広まっていく。
——フェンリル。
漆黒の瞳が細められ笑みがこぼれる。
か細い指先が、フェンリルを求めるかのように差し出される。
しかし。それは砂のように崩れ去る。
「ユリウス……様。ユリウス——」
何度呼んでみても、彼が答えることはない。背中に添えた手から伝わってくるはずの鼓動が感じられなかったのだ。
「私は王になるのだ。だが、私よりもカストルのほうが王にふさわしいと思っている者たちが大勢いる。フェンリル、お前はどう思う?」
剣術指南の時。ふと彼はそう言った。
「なぜおれに聞くのです」とフェンリルは答えた。すると、ユリウスは恥ずかしそうに頬を朱に染めた。
「お前は嘘を吐かないからだ。私を第一王位後継者として見ていないのはお前だけだろう? お前だけが、私をただのユリウスとして扱ってくれる。だからお前に聞いた」
フェンリルは「申し訳ありません」と頭を下げる。しかし、ユリウスは首を横に振った。
「嬉しいのだ。腹を割って話せる者は少ない。父ですら本音を言えぬ。それよりもどうだ。私は王になれるか」
「なれます」とフェンリルは言った。
「お前も嘘を吐くか」
「いいえ。ただ条件つきで、です」
「条件だと?」
「そうです。カストル様を推している貴族たちを黙らせる圧倒的な力が必要になるでしょう」
「力? 力で抑えつけろと?」
「違います。武力ではありません。皆があなたを王として認めるほどの信頼。安心感のことです。賢くならなければなりません。周囲の気持ちを汲み取る力も必要です。そして、ときには心を悪魔にする強さも必要だ。上に立つ人間は孤独です。その孤独に耐えられる力が必要です」
フェンリルの言葉に、ユリウスの横顔は曇った。
「孤独か。すでに孤独ではあるが。今はお前がいる」
彼はフェンリルを振り返る。
「お前はいてくれるか。私が、孤独な王になったとしても。お前は傍にいるか」
「——そうですね。あなたに遠ざけられることがなければいるでしょうね」
「腑抜けになったとしてもか?」
「腑抜け? そうなったらおれが正してみせますよ」
「本当か?」
ユリウスはキラキラした瞳を細めた。
「約束だ。お前だけは傍にいろ。私の命が消えるときまで。必ず傍にいると約束しろ」
ユリウスの細い小指が差し出された。フェンリルはそれを小指で受ける。二人の指が絡み合い、そして心が通い合った。
「約束は守ります。あなたのお傍に。ずっと、こうして——」
ユリウスに覆いかぶさるようにしているフェンリルの肩に暖かいものが触れた。ランブロスだった。彼が到着したのだ。中庭の暴動はすでに沈静化していた。王宮の騎士たちでは抑えきれなかった暴動も、ランブロスが連れてきた騎士や獣人たちの力で納まっていたのだった。
ランブロスはフェンリルが抱いているユリウスの姿を見て、眉間に皺を寄せた後、軽く息を吐き、バルコニーに立った。死んだと思われたランブロスの登場に、中庭はどよめきと、そして一部歓喜の声が上がった。
「我々は愚かであった。シャウラという一人の男に踊らされ、そして大事なものをたくさん失った。私の兄であるノウェンベルク。そして、甥のユリウス——」
彼は一息つくと続ける。
「ノウェンベルク暗殺の黒幕はシャウラであった。ユリウスが伏していた原因も、同様の毒物であったと推測される。今、研究所にその証拠を見つけるべく調査を入れている。真実はすぐに明らかになるであろう。
シャウラの策略で王都を追放された者たちは、王都に引き戻す。利己的な王政は終いにして、私は王政を正しい道に戻したいと考えている。しかし、本来であれば王として王政を司るべきユリウスはシャウラの手にかかった。我々には新しい王が必要だ——」
フェンリルはユリウスを抱きしめたまま、ランブロスの後ろ姿を見上げていた。ランブロスと一緒に姿を現したオルトロスがユリウスの元にやってきた。
「死んだのか」
「息をしていない」
オルトロスはユリウスに鼻先をつけたかと思うと、「なんだ」と言った。
「どういう意味だ」
フェンリルの問いに、オルトロスは興味もなさそうにその場を離れていった。
「獣人っていうのは冷たいですな」
トルエノがつぶやく。
「命がなくなったものには興味がない、ということでしょうか」
フェンリルにはわからない。ただ、悲しみが深すぎて、思考が回らなかった。ランブロスの演説は素晴らしいものだ。しかし、フェンリルの心には一つも響かない。最愛の存在を失った今。フェンリルはなにを頼りに生きていけばいいのだろうか。
フェンリルはユリウスを抱き上げ、そっとその場から立ち去った。トルエノとオルトロスはそれを黙って見送ってくれた。ユリウスの弔いが行われる前に。二人きりでいたかったのだ。
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