第48話 口づけと告白


 瞼を開くと、そこには涙で目元を腫らしたタヌキのポコタがいた。

(ポコタ……。いや。ユリウス様)

 フェンリルはその指でユリウスの頬を撫でる。すると、彼は更に涙をこぼす。

(みっともないですよ。王であるあなたが。そんな泣いてはいけません。けれど。おれのために泣いてくれているのでしょうか。嬉しいです)

「ああ、フェンリル」

 嗚咽交じりに自分の名を呼ぶユリウスの細い首に腕を回し抱き寄せた。

「申し訳ありません。また泣かせたようです」

「こうして、お前がそばにいてくれるなら。いい。私はなにもいらぬ……フェンリル」

「思い出してくださったのですか?」

 ユリウスは首を横に振った。

「すまない。私には魔法がかかっているそうだ。カストルを殺さなければ、お前のことを思い出すことは出来ぬというわけだ」

「そうですか。カストル様が……」

(おれを忘れさせる魔法をかけた犯人というわけか)

 フェンリルは言葉を切った。しかし、ユリウスは涙を拭うとまっすぐにフェンリルを見据えた。

「確かに過去のことは思いだせぬ。皆からお前とのことを聞いたが、ちっとも思い出せないのだ。しかし——。タヌキになり、川で流れついた時からのお前とのことは全て覚えている。私にとったら、それはかけがえのない時間。大切な時間だ」

 フェンリルはユリウスをじっと見返した。彼は目元を朱に染め、そして言った。

「私は。きっと何度記憶を失おうと、お前を大事に思うのだと思う。お前さえ、そばにいてくれたら。きっと……私は。強くいられるのかもしれない」

「ユリウス様……」

 フェンリルの心は熱くなる。過去は過去。今大事なのは、こうしてユリウスと一緒にいられる時間なのだ。

(おれが覚えていればいい。過去のことは、このおれの胸にこうして今もあるのだから)

 フェンリルは再びユリウスのことを引き寄せる。すると、彼の冷たい唇が、自分の唇に触れた。

 それはまるであの夜の口づけ。けれど、別れの口づけではなかった。

「よかった。無事でいてくれて。もうあんな無茶はするな」

「あなたが最初に無茶をしたのです。同じ言葉をそっくりお返しいたします」

「……聞いておこう」

 ユリウスは咳払いをすると、からだを起こした。

「しかし。なぜ私がユリウスだとわかったのだ。お前はミーミルが到着した後、ずっと伏していて、話を聞いていなかったというのに」

 ベッドの横に腰を下ろしたユリウスはフェンリルを見つめていた。

「そうですね。随分と最初の頃から気がついていました」

「いつだ」

「この部屋であなたが目を覚ました時に」

「なぜだ。見た目が変わっているのだぞ?」

「わかります。その瞳……。そして、その傷」

 ユリウスは肩の傷に触れた。

「お前に迷惑をかけた傷だ」

「いいえ。おれにとったら、その傷は大切なものです」

 フェンリルは静かにユリウスを見つめていた。彼が見つめれば見つめるほど、ユリウスは恥ずかしそうに耳まで真っ赤にして視線を逸らす。

「そんなに前から知っていたのに。知らぬふりをしてからかっていたのか」

「必死に身分を隠そうとしているお姿。とても微笑ましかったです。それに、そのタヌキもかわいらしい。おれはこっちのほうが好きかもしれない」

「微笑ましい? 好き?」

「そうです。もう一度、口づけをしたくらい。愛おしい」

 ユリウスは、ぱっと頭のてっぺんまで沸騰しそうなほど赤くなって、口をぱくぱくとさせていた。

「お、お前という奴は!」

「おれはずっと好きでした。叶わぬ思いとは知りつつ。ずっと。ユリウス様をお慕いしておりました」

「——……っ」

 ユリウスはフェンリルのところに倒れこむと、シーツをぎゅっと握って顔を埋めた。

「ユリウス様?」

「見るな! は、恥ずかしいではないか!!」

「それは、嫌ではない、と受け取ってもよろしいのでしょうか」

「嫌なものか! 嫌なものか! 私はお前が……大事だ」

 今度は、ぱっとからだを起こしたかと思うと、ユリウスは瞳を潤ませてフェンリルを見つめ返した。その細められた瞳に浮かぶのは恋情の色。フェンリルは嬉しい気持ちになって、ユリウスに手を差し出した。ユリウスはそっとフェンリルのそのからだに額をくっつけて身を寄せた。

「お前のからだは熱い。心臓がドクドクと音を立てている」

「嬉しいのです。心が弾んでおります」

「お前には心に思う人間がいるのかと思っていた。あの夜。花火イグーネス・フェスティーを見た夜。お前は見せたい者がいると言っていたではないか」

「それは——あなたです。ユリウス様。一緒に見られて、幸せでした」

 ユリウスは「ううううう」と唸ったかと思うと、「だから、なぜお前はいつも裸なのだ!」と叫んだ。

 どうしたらいいのかわからないのだろう。困らせるつもりはないのだが。一人で困っているユリウスが愛おしく、フェンリルはただ黙って彼を抱き寄せた。

「だから……」

「もういいのです」

「……うう」

「もういいのです。ユリウス様」

 フェンリルはユリウスをあやすように頭を撫でる。彼は観念したのか、静かになり、そっとユリウスのからだにその手のひらを添えた。

(こうしたかった。ずっと。こうしたかったのだ)

 二人は黙り込み、そして互いの熱を感じる。ユリウスの耳が素肌に触れて、くすぐったかった。


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