第46話 死の谷の戦い



「しゃべるんじゃないぞ。喉が動けば、お前は確実に死ぬ」とオリエンスは低い声で言った。

「ミーミル! 黙っておけ」

 ウルは心配そうに叫ぶ。ミーミルは弱ったような笑みを見せた。

 警戒心の強い瞳で周囲を詮索していたオリエンスは、ふとユリウスに視線を向けた。

「このタヌキが王だと? 姿形とは違いすぎて、にわかには信じがたい」

 彼の後ろからは、幾人もの騎士たちが姿を現すと剣を構えた。そして——。

「兄さん!」

 騎士たちを掻き分けるように姿を見せたのはカストル。彼は宝玉のような碧眼を曇らせていた。

「そのタヌキが兄さんだというのか? カロス」

「その通りでございます」

 それから更に遅れて姿を現したカロスの答えに、「信じられない」という表情を浮かべたカストルは首を横に振った。

「いや。いいんだ。姿が変わったのなら、僕にとったら、好都合なことだ」

「好都合?」

 ユリウスはカストルを見つめる。彼は「そうだよ」と言った。

「獣人を囲う貴族はたくさんいる。その姿では兄さんだとわかる者は一人もいない。王都に連れ帰り、堂々と兄さんを僕のものにできるというわけだ」

 カストルの言葉の意味が理解できなかった。彼は、シャウラの娘であり、自分の妻であるエリスと関係性ができているはずだ。だが——。

「お前に忘却の魔法をかけ続けているのは、あの男であろう」

 ふと耳元でアシニアの声が聞こえた。

(え——?)

「僕がいるというのに、兄さんはフェンリルのことばかり見てきた。フェンリルなんて、どうだっていいじゃないか。ただの卑しい家臣だ。兄さん! なんでそんなに目をかけるの? 」

「なにを言っているのかわからない。お前は私を蹴落として、王位に就きたかったのではないのか」

「そうだよ。王様は僕だ。僕が王になる。そして兄さんと二人で国を治める」

 ユリウスには理解ができない。目を細めてカストルを見据えた。

「そーんな顔しないでよ」

「お前は……、エリスを正妃にするのではないのか」

「エリス? シャウラは使えるから。そのためにエリスにはいい思いさせておいたほうがいいかなって。だって。僕が本当に大事に思っているのは——兄さんだけなんだから。僕たちの血は優秀だ。他の血が混ざることなど許されない」

 ユリウスはここで理解する。この男——狂っている。自分が知っている弟ではなかった。泣き虫で、努力することが苦手で、口先ばかりで、その容姿と愛嬌で人から寵愛されている出来損ないの王子ではないのだ。

 目の前にいるカストルは、いつの間にか歪んだ愛に支配された男に成り下がっていた。

「お前が、私に魔法をかけたのか」

 ユリウスはそっと彼に尋ねる。彼は「そうだよ」と満面の笑みを浮かべてうなづいた。

「カロスに頼んだ。そうだよね。カロス」

 カロスは頭を下げる。

「あの男を殺せ。魔法が解ける。お前は大事な人間のことを思い出す」

 アシニアの囁きが耳元で聞こえた。

「フェンリルなんて、死んでしまえばよかったのに。なんだよ。すっかりここに居座って。ちょうどよかった。僕にとったら好機。兄さんを今日ここで手に入れる」

 その言葉に反応したのはトルエノとウル。二人の殺気が周囲に立ち込める。彼らにとったら、フェンリルは尊敬すべき上官だ。気持ちはわかる。ユリウスも同じ気持ちだった。しかし。今はミーミルを救うことが先決だと判断した。

「堪えろ」

 ユリウスの視線に「わかっております。けど……」と、トルエノが不満な声を上げるが、ユリウスはそれを許さない。

「武器を捨てろ。ミーミルの命が最優先だ。カストル。私がそちらに行けば、ミーミルを開放するか」

 カストルをまっすぐに見据える。カストルの後ろに控えていたカロスは、からだを強張らせたかと思うと、フードで顔を隠し一歩下がった。ミーミルを拘束しているオリエンスは珍しく瞳の色を変える。そこにいる二人はユリウスのその視線にたじろいでいるようだった。

 しかし、カストルは違った。彼は両手を叩いて「やっぱり、そのタヌキは兄さんなんだ!」と歓喜の声を上げた。

「そんなみすぼらしいタヌキの姿をしていてもわかる。その瞳は、高貴なる力を持っている。中身は僕の大好きな兄さんだ! 兄さんがこっちにくるなら、この男は開放する」

 カストルは目をキラキラと輝かせてユリウスを見ていた。

 ユリウスは軽く息を吐いてから、「約束するか」と尋ねる。カストルは「もちろんだよ」と両手を広げて笑った。

「いけません。ユリウス様を手に入れたら、残りは皆殺し。それがシャウラ一派の手だ」

 トルエノはユリウスに忠告する。しかし、ユリウスは首を横に振った。

「……お前たちは武器を捨てろ。ミーミルを救うのが先決だ」

 ウルとトルエノは顔を見合わせた後、しぶしぶと手持ちの武器を地面に放り出す。ユリウスはそれを確認しながら、前に前にと歩みを進め、カストルたちの元へと歩み寄った。

 オリエンスは、ウルもトルエノが両手を上げていることを確認しながら、ミーミルの喉元に当てていたナイフを下ろした。そしてミーミルを突き放すと、そのままユリウスの腕を引いた。

 その瞬間。薄暗い峡谷に、まるで太陽が落ちたような眩い光が充満した。ユリウスの視界もあっという間に光に支配され目が明けていられなくなった。思わず瞼を閉じ、腕で視界を遮る。その瞬間。誰かに抱えられ、ユリウスのからだは宙に浮いた。

「一体、なんなんだ? これは!?」

 光に包まれる中、カストルの悲鳴が聞こえる。ユリウスは周囲をうかがった。自分は、なにかに抱え込まれているようだった。眩い光が収まり、視界が明瞭になると、そこには大勢の人たちが見えた。

 彼らはアニシアと同じような恰好をしている。この集落に暮らす人々だろう。彼らは指を口元に当て、魔法を発現させるポーズをとっていた。どうやら、この光は彼らが起こしたもの。

「ここで好き勝手なことをされては困るよ。ここをどこだと思っているんだい?」

 アニシアは鼻を鳴らした。

「招待していないお客様には即刻、立ち去ってもらおうかね」

 彼女の言葉を合図に、彼らは一斉にカストルたちに神々しい光の玉を放った。

「多勢に無勢ですぞ。カストル様!」

 カロスは慌てて防御の魔法を展開し、カストルたちを守った。カストルは悔しそうに、その場で地団太を踏むと、「撤退」とだけ言った。彼らはあっという間に集落から姿を消す。

「追いますか」

 一人の男がアニシアに問うが、彼女は首を横に振った。

「死の谷は新参者を寄せ付けない。迷子になって、野たれ死ぬだろう。放っておけ」

 アニシアはそう答えると、ユリウスを見た。

「どうやら、相手は油断ならぬ相手のようだ。そのシャウラという者が影で糸を引いているのであれば、すぐに追手が来るに違いない。ゆったりしている時間はないようだ。お前の大事な者をまず救おう」

「はい」

 アニシアは口元に指を二本押し当てると、「スー」と音を立てて息を吐く。彼女の息は白い煙と共に、長く細く続いていく。そして、それはしだいに大きさを増し、大蛇のような姿になった。

「ひえええ」

 ウルが腰を抜かした。

「竜……だ」

 ミーミルは歓喜の声を上げた。

「アニシアさん! すごいですね」

「太ったドラゴンでは、この峡谷は渡り歩けなくてな。このタイプが一番使い勝手がよいのだ」

 彼女はいたずらに笑みを見せると、ユリウスに言った。

「乗れ。城に行く」

 ユリウスは、「お願いします」と頭を下げた。


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