第45話 山の民


「見えましたよ~」

 先頭を歩いていたミーミルが声を上げる。一同は慌てて彼の元へと駆け寄った。切り立った谷間にひっそりと姿を現したのは、小さな集落だった。雪風にさらされることのないその場所は、住みやすい場所なのかもしれない。

 小川のほとりに佇むのは、簡素な作りの木造の家屋。一つ一つがとても小さく見えた。それがいくつか肩を寄せ合うようにある。

 人の姿は見えなかった。

「本当にここに住んでいるのか?」

 トルエノが怪訝そうな声色で尋ねると、ミーミルは「まあ、行ってみましょうよ」と両手を叩いた。

 彼は颯爽と歩みを進め、その集落へと足を踏み入れた。すると、奥まった一つの家から、初老の女性が顔を出した。薄灰色の毛皮のマントを纏い、つややかな漆黒の長い髪を編んでいる。雪白の肌に、そのぱっちりとした双眸は、まるで黒水晶のように輝いている。

 タヌキになる前のユリウスの姿そっくりの女性だった。

「誰だ。お前たちを招いた覚えはないぞ」

「ミーミルです。族長。お久しぶりです。わー! なんか。全然、変わらないですね! 覚えていますか? ミーミルです!」

 ミーミルは両腕を広げて女性の元に駆けていくが、彼女は怪訝そうに眉を潜めた。

「ミーミル? ああ、覚えているとも。なにをしにきた。もう二度と来るなとい言ったはずだ」

「それが、そうもいかない事情ができたんですよ」

「事情だと?」

 ミーミルはユリウスを振り返った。それにつられて、彼女もユリウスを見る。

「タヌキの獣人……。まさか。お前はユリウスか」

 彼女は驚いたように目を見開き、ユリウスを見ていた。

「ユリウスです。あの……」

 そこで、トルエノも彼女の前に跪いた。

「トルエノにございます。アシニア様。お久しゅうございます」

 アシニアと呼ばれた女性は、トルエノを見て、ますます眉間にしわを寄せた。

「ユリアを連れ去りし憎き男の友か」

「ノウェンベルクはユリア様を大事に思っておりました」

「ではなぜ死んだ。あの男はユリアを大事にすると約束した。なのに、ユリアは死んだ。我々は、この大地の神の加護があってこそ生きている。ユリアは、神に見放されたのだ。外に出すべきではなかった。ユリアをこの地から引き離したあの男のせいだ」

 ユリウスは彼女の存在を理解した。彼女はユリウスの母であるユリアの母。つまり、自分からしてみれば、祖母ということになる人だろう。

 出会うのは初めてだった。母親のふるさとへ来たことはなかった。トルエノやミーミルと会話していても、アシニアの瞳はユリウスからひと時も逸らされることはなかった。彼女は愛情深い女性であると理解した。初めて出会う自分を気にかけてくれている。そう感じたのだ。

 ユリウスは小さくうなずくと一歩前に出た。

「会えて嬉しいです。アニシア様」

「ユリウス。もっと近くに。顔を見せておくれ」

「はい」

 ユリウスはアシニアの前に立つ。ユリウスよりも少し小柄な彼女は、まるで食い入るように自分を見つめていた。しかし、近くで見るほど彼女の肌には張りがあり、年を重ねているようには見受けられなかった。

 彼女は、そのほっそりとした細い指で、ユリウスの頬に触れた。

「ユリアに渡した。困ったときに使うようにと。タヌキの獣人になる実だ。お前はそれを口にしたのだな。一体、なにがあった。ユリウス」

 それから彼女はユリウスの首筋に顔を近づけた。

「王宮を逃げ出しました。シャウラという宰相に騙され、ずっと薬で寝かされていたのです。私は愚かで、シャウラの腹の底を見抜くことができませんでした。父が死に、途方に暮れていた時に差し出された悪魔の手を握ってしまったのです」

 アシニアは目を細めた。

「お前は幼く愚かだったかもしれないが、それもまた運命。お前はその運命から、逃がれようと、獣人の実を思い出し、口にしたのだな」

「ここにいるミーミルが私に処方されていた薬の材料を正しいものにしてくれたおかげで、正気に戻ることができました。命の恩人です」

 ミーミルはうやうやしく頭を下げた。

「それから、ウルとトルエノも。私を助け、ここまで付き従ってくれた」

 アシニアは口元を緩めた。

「お前は孤独ではない。お前には、お前に力を貸してくれる仲間がいるのだな」

「そうです。ですから。今日は、お願いがあってきました」

 ユリウスはアシニアの漆黒の瞳を見つめた。それはまるで母と同じ色だった。懐かしい気持ちになる。心の奥がじんと暖かくなった。

「私の大事な人を助けてほしいのです。彼は今、死の淵をさまよっている。獣人の毒を中和する薬を、あなたなら作れると聞いた」

 彼女はユリウスの目をじっと覗き込んでくる。その気持ちを推し量っているようにも見えた。

「大事な人、か」

「そうです」

 彼女は、ふと口元を緩めると、「お前には忘却の魔法がかけられているな」と言った。それから、ユリウスのからだをつま先からてっぺんまで見渡す。ユリウスは「大事な人の記憶がないのです」と答えた。アシニアはうなづいて見せる。

「だろうな。嫉妬の念がお前を取り囲んでおる。執着が生む質の悪い魔法だ。お前を独占したいという気持ちがにじみ出ている」

「解除できますか」

 ユリウスがそう尋ねたとき。「動くな!」という声が響いた。はったとして顔を上げると、一人の騎士がミーミルを後ろでに捕まえ、その首筋にナイフを突きつけていた。

「ミーミル!?」

 ウルは弓を構える。しかし、騎士は「武器を捨てろ。こいつの命が消える」と低い声で言った。トルエノはウルをなだめる。

「武器を下ろせ。ウル」

「しかし……」

 ミーミルは「あはは、ごめん。つかまっちゃった」と苦笑いを浮かべた。彼を捕獲している騎士は見たことがあった。王宮の騎士団長であるオリエンスだった。

「オリエンス……」

「タヌキだ。茶色い毛。おい。ミーミル。あの部屋で採取した毛は、あの獣人のものか?」

 ミーミルをぐっと引き寄せたオリエンスは彼の耳元でささやく。

「さあ。あの毛が手元にないから、比べようがないですね」

「減らず口を。天才と言われたお前が、忘れるわけもなかろう」

「褒めてくれるんですね。嬉しいなあ」

 オリエンスはミーミルの首に当てたナイフに力を入れる。彼の首筋から一筋の血が滴り落ちた。

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