第44話 峡谷と幸せな時間


 ユリウスたちは、山の民を探し切り立った峡谷を黙々と歩いて行った。死の神—タナトス—と呼ばれるだけのことはある。かなりの時間、歩いているというのに、見えている景色は一向に変わる気配はない。しかも複数の川があちらこちらで合流しては離れていく。複雑な川の流れに沿ってできている峡谷は、まるで迷路。不用意に入れば、死ぬまで抜けられないだろう。

 しかし、ミーミルは分岐点に差し掛かると、悩む様子もなく進行方向を選ぶ。後ろをついていくトルエノが怪訝そうな顔を見せた。

「本当に間違いないのか。かなり奥深くまで入り込んできた。ここで迷子になったら、タナトスのにえになるだけだ」

「心配しないでくださいよ。ちゃんと覚えていますから」

「そうそう。ミーミルは天才だからね」とウルはミーミルに加勢する。二人はどうやら、かなりの信頼関係で結ばれているらしい。トルエノは肩を竦めると、ただ黙って歩いていた。ユリウスはその後ろをついていく。

 王宮で寝かされていた時間は、ユリウスの体力を大幅に削っていた。ここにきて、少しずつ動けるようにはなっているものの、長時間、岩場を渡り歩くこの道のりは、ユリウスにとったら厳しいものであったのだ。

「まだかかるか?」

 トルエノはユリウスを気にするように視線を寄越す。ユリウスは「大丈夫だ。トルエノ。私は大丈夫だ」と返したが、その声は掠れていて、声になっているとはいいがたいものであった。

 ユリウスは額の汗を拭う。峡谷は切り立った崖に阻まれ、肌を突き刺すような風が吹き込まない。防寒具であるマントが煩わしく感じられるほど、気温は高かった。

「大丈夫そうには見えないのですが……。ここには馬もありません。私が背負っていきましょうか」

 トルエノは気の毒そうにユリウスを見ていた。ユリウスは耳まで熱くなる。

「心配無用だ。皆についていく。私には構わず進んでくれ」

「王様がそう言うんだったらいいじゃないか。トルエノは過保護だな」

 ウルは笑った。トルエノは「そうじゃない」と首を横に振る。

「ユリウス様の歩調に合わせていたのでは、いつになっても集落にたどり着かない、という意味だ」

 ユリウスはますます俯くしかない。足手まといなのは重々承知。いつもは悠然としているトルエノが珍しく、焦っているようにも見えた。トルエノは自分の隊長であるフェンリルの身を案じているのだろう。フェンリルは随分と部下たちに信頼されているようだ。

「ありゃ。そっち?」

 ウルは大きな声で笑った。それから両肩をすくめて見せる。

「王様だけじゃないよ。こっちも……」

 ウルの視線の先には、ミーミルがいた。彼は近くの岩に腰を下ろすと、「いやあ、参った。参った」とため息を吐いた。

「少し休みましょうよ。疲れました」

 彼はあっけらかんと言い放つ。トルエノは「軟弱者めが」と悪態を吐いたが、ミーミルはお構いなしだ。

「いいじゃないですか。休みましょう。ここまでくれば、もう少しですよ。そう焦らなくとも」

「こんなことをしている間に、師団長にもしものことがあったらどうするのだ」

「大丈夫ですよ。兄さんは殺しても死なない人だ」

 ミーミルはふと笑みを消した。フェンリルの身を一番心配しているのは、ほかの誰でもない。弟である彼なのかもしれない。

 ミーミルという男は、人の気持ちに興味がない研究者のように見えるが、その実、周囲の人たちのことをよく見て立ち回っている男なのかもしれない。あのぶっきらぼうで、がさつなウルですら、彼にはかなりの信頼を置いているようだった。

 ユリウスはミーミルの隣の岩に腰を下ろした。ウルは「水を汲んでくる」と小川に向かう。みんなが休憩をとる様子を見てあきらめたのか。トルエノも近くの岩に腰を下ろすと、静かに目を閉じた。

「体調はいかがですか。王様」

 ミーミルはユリウスに尋ねた。

「とてもいい。川に流されたときは、どうなることかと思ったが。自分のことは自分でして、仕事もある。食事はおいしくはないが。それでもありつけたときのうれしさと言ったらない」

「それは健康的だ!」

 ミーミルはにっこりと笑みを見せた。

「本当に申し訳ありませんでした。カロス所長が。まさかシャウラとつながっていたなんて。見抜けませんでした。僕もすっかり騙された」

「お前のせいではなかろう。すべての元凶は私にある。この一連のことすべてがな……」

 ユリウスは言葉を切ると、視線を足元に向けた。

(どうすれば報いることができるのだろうか。……いや。今は、目の前にあることだけを考えるのだ。すべてが終わったら……。すべてが……)

「ええっと」

 ふとミーミルが大きな声を上げた。ユリウスは驚いて顔を上げる。

「ここにも、ここにも。石があります」

「そう……だな」

「で、ここには僕が。そして、ここには王様が」

「ああ、そうだ」

 ミーミルは笑みを浮かべて、「あそこには、ウル。トルエノさん」と言った。一体、彼はなにが言いたいのだろうか。

「みんな違う人なんです。みんな違う。そして、それぞれが、違う役割を持っている」

「役割……」

「そうですよ。僕は研究者だ。王様の仕事はできない。けど、王様は僕の仕事はできない。そうでしょう?」

「確かに。そうだな……」

「ユリウス様は、ユリウス様の立場で必死にやってこられた。けれども、一人の力ではどうすることもできないことだってあるんです。現に、今の僕がそうだ。研究者として王宮にいたかったけれど。今、なぜかここにいるわけで。なんか、必死にもがいても、ダメな時ってダメなんですよ」

 ミーミルはあっけらかんと笑った。ユリウスは黙り込んだまま、彼の横顔を見つめた。

「過去を振り返ることは無駄ではありません。けれど、過去にしがみついていても前には進めないんだ。前、向きましょう。ユリウス様には、ユリウス様にしかできないことがあるんです。それを全うしてくれるのであれば。きっと、みんな。あなたについていく」

 ミーミルは目をきらきらとさせて、ユリウスを見ていた。ユリウスは、はったとしてトルエノとウルを見た。ウルは水袋を握ったまま、肩をすくめた。

「別に怨んじゃいませんよ。おれの人生なんて、ずっと他人に好き勝手されてきたんだ。辺鄙なところに流されて文句を言ったって、なにも変わりはしないことくらい知っているんです。けど、今回は特別だった。師団長がいた。仲間がいた。うるさいけれど、じいさんもいた」

 ウルの言葉にトルエノは「一言余計だ」と両腕を組んだ。

「仲間がいるっていいです。友達もいる。そこにタヌキの王様まで加わったんだ。こんな楽しいことないです」

 トルエノは大きくため息を吐いた。

「私も隠居の身。親友が……。あなたの御父上がお亡くなりになったときに、私の人生も終わっているのです。だが、第二の人生を与えてくれたのは師団長だった。師団長は、まだもう少し、若者に混ざってやってみたい。そう思わせてくれた人だ」

 トルエノは目を細めてユリウスを見ていた。

「大きくなられた。姿かたちは違えど、幼き頃の面影があります」

 ユリウスは胸がぎゅっと締めつけられた。両手を握りしめ、そして俯く。

「優しすぎるのだ。お前たちは……。文句の一つでも言われたほうがすっきりするのだが」

「文句言って欲しいんですか? なら、全部終わったらぶちまけましょうか」

 ウルは大声で笑う。トルエノは「首が飛ぶぞ」と苦笑した。ミーミルも「それはいい」と両手を打ち鳴らす。

「心のうちを話す会。いいじゃないですか。やりましょう!」

(まったく。敵わない。この者たちには敵わないのだな)

 ユリウスも釣られて笑った。ほんの束の間。けれど、ユリウスにとったら心の奥まで温かくなるような幸せな時間だった。

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