第43話 路地裏の邂逅

「お前の兄君は、すっかり王都から遠のいて、体調が悪いとも聞くが。もしかしたら、あまりよくはないのではないか」

 オリエンスはコルヴィスを連れたまま裏路地を抜け、少し開けた場所に立った。

「そうですか。しばらく会うこともままなりませんから。私にはわかりません」

「心配ではないのか。たった一人の肉親だぞ」

「兄は兄。私は私。私は私のできることを全うするだけの話です」

 コルヴィスは視線を逸らす。しかし、オリエンスはフードを外すと、その眼光鋭い双眸で、コルヴィスを見降ろしていた。

「定期報告が途絶えて、シャウラ様が心配しておられた。この騒ぎは、戦争の準備だな」

「それは……」

 コルヴィスは黙った。そのしぐさを見ながら、オリエンスは声色を変えた。

「どうやらタウルスの進軍についても、ミーミルが話をしたか」

 彼はそう呟くと、すぐにコルヴィスに視線を戻す。

「ユリウスはここにいるのか。獣人の恰好をしている。ミーミルから聞いたはずだ。あの男はおしゃべりだ」

 コルヴィスは努めて冷静さを装い「さあ」と首を傾げて見せた。しかし、オリエンスは愉快そうに笑いだした。

「なにがおかしいのです」

「ユリウスのことを隠しても無駄だ。お前が定期報告を怠ったのは、ユリウスのことを報告できなかったからではないか」

「それは……。私はこれでも忙しいのです。要塞の管理はすべて私が一人で担っている。特段、報告すべき事象がなかったので、ついうっかり報告するのを忘れていただけです」

「ついうっかり、だと? お前ほど優秀な人間が、いっぺんに二つのことができないはずがない」

「オリエンス様。私のことを買い被り過ぎでございます」

 コルヴィスの心は大きく揺さぶられた。オリエンスから視線を逸らしてはならない。嘘が見破られる。オリエンスという男は、騎士として優秀な人材だ。人の上に立ち、大勢の騎士たちをまとめることができる力量もある。こんな小細工でごまかせるとは思っていないが、今はそうするしか手立てはなかった。

「お前は嘘を吐いているな。ユリウスが自分の正体を自ら明かすとは思えない。おしゃべりでお節介なミーミルが皆にユリウスの正体を明かしたのだろう? ユリウスはどんな姿になっている。犬か。それとも……タヌキか」

「タヌキ? 一体、なんの話をしているのか、わかりかねます」

「隠しても無駄だ。町民たちが噂していたぞ。『今回の戦争は必ず勝つ。なぜならば、神の使いであるタヌキの獣人様が現れたからだ』——と」

 コルヴィスの緊張が頂点に達した。冷静さを装っていたはずの表情は、きっと歪んでいたに違いない。オリエンスはコルヴィスのその細い首を片手で捕まえると、そばの壁に押しやった。

 オリエンスの頑強な腕が、コルヴィスの喉を締め上げる。

「そのタヌキ——ユリウスだな?」

 コルヴィスはうめき声をあげることしかできない。言葉を発することは許されないのだ。

「城にいるのか?」

 コルヴィスは朦朧とする意識の中、口を噤んだ。この危機をなんとか脱しなければならないが、下手な言い訳は通用しない。オリエンスは承知しているのだから。

 脳裏には、春の日差しのような、柔らかく温かいユリウスの笑みが浮かんだ。

(あのお方は私の希望だ。守らねばならない)

 王と呪ってきた。先祖代々、王への忠誠をった自分たち一族を、なぜ虐げるのかと。前王暗殺の疑いをかけられ死んでいった父。辺境の地へと追いやられた兄。やりたくもないスパイをさせられたのも、すべて王のせいだ。自分たちの運命は、彼によって大きく狂わされたのだ。

 王への復讐心もあり、シャウラの手伝いをしてきた。けれど。実際に出合ったユリウスは違った。熱心に自分の仕事を手伝っている姿。自分の身の危険を顧みずに、オルトロスとの間に割って入ってきた勇気。優しさ。慈しみ深い心。ユリウスは、王の椅子に座るには、苦労するのではないかと思われるほど、危うい人間性を持っている男だった。

 彼が王である、と知ってからも、不思議と憎悪の念は湧かなかった。むしろ、自分はこの危うい王に使え、そして支えたいとさえ思ったのだ。

(私一人が消えようと、悲しむ者などいるものか。私は、あのお方のためなら。死んでも構わない)

 コルヴィスは目を閉じた。意識は混濁し、両手に力が入らない。オリエンスの腕をつかんでいたその手は、だらしなく垂れ下がった。だがしかし。心は清々しい気持ちに満たされていた。コルヴィスは死を覚悟した。

 だがしかし——。彼の命は救われた。

「なにをしている」

 鋭い声が響き、オリエンスのマントが切り裂かれた。オリエンスの拘束を解かれたコルヴィスはだらしなく地面に落ち込んだ。新鮮な空気が突如として流れ込んでくる。むせこんだ。喉元を抑え、咳を繰り返しながら状況を把握しようと視線を上げた。

 涙で滲む視界には、フードを目深にかぶった小柄な後ろ姿が見えた。

「何奴」

 オリエンスは腰にぶらさがった剣に手をかけたまま、間合いを取るかのように下がった。

「町の中でもめ事を起こすのは得策ではないぞ。手をかければ騒ぎになる」

 聞いたことのない声だった。よく通る声だった。

「この騒動の中、人ひとり消えても問題などあるものか。暴動が起きた。そういうことにすればよかろう」

 オリエンスは剣を引き抜こうと腕に力を入れた。しかし。そこにカロスが姿を現した。

「城には、魔鳥の姿がありませんね。……あ」

 彼はオリエンスと対峙している人物と、コルヴィスを交互に見た。オリエンスは剣を握ったまま「報告を続けろ」と言った。カロスは困惑したような表情を見せる。

「魔鳥を操作できるのはウルだけ。もしかしたら、山の民のところに向かったのかもしれませんね。獣の実を作り出したのは山の民ですから。王も一緒なのではないかと」

「そうか。魔鳥に乗れる人数は限られる。少数先鋭かもしれぬが、こちらの方が多勢で優位。すぐに追いかける。魔鳥の行方は探せるのか」

「追跡魔法等を駆使すれば、ある程度は」

「なら、ここには用はない」

 オリエンスは剣から手を離すと、コルヴィスを見た。

「この戦い、シャウラ様が勝つ。誰に付き従えばいいのか、その小さい頭で考えるのだな。コルヴィス。警告は一度までだ。お前が裏切るのであれば、お前の大事な者たちに未来はないということ。しかと心に刻め」

 オリエンスのとび色の瞳は、まるで亡霊でも見るかのように色あせていた。

「オリエンス様。早く追わないと」

「わかっている」

 カロスに急かされ、オリエンスは立ち去った。コルヴィスは地面に座り込んだまま、大きくため息を吐く。

「大丈夫か?」

 差し出されたその手は、ほっそりとしていて男のものではなかった。はったとして相手の顔を見上げると、フードの下から覗くのは、美しい黄金の瞳だった。

「獣人か」

「城に行くところだった。お前は城の者か? あいつらはなんだ。騎士の恰好をしていたが。敵なのか。私が来てよかったな」

「助けてくれとは頼んではいない」

「なんと」

 彼女は一瞬、眉を潜めるが、すぐに笑いだす。

「素直ではない男は好きだ。気に入った」

「気に入られても困るが。それにしても、城へ行くだと? 城と森からは随分と離れているようだが」

「道に迷ったのだ」と彼女は恥ずかしそうに言った。コルヴィスはマントの下から覗いている、ふさふさの白いしっぽを眺めながら苦笑した。

「いいだろう。案内しよう。助けてもらった礼だ」

 土埃を払ったコルヴィスは痛む喉元を抑えながら城に向かって歩き出す。

(オリエンスとカロスが来ている。ランブロス候にお知らせしなくては……。それにしても。あの人は。大丈夫なのだろうか)

 しばし顔を見ていない兄のことを思い出す。オリエンスにはああは言ったものの、コルヴィスの心は、遠く離れた血縁の者たちへと向いていた。



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