第39話 秘めた恋心と接吻


 解散となった後、ユリウスはずっと気になっていたフェンリルの容態について尋ねた。ランブロスは重々しい口調で「——重症です」と言った。

 ユリウスの胸の中で、なにかが弾ける。途端に、頭のてっぺんからつま先まで、「不安」という感情が駆け巡っていった。

 誰もフェンリルのことに触れないということは、あまりよくないのではないかと予測していた。けれど、それを認めたくなくて、努めて考えないようにしていたというのに。

 その不安が、現実のものとなったのだ。ユリウスは言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。ランブロスはユリウスを促して歩き出す。喉元になにか詰まっているような気がする。息が儘ならない。なんとかランブロスの後ろをついていくと、彼はフェンリルの寝室の前で足を止めた。

 すると中から医官であるクレアシオンが出てきた。

「おや。あなたは」

 クレアシオンはユリウスを見て目を丸くした。彼と会うのは、ここに流れ着いたときに診てもらったきりだった。

「よ……、容態はどうなのだ?」

 急かすように尋ねると、彼は少々面食らったように目を見開き、ランブロスを見る。ランブロスは頷く。クレアシオンはユリウスに視線を戻し、首を横に振った。

「思わしくありません。獣の爪には、さまざまな毒素が混じり込んでいるものです。傷は塞ぎましたが、どうやら悪さをしているものがあるようだ。高熱が続き、意識が戻りません」

「治せるのだろう?」

「さて。どうしたものか。あれやこれやで手に入れた薬草はすべて使いましたが、効いてくるかどうかはわかりません」

「そんな……。他に手立てはないのか」

 ユリウスはクレアシオンに問い詰める。すると、ふと背後からミーミルの声が響いた。

「山の民に相談してみませんか」

「山の民だと?」

「そうです。あなたのお母様の故郷——。その実の解除の仕方もわかるかもしれませんし」

 しかし、クレアシオンは首を横に振った。

「山の民はここ十数年、姿を見ることはありません。おさの娘を王宮に持っていかれたことを快く思っていないのです。彼らは我々との交流を断った。今となっては、どこにいるか誰も知らないのです」

「そうか……」

 ユリウスは大きくため息を吐く。クレアシオンは「失礼します」と会釈すると立ち去って行った。ユリウスはランブロスを見上げる。

「私がここに来てから、山の民との交流はありません。難しいでしょう」

 しかし、ミーミルは彼は肩をすくめた。

「絶対見つかります。だって、僕が山の民を見つけるんですから」

「どうして、そう言い切れる? 誰も見ていないのだぞ」

「大丈夫ですよ。王様。絶対に見つかる。いや、僕が見つけ出すんだ」

 彼は会釈をすると踵を返した。いつもの笑みは消えていた。兄の容態を心配しているに違いなかった。

「雰囲気は違っているというのに。強情なところはフェンリルと一緒だな」

 ランブロスはため息を吐く。それから、ユリウスの背中を押した。

「フェンリルは中です。私は戻りますので、ゆっくりとお会いになられるがいい」

 彼もまた、その場から立ち去る。ユリウスは一人になった。しんと静まり返った城の中は、まるで牢獄と一緒だ。昼間だというのに薄暗い。どこからか入り込んでくる冷たい風に揺られて、蝋燭の炎が揺らめいた。

 ユリウスは目の前の扉を押して、室内に足を踏み入れた。

 ここに来た時。目を覚ました場所だ。フェンリルと過ごした時間が脳裏を過る。

(フェンリル。私は覚えている。ここに来てから、お前と過ごした日々。その記憶は、確かにここにある)

 フェンリルのそばに歩み寄る。彼の肌色は蒼白だった。まるで死人のように血の気が感じられない。弱々しく聞こえてくる呼吸音が、時々乱れる。意識はなくとも、痛みや苦しみがあるのかもしれない。

 ユリウスは寝具の隙間から手を差し込み、フェンリルの手を握った。見た目とは反し、その手は熱い。クレアシオンの言う毒が悪さをしているに違いなかった。

「どうしたらいいのだ。お前は私を助けてくれてばかりだというのに。私はお前を助けられないのか」

 熱で火照った手を両手で握り、そっと自分の頬に充てる。

 目の前で生死をさまよう美しい男。ベッドのそばに跪き、ユリウスは目を閉じる。

「私は、ここに来てからのお前と過ごした時間が大切なのだ。フェンリル」

 ユリウスはフェンリルの手を寝具の上にそっとおろすと、からだを前に屈めた。フェンリルの鼻先に顔を近づけると、ふんわりと彼のにおいが鼻腔を掠める。

 濁流に飲まれ、目を覚ました時に嗅いだにおい。ユリウスの心が安心感に包まれるその匂いを失いたくはないと思ったのだ。

「笑えるな。もしかしたら、遥か昔から、こうしてお前に心寄せていたのかも知れぬ」

 ユリウスはフェンリルの頬に唇をくっつけた。火照った頬は熱い。視界に、形のいい唇が飛び込んでくる。

(また呼んでくれるか。その唇で。私の名を。ポコタでいい。お前にとっての私はポコタなのだろう?)

 指先でフェンリルの輪郭をなぞる。それだけで心が震えた。

(この気持ちはなんだ。愛おしいのか? この男が。私は、ずっとこうしていたい。お前に触れていたい。そして、お前とともにありたいと思っている)

 ユリウスはそう心に決め、そっとからだを起こした。

(山の民に会おう。私がお前を救ってくれたように。今度は私がお前を救う。待っていろ。フェンリル——)

 フェンリルの瞼が震えて見える。ユリウスは名残惜しい気持ちを押し込めて、フェンリルの寝室を後にした。


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