第30話 戦場とユリウス

「やめろ!」

 フェンリルの声は、怒声や雄叫びにかき消された。

 自分たちめがけて武器を振り上げる町民たちを目の前にして、獣人けものじんたちは雄叫びを上げたかと思うと、一斉に駆け出した。両者は、あっという間にぶつかり合う。

 子どもたちを抱えた獣人の女たちは、悲鳴を上げて逃げ出した。

「やめろ、やめないか!」

 それでもフェンリルは暴動を止めるために叫び続けた。町民も獣人も互いに、憎悪の念を抱いている瞳の色をしていた。

 ——ここは戦場。

 戦場での命のやり取りを、幾度も経験しているフェンリルからしたら、見慣れた光景ともいえよう。だがしかし。いつもは穏やかな町民たちの豹変ぶりには驚かされた。

 集団の力とは、なんと恐ろしいものだろうか。一人ひとりの力はか弱くとも、一つの大きな力に結集されたとき。それは、計り知れぬ脅威となる。

「師団長! これじゃ我々のほうがられます。本気の相手を止めるのには、こっちも本気でかからないと。命を落としかねない!」

 トルエノの叫びに、はったとして顔を上げると、彼は槍を振り回し、町民も獣人も関係なく相手をしていた。トルエノは武芸に長けた男だ。なるべく怪我を負わせないように、意識を奪う急所を狙っているようだった。

 だがしかし。多勢無勢。両者とも我を失っている。そんな集団を止めるには、力を行使するしかない。

(このままでは負傷者どころか、死人が出るかもしれない。早く止めないと)

「力づくで止めるしかないのか……っ」

 フェンリルは唇を噛み、両手を握りしめた。その時——。

「師団長! 後ろです!」

 トルエノの声が飛ぶ。フェンリルは、その声と同時に身を翻す。フェンリルのマントが切り裂かれた。間一髪のところだったようだ。

 フェンリルは、襲い掛かった相手を確認しようと視線を巡らせる。するとそこには、鋭い爪を光らせたトラの獣人がいた。彼はフェンリルに息つく暇も与えぬような激しい攻撃をしかけてくる。その爪先に意識を集中させて、攻撃を交わしていった。

「オルトロスを傷つけたのはお前か!」

「オルトロス? 誰のことを言っている」

 トラの攻撃を避けながら、フェンリルは尋ねた。

「おれたちのおさだ! お前のつけた傷は深い。オルトロスは傷ついている!」

 少しずつ後退しながら、トラの攻撃をよけ続け、隙ができるのを見計らう。

「お前たちの長が先に手を出した」

「違う! お前たち人間が、おれたちの暮らしを脅かすからだ!」

「お前たちのほうが新参者だろう? ここは元々、人間が統治する場所だ」

 トラの双眸に憤怒の炎が燃え上がる。彼の手元のリズムに乱れが生じた。フェンリルはその一瞬の隙を見逃さない。地面に右手をつき、それを軸としてからだを回転させた。

 フェンリルのしなやかに伸びる足が、トラの腹部を蹴り飛ばす。彼は呻き声をあげながら、後ろに吹き飛んだ。

「言葉では理解できぬというか。お前たちは力にすがるのか。それがお前たちが求める平和なのか? 正義なのか?」

(子どもたちがおびえている目を見たか? 力に任せれば、お前たちは大事なものを失うのだ)

 フェンリルは剣を引き抜くと、それを構える。後ろに吹き飛んだトラは口の中に溜まった血を吐き出すと、腕で口元を拭った。

「やっと剣を抜きやがったな。いいぜ?」

「殺すつもりはない。おとなしくしろ」

「随分と舐めた口を利くんだな。兄ちゃん」

「お前たちと戦う気はないのだが。お前がその気なら、相手をしてやってもいい。用があるのは長だけだ」

「てめえなんかと、オルトロスが話をするはずがねーだろう!」

 トラは地面を蹴ったかと思うと、あっという間にフェンリルの頭上に飛び上がった。それから、落下の力を利用して、フェンリルに襲い掛かる。一瞬の出来事だった。フェンリルは回転しながら、右に飛び退く。地面に膝を突き、顔を上げると、トラは、先ほどまでフェンリルがいた場所にかがみこみ、地面にその鋭い爪を突き立てていた。少しでも遅れていたら、あの爪の餌食だ。

「ちょこまかと逃げるヤツだぜ!」

 次の行動に移るとき。人間であれば、一度、態勢を立て直す必要がある。しかし獣人のずば抜けた身体能力は目を見張るものがあった。彼はそのままの姿勢から、更にフェンリルの眼前まで跳躍してくる。

「ち」

 フェンリルは咄嗟にからだを仰け反らせた。フェンリルの長い黒髪が、トラの爪で数本切り裂かれた。

「避けたのは誉めてやろう。けどよ、後ろがガラ空きだぜ?」

 トラが鼻で笑った。はったとして振り返る。もう一人のトラの獣人がフェンリルの背後に迫っていた。

(駄目だ、間に合わない——!)

 切り裂かれる。彼らの鋭く硬化した爪に、甲冑は勝てないかもしれない。一瞬の間であるというのに、悠長にそんなことを考えている自分が馬鹿らしくなった。

 しかし。突然に、自分とトラの間に割り込んできた人影を見た。フェンリルの目には、すべてがコマ送りのようにゆっくりに見えたのだ。

 割り込んできた人影は、フェンリルをかばうように彼の両肩を押した。

「フェンリル!」

(ああ、また。まただ。あなたは、こうして、いつもそうする。騎士一人の命など、あなたの命とは比べ物にならぬくらい、どうでもいいというのに——。あなたは、目の前の命を、一つ残らず救おうとする。それがユリウス。あなた、だ)

 フェンリルは、迷うことなく地面を蹴ると、自分をかばうように両腕を広げているユリウスを抱き込んだかと思うと、からだを反転させたのだった。

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