第10話 謎の破片と魔法研究所
「ミーミル様。フェンリル様の鳩が——」
毎朝の日課をこなし、「さて出発」という場面で、執事の声が聞こえた。ミーミルは慌てて中庭へと戻る。廊下の壁伝いには、先祖たちの肖像画が形も色々に掲げられている。
鳩はミーミルを見ると、「ポ、ポ」と愛らしい声を上げながら、首を左右に傾げて見せた。
ミーミルが手を差し出すと、鳩は羽を広げて飛び移ってきた。
「よしよし、いい子だね。よく飛んできたよ。こんな寒いのに。兄さんもひどいことをするもんだね」
「ポポ」
鳩に優しい言葉をかけながら、その足に括りつけられている筒から、小さい紙を取り出す。それから、そばに控えていた執事に鳩を受け渡した。彼は鳩を連れて、中庭から姿を消した。
ミーミルは、誰もいなくなったことを確認した後、その紙に視線を落とす。そこには、整っている淡麗な文字が見えた。
『王宮で不測の事態が起きてはいないか? 王はご健在か』
「不測の事態? それはとっくに起きているじゃないか。それにしても、急にどうしたんだろう?」
ミーミルは軽くため息を吐く。
(寒いところでの生活が長くなってきたから、頭まで退化してしまったのかもしれないな)
ミーミルがその紙を手放すと青白い炎が上がり、それはあっという間に灰になった。
(とりあえず、こんなことしていられない! ち、こ、く!)
彼は、屋敷内を横切り、待っていた馬車に飛び乗った。すぐに従者にムチ打たれた馬は一鳴きして歩き出す。ミーミルは、ワインの瓶底のような分厚い眼鏡をずり上げると、椅子にからだを預けて、ほっと息を吐いた。
彼はフェンリルの弟である。兄とは違いからだを動かすのが苦手で、大好きな動物の本を読んだり、生態を調べたりする毎日だった。そのおかげで、国立の学習院を主席で卒業。学校始まって以来、稀に見る天才と謡われ、最年少で王立魔法研究所に上がった。
研究所では、未知なる生物である魔族の研究に取り組み、魔族の生態系を解明する糸口を見つけるなど、功績をあげた。ミーミルは、最年少で研究所長に任命される有力候補と囁かれるほどであったが。身内——、兄であるフェンリルの不祥事により、その夢は露と消えた。
魔族研究室長を外されたミーミルは、今ではフリーな立場に置かれている。自分一人の部屋で、研究所からの仕事の指示はない。
これはある意味、戒め的な措置であるのだが。彼にとったら、むしろ喜ばしい限りであった。人と一緒に行動するのが苦手な男だ。こんないい身分はない。
ミーミルは今日も自分の城である研究室に足を踏み入れた。するとどうだ。今日は珍しく人がいた。所長のカロスだ。彼は、ミーミルの学生時代の恩師でもある。
カロスは待ちくたびれた様子で、もじゃもじゃの白髪をかきむしりながら、イラついたように、うろうろとしていた。
「遅い!」
「遅いって……。別に。僕には、時間の縛りもないはずですけれども」
カロスは更に髪の毛をかきむしると、ズンズンズンと彼の目の前にやってくる。
「緊急事態なのだよ!」
彼はミーミルの髪を自分の頭のようにくしゃくしゃにした。
「ちょっと、せっかく綺麗にしてきたのに。なんなんですか」
「どこが綺麗に、だ。寝ぐせだらけじゃないか。それよりこれだ。見てくれ」
カロスは懐から、白い布をそっと取り出すと、ミーミルの目の前で開いて見せた。そこにあるのは、真っ黒な欠片。指で摘まむには、少々小さすぎる代物が数個。後は砂のように微小な物質だった。
「これは?」
ミーミルの眠っていた頭脳が動き出す。彼は逸る気持ちを押し込めて、カロスを見つめる。彼はくすんだ青色の瞳を細めて、「お前、命を懸けるつもりはあるか」と言った。彼のその表情は真剣そのものだ。
「そんなに重大な秘密、なのですか」
「そうだ」
ミーミルは息を飲み、そしてカロスの瞳を見返した。
「好奇心は、時に僕自身の存在価値など忘れさせます」
二人はしばらく見つめ合うが、カロスは「それでこそ我が弟子」と口元を上げた。それからミーミルの腕を引く。二人はそばの長椅子に身を寄せ合うようにして並んで腰を下ろした。
「王が消えた」とカロスは小さい声で言った。
「え——っ!?」
ミーミルの脳裏に、兄からの手紙が過る。兄は王都から遠く離れた北部にいるというのに。
(なぜ、わかった?)
心臓が早鐘を打つが、努めて冷静を保とうと、ミーミルは呼吸に意識を向ける。
「どういうことなのですか?」
「昨晩、王のお姿が消え、そして、その場に落ちていたものがこれだ」
「これがなにかを突き止めろということですね?」
「話が早い。騎士団長は、毒物であるかもしれない、と言っているが、私はそうではないと思うのだ」
ミーミルは白い布で覆われている黒い破片に目を凝らす。
「なにかの欠片でしょうね。形が不規則です。粉ではない。なにか、大きなものから零れ落ちたような感じです」
「これの正体がわかれば、王失踪事件の真相の手がかりになることは間違いない」
カロスは真剣なまなざしで頷いて見せる。
「昨晩の詳細は教えてはもらえない。ただ、この正体を突き止めろとしか言われてはいない。王がさらわれたのか、自ら失踪したのか。しかし私は、王がさらわれたのではないかと思っているのだ。王は我々の調合していた薬では効果がなく、ずっと伏した状況が続いていた。弱っている王をお連れするのは、造作もないことだろう。これは我々の責任でもあるのだ」
「所長……」
(確かに。我々は力不足だった)
王ユリウスが、体調を崩した際、医官の見立てを受け、薬の調合はカロスの指揮のもと行われた。カロスは魔法だけでなく、薬の知識に長けている。すぐに回復するであろうと思われたのだが。ユリウスの体調は一向に改善する気配もなく、ますます臥している時期が続く。近頃では、カロスに対する糾弾の声も上がっているところだった。それなのに、そこに輪をかけて王の失踪というニュースが舞い込んできたのだ。
(これは一大事だ)
ノウェンベルクが逝去したことも魔法研究所にとったら、不幸な出来事になった。カロスの前任者は、王急死の責任を負わされて処刑された。それだけ、魔法研究所とは、王たちの健康や命に大きな影響を持つ機関でもあるということだ。
「わかりました。解析してみましょう」
「頼んだ。こんな大事なことは、お前にしか頼めない。期待しているぞ。ミーミル」
瓶底眼鏡を押し上げて、ミーミルは力強く頷いた。
「わかりました」
カロスが出ていくのを見送ってから、ミーミルは手渡された破片を見下ろした。
(兄さんに知らせなくちゃ)
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