第32話 刻印
ーーー(エディス)
屋根の上で青紫の濃淡が広がり、月と星々が煌めく。私はランプを手に持ち、二人で宿裏の石壁にもたれていた。
私たちは壁沿いに並び夜空を見上げている。ふと、緩やかな風が吹いた。
「……」
私は俯き、横目でアランさんをみる。
腰に吊った鞘が艶を帯び、灰の衣が暗がりに染まる。茶髪が風に揺れ、憂いた瞳が睫毛を持ち上げていた。
「……!」
私は視線を逸すと、下を向く。その時ー。
「今日の星……綺麗だよな」
彼は後ろで手を組み、空を仰いで微笑んでいた。私も空を見上げる。星々は一つ一つ輝きを放っている。
「この星空を見てたらさ……自分はこの大きな世界の中で、どんな意味を持つんだろう……っ思ったんだ」
ふと横を見ると、彼の表情は真剣だった。私は思わず、口元を抑える。
「ふ、ふふ……!」
「な、変なこと言ったか!?」
彼は慌てて私の前へ詰め寄る。
「……はい、だいぶ」
「みんな思わないの?」
「思いませんよ、そんなこと……」
「……!」
彼は赤面してくるりと背を見せ、少し歩く。
「……だって俺、記憶喪失だからさ……」
「……え?」
「もう一人の俺だっているし……」
彼は肩越しにこちらを見た。
「記憶を取り戻せば、その理由がわかるかもしれないんだ」
「……」
私は眉を顰めた。
アランさん、あなたは一体……。
彼は足先の向きを変える。彼は微笑み目の前に立っていた。
「……エディスのことも、俺に教えてくれないか? お菓子職人目指したわけとか」
「……はい」
穏やかな笑みを私へ向ける。私は軽く俯いた。
「私、昔はやりたいことがなかったんです。家事を習って、農作業をして……このままの日常を生きていくのかって」
当時の記憶が蘇る。家の掃除や、畑の草むしりをする私ー。そして、時折ぼんやりと空を眺めた。
「でもある日……通りで売っていたお菓子を買ったんです。それがすごく美味しくて、忘れられなくて……」
村人の影が行き交う午後の通り。老眼鏡をつけた老人が微笑んでいる。幼い私はお菓子を手にし、嬉しそうに頬張っていた。
「……その時、思ったんです。私もこんな美味しいお菓子を作ってみたいって」
「……」
夜風が吹き、私の前髪を揺らす。
「皆んなに笑顔を届けてみたいんです。それが、私の夢……」
「……」
私は満面の笑みを浮かべる。彼は目を大きくして私を見つめていた。
「そうか……。すごいな、芯があって」
彼は視線を外し、複雑そうに笑う。
「エディスならきっとなれるよ。応援してる」
「ありがとうございます」
「……」
彼は不意に私の前を横切り、それを目で追う。彼は夜空を見上げていた。
「俺も頑張らないと……。いつか記憶を取り戻すんだ」
彼は風に当たっていた。
「……これから、どうするんですか?」
「わからない……けど、旅は続けようかな」
「何故それほど、記憶を求めるんです?」
自分で言って、ハッとした。彼の背は、静かに佇んでいた。
「……俺もさ、エディスみたいに自分を見つけたいんだ」
彼の後ろ髪が僅かに引かれた。
「自分が何者なのか、何がしたいのか……。それを知った先にあるものを、みてみたい」
「怖くないんですか……? きっと、痛みもありますよ」
「そりゃ怖いよ……。でも、気づいたら探してる」
噛み締めるような低い声だった。彼は足先を回す。私はランプを持ち上げ、石壁から背を離した。
「……もう一人の俺じゃなくて、俺は自分の手で自分を見つけたい」
正面から見た彼は、頬に影が落ちている。
「……俺は俺だって、確信したいから」
言い聞かせるように言う彼は、眉根に皺を作っていた。私は思わず目を伏せる。
「……あなたらしいですね。でも……」
風で乱れた横毛を耳にかけた。
「もう一人のあなたとあなたは……私は似ていると思う。表面が違くても、多分根っこは同じ」
私は、広場で争いを止めた時と、助けてくれた時の、裏人格の彼を思い出していた。
ワンピースの裾が揺れる。私は彼の前へ歩み寄る。
「……その答えを、見つけるのもいいですね」
「あ……」
手を後ろで組み、微笑んで見せた。彼は私の目をまじまじ見つめていた。
「……そうだな……」
そして苦笑すると、後ろを振り向く。
「そろそろ戻るか。寒くなってきたし」
「……そうですね」
「……」
私は一つ瞬きする。彼はこちらを一瞥して微笑むと、前を歩き出す。遠のく彼の背中を見つめた。
……話せて、良かった。
その背は宿の角を曲がり、見えなくなる。
彼はきっと、前に進むことしかできない人。周りなんて、見えないくらいに……。
眉根の辺りが少し寄った。
「ちょっと眩しいな。だから、私……」
息を吸い込むと、目元が潤む。
「私も……前に進もう。彼のように」
それを指で拭うと、不思議と笑みが溢れた。手元のランプが揺れる。私は前へ歩き出す。
裏庭の木々が風で小さく音を立て、上空で星々が揺らぐように輝いていた。
ーーー(全知)
灯りが照らす机に地図が広がっている。そこへ指がすっと伸びる。
「……早朝に出れば、夜はこの辺の宿に着くね」
指は道を指差し流れるように動いた。
「そして順調に進めば……五日ぐらいで、ケルティネ王国に着ける……」
リリアンとルーカスは地図を見下ろしている。
「そうだな……けど順調に行くかなぁ」
「魔物が出ないといいよね」
「あぁ。魔物と戦うくらいなら、野宿も視野だろ」
「……ふふっ」
リリアンが軽く笑うと、ルーカスは微笑み返す。彼は視線を落とし地図を指差す。
「……この辺は森が深いから、ちょっと要注意だよな」
「うん。だとすると……」
二人が地図を見ながら会話に集中し出した。その後ろで、扉に焦点を合わせた時ー。その扉はゆっくり開く。
扉越しの石床を茶のブーツが踏んだ。リリアンとルーカスは沈黙したあと、パッと振り返る。
そこには扉を手で押さえ、神妙な面持ちで立つ少年の姿があった。
「……あ、アラン……っ!」
「あなた……」
「……」
アランは目を逸らす。彼は扉から手を離すと前へ歩き出した。
リリアンとルーカスにマントを揺らして近づく。
「……何、話してたんだ?」
アランは目配せしながら、顔を赤くしていた。
「あぁー……」
それをみた二人は、口を開けたまま言葉を失っていた。
「な、なんだよそれ……」
アランは不安そうな顔になる。
「……あ、何でもないよ!」
「そうだ、何でもない」
「え?」
リリアンとルーカスは咄嗟に目を泳がせた。
「話してたのは今後の予定だ!」
「そうそう! だから安心して……」
「もしかして、俺とエディスのこと勘違いしたんじゃ……!」
アランは震えた声で言うと、頭を抱え込んだ。
「え? 違うよ?! な、何を……」
「落ち着けって」
二人は椅子をガタつかせて立った。
「違う、何もない! 俺とエディスはそんなんじゃ……! あ……」
言いかけて、アランはハッとした。彼は驚いた様子で固まっている。リリアンとルーカスは、息を呑んでそれを見守った。
「……!」
アランはみるみる目を見張る。口元が歪み、ばっと後ろを向いた。彼の足元で、リュックの口が開き衣類とタオルが覗いている。
「…………俺、入浴行く。取り乱してごめん」
その横顔は、ランプの弱い光に照らされていた。アランは二人の視線を背にその場を離れた。
小さな棚から、タオルと薄い寝巻きシャツを取り出し抱え始める。
リリアンとルーカスは瞳を縮めてそれを見ていた。
アランは扉に駆け寄り、勢いよく部屋を出る。バタンと音がした後に、通路を駆ける音が響いた。
「……な、何かあったのかな?」
「大丈夫か、あいつ……」
二人は顔を顰め立ちすくんでいた。
ーーー(表アラン)
冷たい響きが届く天井の下、俺は通路を駆けていた。風を切り髪を乱しながら、顔を顰めた。
……なんだ、この息苦しい感じ。
通路横に片扉が三つ並び、札が下がっている。その真ん中へ駆け寄りると、札を裏返した。
脱衣所は石壁にランプが吊ってある。扉を開けて入ると、脇の木籠に荷物を置く。そのまま後ろを振り返った。
扉の鍵を回すと、ガチャッと音が鳴る。
「……」
俺は顰め面をしていた。ベルトを緩めると、腕をクロスし袖を上へ引っ張た。
籠の中へ衣服がどさっと積まれる。暫くしてシャアと、カーテンを開ける音が響いた。
俺は魔石のセンサーに手で触れる。石のタイルを踏むと、湯が足を伝って流れた。
ヘッドからシャワーが流れ落ち、俺は髪を手で梳かした。
「……」
その時、エディスの記憶が次々頭に浮かぶ。肩を貸してくれた時のことや、彼女が俺の腕をとった時のことー。
髪をかき上げたまま、手を止めた。
……結局エディスは、何で俺を連れ出したんだろう。
顔が少しずつ熱を持つ。
話したかっただけ? もしかして……。
俺はきつく目を瞑り、首を振る。
……いや、考えすぎだ。きっとそうだ。
シャワーの勢いが徐々に緩み止まった。顔を上げると、後ろで髪を絞る。
「……そもそも何で、こんなにエディスのこと考えてるんだ?」
台の上に、固形石鹸と中身が入ったガラス容器がある。俺はガラス容器の蓋を開け、適量を掬い取る。
「……」
無心で髪を洗い、片手を横へ伸ばす。シャワーが出ると、湯気が一気に広がる。視界が白く霞み、音が遠のいた。
ーーー
徐々に湯気が取れ、石の天井は水滴が滴っていた。足元のタイルに影が伸びる。台には蓋が空いた容器と、湿った石鹸。
「……」
肩から腕へ石鹸がついた手を動かす。顎を水滴が伝った。脇から腹に手が滑り、指に力が入る。
「……っ!」
俺は歯噛みし、肩を抱いてしゃがんだ。
「どうしよう、俺おかしいのかな……」
顔が歪んでいく。
「……なにか、ダメな気がする」
膝を下につき、重心をのせる。立ち膝で前を見つめていた。
「俺……本当は、エディスをどう思っているんだろう」
不意に肩に手を運ぶと、そこへ視線を沿わせた。その時ー。瞬きすら忘れ、束の間固まる。ばっと肩を覗きこんだ。
「あっ……これ?!」
肩の後ろに、黒い模様があるのが見えた。
「……あの時、エディスが言ってたやつか?」
俺はエディスに支えられ、教会まで移動していた時のことを思い出すー……。
ーー
青暗く照らされる地面に、二人で同時に踏み出していた。
ランプを片手に持つエディスに肩を預け、並木道を並んで歩いている。
『……ところで、何でエディスは森にいたんだ?』
『えっ?! それは……』
エディスは目を泳がせた。
『たまたまなんです。お菓子を売り歩いてて、それで……』
『それで?』
『……な、何でもいいんです、私のことは!』
彼女は気まずげに視線を逸らす。
『え、ええっ?』
『それより、一つ気になったことが……』
唖然とする俺の方を向く。彼女は真剣だった。
『傷を手当てした時……肩の後ろに刻印のようなものを見てしまったんです』
『刻印……?』
『はい。不思議な模様です……まさか、ご存知ないのですか?』
『あ、あぁ……』
俺はたじろいでいた。エディスの目に影が落ちている。
『そう、ですか……。私それを見た時、何か不思議な感じがして……』
『……』
俺は顔が強張った。エディスは少し考え込むと、苦笑いする。
『……やっぱり何でもないです、すみません』
『……どういうこと?』
『本当にわからないんです……けど』
エディスは思い詰めた顔で振り向く。
『もう一人のあなたなら、知っているかもしれませんね』
『……!』
思わず息が詰まる。
『……確証はありませんが。あっ、アランさん。ここから村に入りますよ』
俺は前を向いた。坂道の先で石畳に変わり、路地へと繋がるのがわかった。俺は眉を吊り上げた。
『よし……先を急ぐか』
『……はい』
俺たちは木々が覆う坂道を、黒い影を落としながら登った。遠目に見える家々の上で、夜空に月が薄ら光っていた。
ーー
俺は肩を見ながら視線が揺れていた。
「ほんとだ、何だこれ」
自分の肩を引っ張って覗く。黒い紋様が視界いっぱいに入った。
「……もう一人の俺? ふざけるな、俺は俺だ」
俺は苦い顔になる。
「あいつは一体……何なんだよ……!」
そう言った声は、僅かに震えていた。
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