家の外

 自室の扉を閉めた良太はひとまずベッドに寝転んだ。

 父の言う『メグルくん』と今日、目にした『ウカガイ様』が脳内で重なる。


 あれが新生活の初っ端で動揺させられた息子に掛ける言葉かよ、と思う。完全にからかわれている。逆に言えば、父はそれほど真剣に心配していないということだろう。その一方で、母は大真面目にウカガイ様を警戒している。この温度差はなんだろう。


 同じ東京の、ほんの少ししか離れていないところで育っているのに、価値観がまるで違う。


「山の手と、下町と、川の手前に、川向う……」


 良太はぼんやりと呟いた。

 母は明らかに嫌がっていて、父は仕方がないと受け入れている、話。文化圏の差異という言葉でごまかしていたが、要するに前時代的で差別的な話なのだろうというのは分かる。そして前時代的だと思っていても、現実には今もそこらにある話なのだと。


 地元でいえば、山の向こう側だろうか。


 今はトンネルもあるし、自転車を使えば三十分で行き来ができる。にも関わらず、向こうとこっちで、ほとんど交わることがない。学区が違うために向こうの子の顔は知らないし、向こうもこちらの顔を知らない。だからだろう、たまに行き来があると、すぐに気づく。


 たとえば、やることもなく川で涼んでいるとき、遠征と称してやってきた一団と出くわすとする。一団と言っても多くて四、五人くらいだ。敵意をもたれているわけでもない。


 けれど、良太はいつも警戒していた。

 物怖じせずに声をかけるのはいつも怜音だ。



 同じ町の同じ学校で育っているのに生まれる違い。母は気にするくらいなら頑張ってみればと言い、父はそれくらいでいいよとなる。自分もそうだったし、と続く。でも、こんな田舎でそんな調子だと、と母が返す。


 血と、家と――。


 スマートフォンがベッドのヘッドボードで振動した。良太はため息と一緒に考えていたことを放棄する。躰をにじるようにして枕に背中を押し付け、スマホを手にとって見る。


 玲音からの電話だ。すぐに出ようと動かしかけた指を空中に止め、いよいよ上体を起こしてヘッドボードに体重を預ける。

 良太は少し考えてから文章を打った。


『手紙読んだ』


 返信は一秒とかからずにきた。


『なぜ文字』

『壁薄いし隣に親いるから聞かれる』


 気にするようなことか。気にするようなことだ。内容より、聞かれていそうと思うこと自体が嫌だった。それに、まだ学校すら始まっていない。なのに話したいことが山程ある。


 特に話したい話は、声に出してはいけない。


『新しい友達できた?』


 玲音からの言葉に、良太は思わず鼻を鳴らした。


『学校まだ始まってないよ』


 田舎じゃないんだぞ、と思う。ハッとする。もう東京に毒されたのかもしれない。


『学校じゃなくても友達はつくれる』


 堂々たる玲音の宣言に、田舎じゃな、と胸の内に呟き、良太は笑う。こっちじゃ無理だと打つ気のない文言が頭に浮かぶ。たとえば――と思う。


 たとえば、今から歩いて二分のコンビニに行くとする。仮に、店内か店のそばか行く途中に同い年くらいの子と出くわすとする。


 こんばんは。見ない顔だね。このへんの人? 同じマンションとか?


 できるわけがない。そこから仲良くなれる未来が視えない。それが良太だからなのか、東京だからなのかは分からない。案外、怜音なら仲良くなれてしまうのかもしれない。それが悔しいような、悲しいような、もしくは誇らしいような――


『何かあったの?』


 玲音は鋭い。何も考えていないようでいて考えていて、何も見ていないようでいて周囲に視線を巡らせている。聞き逃した言葉をよく覚えていて、良太の知らないことを知っている。


『東京、ちょっとやばい』


 何がと返ってくる合間にも文字を打ち、一息ついて、送る。


『何か今日、やばいのに出くわした』


 誰にも言わないでほしいと付け加え、その名を打ち込んでいいものか思案する。冊子にはうわさ話もしてはいけないとあった。当然、SNSにあげたりしてもいけないと。


 カサリ、と紙を擦るような音が頭の後ろで聞こえ、良太は肩を震わせた。

 良太の部屋は南向きの窓に面しており、ベッドも頭を南に向けている。つまり、背中のすぐ後ろには窓がある。脳裏に父の怪談話が蘇る。


 ――窓の鍵は閉めとけよ?


 父の言葉も思い出される。はっきりと。良太はひとまずスマホを置いてベッドを降りた。窓と向き合う。真新しい白いレースカーテンが揺れている。ビル風が入ってきているのだろう。


 鈴の音はしない。あの、澄んでいたり、濁っていたりする、金属質な音はしない。


 にも関わらず、良太の手は遅々としてカーテンまで辿り着かない。いるわけがない。あれは父がからかってきただけ。ここは四階。ウカガイ様は女の子だ。登れるはずない。


 ジャッ! と、カーテンを開いた瞬間、良太は窓に肌色を見て息を呑んだ。


 ――自分の顔だ。外が暗くて、窓硝子に映った。


 髪と、目の周りと、首が、夜闇に紛れて黒く沈んでいた。驚きすぎて、悲鳴すらでなかった。


 息を整えながら窓を閉め、不本意ながら鍵を閉め、カーテンを閉じる。

 リビングから父の笑い声が聞こえた気がした。家の外から鈴の音も。きっと幻聴だ。

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