祟り

「それ……で……それで? その生徒はどうなったの……?」


 足元に嫌な気配がすり寄ってくるのを感じ、良太は声を低めた。

 父はそんな良太を脅かすように目を細めて言った。


「その日はすぐに職員室まで連れて行かれた。取り巻きの子も一緒にね。もちろんメグルくんのことは誰も気にしない。見えないし、声も聞こえないからさ。そして不思議なことに、ただ廊下で騒いでいたというだけで自宅謹慎になった。取り巻きも含めてね」


 不思議なことに、という言葉に良太は唇を曲げる。誰の目で見ても一方的な暴力に対する処罰としては当たり前に思えた。

 そういう時代だったの、と母がうんざりした様子で付け加え、父も頷く。


「口頭注意で終らなかったのは風習が絡んでるからだよ。明文化されていないけど校則も同じだからね。ただ、問題はその後だ。その生徒は憑かれちゃったわけだから」

「……憑かれると、どうなるの?」

「うん。そこだ」


 父はニヤリと笑い、伏し目がちに話し始めた。


「あの日は夜から雨が降ってた。梅雨時なのもあって歩くだけで汗が出る。空気に湿気が詰まってて、まるで水の中で息してるみたいな息苦しい夜さ。彼は親にしこたま怒られて、自室に閉じ込められていたんだ」


 当時は今と違ってパソコンもインターネットも普及していない。いくら昔の話といっても廊下で暴力を振るうような生徒が大人しく勉強していられるはずがない。学校の近くに住んでいるから夜中に外にでているところを見られれば、生徒だけでなく親にも苦情が届く。


 家族の警戒は厳重で、手持ちの漫画も尽きてくる。リビングでテレビを見ることすら許してもらえない。そうするより他に仕方ない。


 彼は少し早い時間に寝ることにした。

 湿気もあって寝苦しい夜だ。窓の外では雨樋を伝う水音がバチャバチャと鳴っている。その音に混じり、奇妙が聞こえる。


 チリン……ヂリン……鈴の音だ。


「彼はきっとこう思ったはずだ」


『なんだよ、やめてくれ。ドコの家だよ』


「当時、ベランダに風鈴を吊るしている家は珍しくなかったからね」


 父の低い声が続き、良太は我知らず喉を鳴らした。

 彼はうんうんと唸っていた。じっとりと汗が滲んで、寝間着代わりのTシャツが肌に張り付く。外は雨音に混じり、あの不愉快な鈴の音に似た音が聞こえる。一度、大きくため息をついてベッドから降り、苛立たしげに窓を開ける。雨音が強まり、どこかの家が動かしているであろうクーラーの室外機の音がする。


 外がひっきりなしに湿っているからだろう、土臭く、饐えたような匂いが混じる。入ってくるのは生暖かい風ばかり。風鈴の音はない。


 ――気のせいか。


 彼は窓を閉め、またベッドに寝転ぶ。すると、なぜか聞こえてくる。

 チリン、ヂリン……徐々に近づいてきているような気がする。

 彼は首を振り、暑さにも構わず薄い掛け布団を頭からかぶった。


 ――ビビってるのか? 俺が?


「その生徒が住んでいたのはマンションの三階だ。聞こえてくるのはきっとどこかの家の風鈴か何かだ。――でも、だとしたら、時折まじる、ぺちゃり、ぺちゃり、という音は、何だ?」


 彼はぎゅっと目を瞑る。耳を塞ぐ。さっき確認したから大丈夫だ。ビビってなんかいない。 窓がガタガタと鳴る。彼には聞こえない。耳を塞いで、布団を被っているから。外では雨が降っているから。


 でも、鈴の音は聞こえる。


 チリン、ジリン……チリン……


 音はベッドのすぐ傍で聞こえる。ありえない。普段いくら強がっている人間でも、理解を上回ることが起きると、自分の都合を優先するものだ。


 ベッドに潜って布団を被って耳を塞いで……状況がこれは夢だと思わせる。正常化バイアスという心の動きが判断を誤らせる。


 声が聞こえる。


――僕のこと、見えてたよね?


 たまらず彼は瞼を開き、薄い掛け布団から顔を出す。闇に慣れた目が小さな人影を捉える。右手に棒を握っている。まるで注射針のように鋭い金属の筒。風鈴だ。まとめて握って振りかぶるから、擦れあって、濁った音をたてる。そして――


「ぎゃあああああああ!!」


 突然、父が大声で言った。


「――なんてな。良太もさすがにこんなんじゃ――って、あれ? 意外と怖かったか?」


 おどけるように父が尋ねたそのとき、母は顔を引きつらせ、良太は口にものを入れたまま固まっていた。だが、可能な限り平静を装いながら飲み下し、言う。


「子供だましじゃん」

「父さんにしてみりゃ良太は子供だからな」

「……ざけんな。そんなんでビビるわけないじゃん」


 ねえ母さん、とばかりに顔を向けると、母は胸に手を当て深呼吸していた。良太以上に効いてしまったらしい。


「……直くん。私そういう冗談、嫌い」

「ハハ。ごめんごめん。でもあながち冗談でもないんだよ、これが」

「……へ?」


 と良太が顔を向けると、父は背もたれに躰を預けて笑った。


「その生徒に何かあったのは本当。自宅で刺されたんだ。細い錐状のもの――を、三本まとめた奴で五、六回やられたって話だよ」

「……なに、それ……」

「面白い――って言っちゃいけないな。怖いのはその後でな。普通だったら警察を呼んでって話になるんだろうけど、そうはならなかった。噂は二つ。自分でやったっていうのと、メグルくんの祟りだって話があった」


 ウカガイ様――メグルくんは次の日も普通に学校に現れた。謹慎期間がとけてからも、その生徒はでてこなかった。取り巻きの謹慎がとけると彼らは人が変わったように大人しくなっていて、誰も何も説明しないまま、教室から机が一つ消えた。


「……くだらな。ありえないでしょ、そんなの」


 良太は味の感じられなくなった夕食を口に詰め込み始めた。

 母が言った。


「それ、覚えてるかも」

「奈々ちゃんが? なんで?」


 父が尋ね返す。良太は聞かないように手早く食事を進める。


「小学校の頃に、お母さんがね。新聞を見ながら、奈々子はウカガイ様に失礼するんじゃないよ、って。なんでって聞いたら――」

「ああ、川っぺりの学校で、って?」

「直くん?」

「ハハハ。冗談だよ、冗談」


 良太は食器をテーブルに置き、席を立った。


「ごちそうさま」

「あら、もう……あ、食べたのね」


 部屋に戻る良太の背に、父が言った。


「……窓の鍵は閉めとけよ? ここ四階だけど、雨樋、うちのベランダのすぐ傍だ」


 何も答える気にならなかった。

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