メグルくん

 父は虚空を眺めるようにして機嫌よさげに説明を続けた。


「――それで、このへんから見ると隅田川っていう川が一本あって、その手前と川の向こうで文化圏が違うんだ。まあ厳密には手前も少し違うんだけど、父さんが東京にいた……あー、中学の頃だから、もう三十年か……嫌だなあ」


 良太は話が脇道に逸れる前にわざと鼻で大きな息をついた。

 わかった、わかった、と父がなだめるように箸を小さく揺らした。


「昔は文化圏が違って……まあ、たぶん今も違うんだけどさ、それでも江戸の頃と違って橋も多いし、川向うの子も通う学校だったわけだ。するとこう、山の手の学校とはちょっと雰囲気が変わってくるんだな」

「……ヤンキーが多いってこと?」

「ヤンキーとはまた古臭い……まあいいか。だいたいそんな感じ。ようは緩くてな。ウカガイ様っていうのは正式な名称で、メグルくんっていうのは俺が通ってた学校での通称だよ」

「ウカガイ様がメグルくんって……なんか変な感じ」


 口にした拍子にウカガイ様の顔が思い出され、良太は思わず躰を震わせた。 


「俺の学校では男の子がやってたから、それでメグルくんって呼ばれるようになったんだろうなあ、たぶん。毎日、毎日、風鈴を鳴らして校内を歩き回ってさ」

「風鈴? 鈴じゃなくて? ウカガイ様のは……」


 目に迫る卵型の鈴の欠け口。良太はぎゅっと目を瞑り、開いた。

 父は様子を窺うような視線をくれつつ言った。


「風鈴って言っても江戸風鈴みたいな――あー、良太が知ってるような硝子のやつじゃなくてさ。鉄の棒というか、筒というか、そういうのが三本、丸い板の下にぶら下がってるやつ。それを右の手首から紐でぶら下げて歩くんだけど、まあよく響くんだよ。カラーン、カラカラーン、なんつってさ。まあよくモテたよ」

「――は?」


 記憶にあるウカガイ様の恐怖とモテるという単語の落差に良太が一音を発するのと、母が胡乱げに顔をあげるのは、ほとんど同時だった。


「モテるって、ウカガイ様が? 直くんの学校どうなってるの?」

「ハハ。だから緩かったんだよ。なにせメグルくんだからさ。顔が可愛いというか、キレイめだったんだ。たぶん。俺にはよく分からないけど。それにほら、話しちゃいけないとか、触っちゃいけないとか、ミステリアスな感じが当時はウケたんじゃないの? 知らないけど」

「呆れた」


 と母が小さくため息をついた。


「中学校までくると女の子はそんなに単純じゃないよ?」

「まあ、それはほら、俺がそう思っただけだから。ともかく、隠れた人気があったのは本当だよ。教室を覗き込んでるとき反応する子がいたりとかね」


 たしかに――と良太はウカガイ様への恐怖心が少し薄らぐのを感じた。

 学校で遭遇したときは状況と当人の外見も相まって恐ろしさしかなかったが、もしあれが綺麗な、つまり美少女であったりすれば、緊張の意味はだいぶ異なっていただろう。


「まあでも、メグルくん……ウカガイ様はほら、人じゃないからさ。人気があったといっても変なことは起きるんだよな」

「……変なこと?」


 良太が問い直すと、父は苦笑まじりに答えた。


「たとえば、ほら、写真なんかを取っても現像できなかったりとかさ」

「……現像?」

「え? ……ああ、そっか、良太はフィルムカメラとかあんまり知らないか。父さんが中学生になったばかりの頃は携帯を持ってる子なんてそう多くはなかったんだ。写メとかいって皆して携帯で写真を撮るようになったのが……高校くらいだったかなぁ? 嫌だなあ」

「歳の話はいいから」


 良太は言った。父が分かってるとばかりに左手を振った。


「だから、当時はインスタントカメラを持ち込んで撮る子なんかがいてさ。当然フィルムカメラだからカメラ屋に現像を頼むんだけど、なぜかメグルくん――ウカガイ様の写真だけ現像してもらえないというか、映ってないって言われちゃったりとかね」

「そんなに人気だったの? なんか……そういうんだったら良かったのに」


 うちのウカガイ様ときたら、と良太はため息をついた。

 その姿に、母が呆れたように言う。


「良太、外でそんなこと言わないでよ? 白宮は直くんの学校とは違うんだからね?」


 そうだぞー? と父が肩を揺らしながら続けた。


「実際、メグルくんだって、そんなに可愛いもんじゃないっていうか、怖いんだから」

「怖い? だって人気だったんじゃないの?」

「最初はな。でもほら、父さんの学校は良太の白宮と違ってお上品でもないからさ」


 そう言って浮かべた片笑みは苦み走っていた。


「得体の知れない存在が女子に人気で、しかも特別扱いされてるからな。一部の男子にとっては面白くなかったんだよ。なにがメグルくんだよ、みたいにさ。――それであるとき、一人の男子生徒がメグルくんに絡んだんだ」

「――えっ」


 と母が息を呑んだ。信じられないとばかりに顔を固くし、青ざめて――


「そんなことしたら――憑かれちゃうんじゃないの?」


 憑かれる? 良太の疑問をよそに父は続けた。


「そう。憑かれちゃう。その生徒は仲間に見せつけたかったんだと思うよ。怖かないよってつもりでさ。廊下で捕まえて、小突いてさ。メグルくんは言ったんだ」


 ――ああ、君は見えてるんだね。


「男子生徒は顔を張った。ひどいもんだけど、誰も止めないんだ」

「え。なんで? 生徒同士の喧嘩でしょ?」


 良太は驚いた。地元では喧嘩があればすぐに教員が駆けつけるか、だれかが止めに入る。


「そりゃ、相手がメグルくんだからさ。そこにいないし、触れられない。見えない。声だって聞こえないはず。そういうルールだ」

「そんなのってある? 酷すぎない?」

「風習だからな。そういうもんなんだ。機転を利かせて教員の一人が助けに入ってくれたけどね。『お前ら! 廊下で何を騒いでる!』みたいにな。みんなホッとしてたよ。その場はそれで収まった。でも、もちろん――」


 父が続きを促すように母に目をやった。母はため息交じりに言った。


「憑かれちゃうよね、そんなことしたら」

「あの、その憑かれるって何?」

「取り憑かれちゃうの。幽霊みたいに。家まで着いてくるっていうのか。今日だって危なかったんだから」


 そのくたびれたような声音で、良太は今日の出来事を理解した。タクシーに乗ったあと自宅とは逆の方向に何度か曲がったのは家まで着いてこさせないようにするためだったのだ。


 つまり、撒こうとしていたのは、ウカガイ様だ――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る