東京の川

  良太は冷水を手に集めると、頬を打つようにして顔を洗った。何度も、何度も、ほんの数十分前におきた様々な出来事を忘れるために、両頬を擦った。けれど、顔を上げてみると、鏡に映る少年の口元に残る掌の跡は消えていなかった。


 母の手から開放されたのは、ウカガイ様と遭遇した教室を出て、足早に廊下を抜けて下駄箱に着いたときだった。低い声で急かされると反論できず、そのまま学校を出た。そして、母はすぐにタクシーを捕まえた。


 良太は真新しいタオルで顔を拭きつつ、あれは何だったんだろう、と思う。


『辻巡りでお願いします』


 家の住所を伝えたすぐあとに母がそう付け足し、運転手はこう答えた。


『はぁい。三つですかぁ? 四つですかぁ?』

『三つで大丈夫ですよね?』


 運転手はバックミラーを調整し、ドアミラーを一瞥して言った。


『大丈夫だと思いますよぉ。見えてませんからぁ』


 じゃあ三つでと母が答えると、かしこまりましたぁ、とタクシーが滑るように走り出し、最初の交差点で家とは逆の方向に曲がった。坂の多い道を進む車は三叉路で家に近づき、十字路で曲がり、次の交差点では家に近づく。最後に家の前でミラーを確認して停まる。まるで何かを撒くように――。


 母は何も言わなかった。良太も何も聞けなかった。地元の家に比べればずいぶんと狭くなった自室に入り、良太はもらったウカガイ様の冊子に目を通す。


 これと思われる記述は無かった。


 地元に――田舎にいた頃は感じられなかった奇妙な緊張が今も続いていた。その理由については冊子から読み取れる。


『ウカガイ様は聞いています。ウカガイ様の話をしないようにしましょう』


 母は忠実に守っているのだろう。おそらく子供の頃に学んだ通りに。

 今に出るたびに少し交わされる会話は不自然なまでに当たり障りのない話題が選択され、一つの話題については居心地の悪い沈黙が続いた。


 ようやく断ち切る端緒が見つかったのは、夕飯時に父が帰宅してからだった。四月から忙しくなるだろうから今は新生活が始まる家族の団らんを優先する、と父は笑っていた。


 暢気なもんだよ、と良太は唇を尖らした。今日、何があったかも知らないで。

 無理な要求だと分かっているが、つい苛ついてしまう。ここ最近はずっとそうだ。

 父もそれとなく察しているのだろう。言葉少なに箸を動かし、ふいに言った。


「なあ良太、それ、どうした?」


 胸の奥が震えると同時に、食卓に目に見えぬ電気が走った気がした。

 言うならここしかない。良太はちらと横の母を一瞥し、小さく喉を鳴らした。


「今日、学校でウカガイ様に会ってさ」

「ウカガイ様?」


 そう父は口に運びかけた箸を下ろした。


「良太?」


 すかさず母が叱るときの声を出した。


「ウカガイ様の話をしちゃいけないって冊子に書いてなかった?」

「書いてたよ。書いてたけどさ……」


 二人のやりとりに父はきょとんとしたが、すぐに何かを思い出したのか肩を揺らした。


「あれか。えーっと……メグルくんだ」


 ――メグルくん?


 今度は母と良太が顔を見合わせ呆ける番だった。

 父は訝しげに眉を寄せて言った。


「何? 違うの? あれだろ?」

「直くんの方こそ何言ってるの? ウカガイ様でしょ?」


 母の返答に、父は苦笑しながら先ほど口に入れそこねたおかずを箸で摘んだ。


「たぶん呼び方が違うだけだと思うよ? ほら、奈々ちゃんはここらの学校でしょ?」


 良太は内心、うわ、と呟く。いつ頃からか両親が下の名前にちゃんだのくんだのをつけて呼び合うのに違和感を覚えはじめ、最近はせめて息子が傍にいないところでやってくれと思うようになっていた。


 そんなことを知ってか知らずか、母は咀嚼する父を睨むような目で見て言った。


「直くんだって近くでしょ? 学校が違うっていっても――」

「んーん?」


 違うよ、とばかりに父は首を振った。口のなかを空にして指揮棒のように箸を揺らす。


「ほら、お義母さんにも言われたじゃん。俺は下町だから。通ってたのも川の手前だし」

「それは――」


 母は何か言おうと息を吸ったが、何も続けずに食卓に目を落とした。

 父が苦笑しながら言う。


「いやいや、大丈夫。気にしてないから。お義父さんにも言ってもらえたしさ」


 急に胃が重たくなってくるような空気がダイニングに漂い始めた。良太にとってはいくらか懐かしい感触でもある。


 菊池家は父方の――つまり良太にとっての地元――実家近くで暮らしてきたが、東京にある母方の実家に帰省すると、はじめは良くとも夜が近づけば似たような空気を吸うことになる。


 良太は詳しい事情を聞いたことがない。聞きたくもなかった。午前中は優しかった母方の祖父母が、午後には祖父が申し訳無さそうに、祖母が両親と良太とで顔色を使い分けるからだ。


「――あのさ。川の手前って? 来るときに渡るやつ?」


 空気を変えようと良太は尋ねた。

 父はしばらく呆気に取られたように固まり、声に出して笑った。


「ハハハ。違うよ。別の川。いや渡ったかもしれないけど、父さんが言ってるのは隅田川だな」

「ちょっと、直くん!」


 母が声を尖らせた。しかし、父は左手をパタパタと振りながら笑い返した。


「まあまあ。いいじゃない。地理の勉強みたいなもんだよ」


 父は皿の上のおかずを端で動かしながら良太に言った。


「いいか? 東京は大雑把に山の手と下町に別れてるんだ。元が沼地だったのを埋め立てたのもあって、高いところのほうが歴史が長くて……なんだ、偉い人が住んでたと思えば良い」


 東京には今も昔も複数の川が流れており、川は東京――かつては江戸に集まった人々の家々の建材を運ぶために利用されてきた。


「川を使って木を運ぶんだけどさ、それがまあ、昔は危なかったわけだ。水難事故もそうだけど何しろ昔のことだから死人がでたらどこの誰か分かるように深川彫っていう入れ墨なんかを入れたりしてて……まあ、そのうち学校で習うかもしれないけど、ようするに荒っぽかった」


 母が小さくため息をつき、もそもそと食事を再開した。

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