第32話 守護神

いや、まさか。風雨で濡れた岩場に

白足袋の脚を取られるとは。


折角、新調した狩衣と烏帽子が泥水で

汚れたべや。まあ、風雨の中でやる

祈祷だから濡れるのはまだいいれど。

「…いやぁ、なッまらはんかくせぇ事

したべやなぁ。」思わず独り言ちた。


みったくないトコ誰かに見られなくて

良かったべ。



この『猫魔大明神』の 殿 は

陸繋島の裏側にある八畳程の一枚岩だ。

『根古間神社』から参道を逆にくだり、

壱の鳥居がある浜とは反対側の、藪の

小径を抜けて行く。

 社殿入口には朱い鳥居が設えてあり、

篝火が風に煽られながらも赤々と燃えて

いる。だが、八畳敷の岩礁のすぐ先には

大海の波濤が逆巻いていた。



ともあれ、この荒れた海への祝詞の

奏上も無事に済んだっけ、後は神社の

社務所さ戻って氏子衆ば労らわねば。

そう思って岩壁に手をかけた。


 瞬間、真昼間の様な雷光が走る。


あまりの強い光に驚いて、うっかり

手を離して、体勢を立て直す間もなく

再び尻餅を搗く。遅れて雷鳴が轟く。

雨に濡れた岩盤は滑りやすくなって

いるとはいえ。

「いや、なッまら危ねぇべ!」そして

立ちあがろうとした、更にその時。

「…お?」丁度、中腰の高さが絶妙な

篝火の陰影を得て現れたのだろう。


洞穴が、ぽつかりと暗い口を開けて

いるのが目に入った。


「こんな所に穴なんかあったべか?」

岩礁には大小幾つかの洞穴があって

それに関しては全て把握している。

『猫魔大明神』の宮司として赴任して

三十年。この陸繋島で知らない場所は

ないと思っていたのだが。

「…。」気にはなる。だがこの状況で

何の装備もなく探検するのは余りにも

無謀だべ。


「…え。」洞穴の中で何かが光った。


何だべ、あの光は。踵を返そうとして

立ち止まる。「むささびだべか?」しかし

手持ちの灯りはない。道すがらの

篝火と蛍光する海水面のお陰で懐中電灯

要らずだが、それがなければ全くの

闇夜の戸外だ。


やっぱり一旦、社務所さ戻るべ。


『根古間神社』宮司、由良智治ゆらともはる

岩礁の鳥居の間にしっかりと注連縄を

巻き直すと、藪の小径を浜の方へと。

壱の鳥居の一際大きな篝火を頼りに

戻って行ったのだった。









「あ、何か復旧したみたいですよ?」

藤崎が呑気に言い放った。皆が其々に

動揺する中、奴だけは冷静だった。

「…あれって、宮司さんですよね。

なんかこっちガン見してますけど?」

「本当だ!」「良かった、何事かと

心配した。」「何であんなにこっちを

見てるんですかな?」「さあ。」

安堵の空気が二十畳の和室に一気に

広がった。

 確かに、大画面液晶テレビには

どういう訳か思い切り

が、篝火の明かりに堂々

映し出されている。


「これは一体どういう事なんです?」

安堵で弛緩した空気を再び緊張へと

引き戻したのは、筧会長の秘書である

柿崎だった。「…手品か何ですか?

会長は神事を見たいと仰っている。

あの、猫といい娘といい…貴方がた

巫山戯ているんですか?」

「柿崎君。」困った様な顔の筧会長が

何だか気の毒に見えた。

 なんて、絵で

描いた様なワンマン経営者を想像して

いただけに、筧俊作というこの人の

態度には些か驚かされる。


「失礼な事を言うな。皆さん、この

悪天候の中、我々の為に尽力して

下さっているんだ。」「しかし会長!」

「私は新規事業計画をこの【猫魔岬】で

始めたいと思う。土地に古くからある

不思議な話や、今も尚、受け継がれる

神聖なものがあるにも関わらず、時代の

流れに捨て置かれている。そういった

場所に敢えて 都市開発 で斬り込む。

それこそが、島国日本の再生と復活の

鍵だと思っている。」「…ですが!」


「藤崎君は分かっていると思うが、

曾てない程の円安。過度に加速した

グローバリゼーション。このままでは

日本の経済は破綻する。何の考えも

無しに目先の利益だけで走って来た

我々、戦後世代の負の遺産だ。」


筧会長は更に言う。


「私はこれまでに様々な都市開発の

かたちを見て、そして自分でも試行錯誤を

繰り返して来た。

かの先達、護摩御堂桐枝ごまみどうきりえ女史が造った

【櫻岾】の様な封印都市、その真逆を

行く構想。神秘を封印するのではなく

お祀りして弥栄いやさかこいねがう。古き日本の

風景は、元々そういったものだった。

 私が考えるのは、そこに近代的な

叡智を付加する事で活性化させる。」

「…。」皆、唖然としているが。


「是非とも、お手伝いさせて下さい。

私からも田坂達に会長のお気持ちを

伝えますよ。」



藤崎が、待ってましたと言わんばかりに

口を挿んだ。









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