22 母子
兄が大学に戻ってから、俺は母を説得し始めた。
「兄ちゃんが音楽に真剣だってこと、俺が一番近くで見てきたんだよ。だからわかる。兄ちゃんは成功する。兄ちゃんって、小さい頃からワガママ言わない人だったじゃない? 今回のことだって、母さんに言うのかなり度胸がいったんだと思うよ。兄ちゃんの夢、応援してあげようよ」
母は渋い顔をするばかりだったが、兄が作ったアニメのエンディング曲が大ヒットしてからは、百八十度態度を変えた。ネットには兄のインタビュー記事が掲載された。現役大学生が作曲したということは話題を呼び、兄は天才ともてはやされた。
「お兄ちゃんってこんなに凄かったんだね。自分の息子なのに……信じてあげられてなかった。母さん、許すよ。音楽で生きていくこと」
兄は大学を卒業し、フリーの作曲家となり、次々と楽曲を提供した。収入は安定し、学生時代に住んでいたワンルームから、広いマンションに引っ越した。俺は高校卒業後、そのマンションの近くのアパートを借り、塗装工として働き始めた。兄と……頻繁に会いたかったのだ。
平日は現場に行き、週末に兄と会うという日々を送った。働き始めてから、料理に凝るようになった俺は、時折兄にもふるまった。そうするようになって初めて知ったのだが、兄は大学生で一人暮らしをするようになって以後、ろくな食生活をしておらず、ゼリーだけで済ます日もあると聞いてしまい、俺は叱った。
「もう、三食キッチリ食べてよね! 痩せる一方だよ?」
「なんか、その、面倒で」
「っていうか、兄ちゃんちゃんと寝てる? クマできてるよ?」
「まあ……集中しちゃって徹夜の日もある」
「身体壊したら元も子もないよ。ちゃんと朝起きて夜に寝て。わかった?」
「なんか鳴、母さんみたいだね……」
俺は兄に毎朝決まった時間に電話をするようになった。兄の生活を矯正できるのは弟の自分しかいないと思ったのだ。俺があまりにも口うるさかったためか、兄は徐々に規則正しい生活をするようになった。兄弟の立場が逆転したようでおかしかったが、確かに充足感があった。
そして、俺の二十歳の誕生日。五月五日。ショットバーに連れて行ってもらった。「Meteolight」という店だ。律儀に飲酒をしていなかった俺は、そこで初めてビールを飲んだ。兄がいつの間にやら吸うようになっていたマルボロの香りと共に、静かな時間を過ごした。
「鳴は誰かいい人いないの?」
「全然、興味ないんだよね。俺、どっかおかしいのかな。兄ちゃんこそどうなのさ」
「僕も興味ない。こうして鳴と飲めるようになったからそれだけでいいよ」
「孫の顔ってやつ、母さんに見せられそうにないね」
「そうだね……」
母がかすかな期待をしていたことは、薄々感じていた。母を田舎に一人にしてしまったことの負い目もあった。でも、性への関心はどうしても持てなかった。仕事仲間から、いかがわしい店に行こうと誘われることもあったが、俺は断固として拒否していた。
働いて、兄と会って、働いて、兄と会って。その繰り返し。俺の世界はごく狭かったが、広げようとは思わなかった。俺はあの頃、いきいきしていたし、幸福を感じていた。
例のショットバーにはよく通うようになった。俺は色々なお酒を試したし、たまに無茶な飲み方をして、兄に呆れられた。
そして、母が乳がんになり、もう手の施しようがないと知らされたのは、青天の霹靂だった。
俺は会社を辞め、実家に戻った。車の免許なら、高校生の時に取っていたから、病院の送り迎えや買い物をした。兄もちょくちょく帰ってきた。親子三人ですごせるわずかな時間を噛み締めた。
「寿乃も鳴もちゃんと育ってくれたね。自分で働いて、自分で生活できるようになって。そんな息子たちに看取られるんだから幸せだよ。大抵は親が先に死ぬの。その時期が今だったってだけ」
それを聞いていた兄も俺も、その場は笑顔だった。母が眠ってから、声を押し殺して二人で泣いた。
クリスマス。兄と一緒に母を緩和ケア病棟に入院させ、帰りにスーパーに寄った。賑やかな売り場にはチキンやローストビーフが並び、ジングルベルが流れていた。
「兄ちゃん、せっかくのクリスマスだよ。美味しいもの食べようよ」
「……そうだね」
ご馳走と、あと、酒がないとやっていられなかった。兄も俺も浴びるように飲んだ。
一月三日。母は静かに息を引き取り、田舎ならではの大げさな葬儀が執り行われた。喪主はもちろん兄だ。兄はすっかり地域の有名人になっていたので、大勢の人から声をかけられていた。
二人で息つく暇も無く実家を処分した。物を残しても悲しい思いをするだけだから、ほとんど捨てたり売ったりした。ただ、アルバムだけはそれぞれ引き取った。母は、兄と俺、それぞれ分けた物をしっかりと作っていたのである。
四十九日や納骨も終わり、やることがなくなって、そろそろ働かねばならなかったのだが、俺はすっかり抜け殻になっていた。俺の二十五歳の誕生日には、兄に家に来てもらってケーキを食べた。それでも元気になれなかった。毎日、スマホでゲームをしてぼんやりと過ごしていた。
そして、六月一日、兄の三十歳の誕生日がきたのである。
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