東京零区の歩き方②



 ヴァチカンを後にした九郎と啓介は、ブラウン館の正門壁面に設けられたエレベーターまで歩いていく。ブラウン館の階層は一階から六階まであり、エレベーターはその行き来に使用されるものだ。

 先導する九郎はエレベーターの中に入ると、〈開延長〉のボタンを押して、{四階→六階→二階→五階}の順にボタンを押していく。

 意味不明な行動に唖然とする啓介をよそに、エレベーターが上下を繰り返していくと、五階に着いた時点で一人の女性が乗ってきた。

 その姿を見て、啓介はぎょっとする。彼よりも背の高い長躯の女性は、戯画的な程に出る部分の出た豊かな肢体を赤いバニースーツで包んでおり、赤いおかっぱ頭からはウサギの獣耳とエルクの角が生えていたからである。顔は幾つもの目が描かれた布で隠されている。

 九郎はそんな異常人物さえも意に介さず、何故か乗ってきた場所である一階へのボタンを押す。

 降下していく動きの中で、やがて啓介は異変に気づいた。

 のだ。五階から移動し始めて、ぼーっとしているうちに、ノンストップで五分以上が経過していた。階層ランプの表示を見れば、一階などとうの昔に到着している。いや、通り過ぎているのだろう。

 啓介は自分が今、地獄の底へ下りているのだと理解した。


 安里啓介あざとけいすけ。職業、元暗殺者。彼が新代町にやってきたのは、ほんの数週間前である。

 生まれてから新代町にやってくるまでの膨大な時間を、啓介は太陽の光が届かない地下古墳クリプトの中で、たった一人の家族であると二人きりで過ごしてきた。

 教わったのは陽の当たる世界の常識と、暗殺術。そして、自分の果たすべき使命。

 師匠から託された彼の初仕事は、九郎の暗殺だった。不運なのは、彼女が殺しても死ななかった事だ。任務に失敗すると同時に師匠の下へも帰れなくなった啓介は、彼女の助手として働きながら、あの地下古墳クリプトに帰る手段を模索している。


 エレベーターのベルが鳴り、啓介ははっと顔を上げた。降下を終えたエレベーターの扉が、重々しく沈黙している。


「——この先、東京零区です。引き返すなら、これが最後のチャンスですよ」


 これまで無言だったバニーガールが警告した。彼女もまた、東京零区に住まう人ならざる者達の一員なのだろう。


「問題ない。扉を開けてくれたまえ」


 九郎の要請に従って扉がゆっくりと開き、啓介の目に異界の景色が少しずつ見えてくる。

 先に待つのは夜だった。暖かな黄金色の照明に照らされて聳え立つのは摩天楼——ではなく、天を衝く高さにまで重ねられた楼閣である。

 張り出したベランダには豪華なスーツ姿の獣達が、談笑を楽しみながらグラスの酒を酌み交わしている。

 明かりは下層に連れてネオンカラーの下品なものへと変わっていき、街路にはパンクなジャージや戦闘服のようなものを着たガラの悪い人外達が闊歩して、目の前を通り過ぎていった。

 そんな景色に見惚れていた啓介の死角から、肩にどすんと何かがぶつかってくる。


いてっ……」


 振り返ると、そこには薄い黄緑の皮膚をした、両生類と人間が混じったような女が立っていた。三メートル近い身体は鍛え上げられた筋肉でばきばきに割れており、所々に緑の斑点模様がそばかすのように浮いている。

 粘液にべっとりと覆われた深緑の長い癖毛の上から、ヴェールのようなものを被っているのが上半身を隠す唯一の衣服で、下も褌一丁の際どい格好だ。

 女は四本ある腕の一つを伸ばし、啓介の頭を鷲掴みにする。


「ゲヘヘ……人間じゃねえか……! エロい顔しやがって。アタシの卵産みつけてやろうかァ?」


 彼女が啓介を標的に絡み始めた刹那。九郎は腰から零銀銃ハーフクロスを抜くと、ぱんぱんに張って血管の浮いた女の巨大な左乳房を、至近距離からの発砲で爆ぜさせた。

 青い血を撒き散らして宙を舞った肉の塊は、重たい水音を立てて汚らしく地面に落ち、乳房を失った女は声にならない悲鳴を上げて地面に転がる。

 顔に返り血を浴びた啓介は、いつにも増して青い顔で九郎を見た。彼女は道端の空き缶でも蹴飛ばしたように、事もなげな面をしている。


「神が相手だからといって委縮する必要はないよ。下層にいる連中は、単なる眷属サイクルだからね。鬼とか河童みたいなものさ」


 バニーガールに案内され、二人は劇場を目指す。先程の一幕が周囲を威圧したのか、その後は特に事件もなく、街の奥深くへと歩みを進める。

 そして路地裏ばかりだった景色から広い場所に抜けると、そこには一際巨大な円形劇場が広がっていた。


「こちらが〈コメディア・メアリス劇場〉です。支配人がお待ちですので、中に入ったら受け付けにお声かけください」


 案内役と別れて劇場の中へ入ると外観から想像できる円形のロビーが広がっている。

 天井には円を描くように、人物を被写体にした幾つもの写真が飾られていた。皆仮面をしており顔は見えないが、いずれも立派な服を身に纏った気品ある佇まいだ。

 劇場の中をきょろきょろと見て周る啓介をよそに、九郎は受付で手続きを進める。


「明石家九郎様ですね。支配人がお待ちです。奥の部屋へどうぞ」

「連れが一人いるのだけど、構わないかね?」

「ええ。但し、でお願いします」

「啓介くん、おいでー! 中に入れるよ!」


 二人は受付の脇にある入口へと通され、薄暗い一本道を歩いていく。


「ここから先は演者達の控え室に繋がってるんだ。あまりうるさくしないようにね」

「は、はい。それにしても暗いですね……」

「普段は明かりが点いているのだけどねえ。さ、見えてきたよ。粗相のないようにしたまえ」


 奥からの光で白くなっている出口へ抜けると、途端に周囲からざわめきが降り注ぐ。


「……しまった!」


 九郎は即座に状況を理解して声を上げる。そのうちに、目が慣れてきた啓介にも周りの様子が把握できてきた。

 頭上を囲んでいたのは、無数の人外達で埋め尽くされた客席だ。九郎と啓介は窪んだ位置にある、円形の大きな砂場に立っていた。


「出口をか。相変わらず、サプライズがお好きだねえ」


 天井から鎖で繋がれた巨大な手のオブジェが下がり、手の平の上で赤いタキシードに身を包んだ人物が脚を組んで座っている。顔はアイマスクと拡声器が合わさったような、異形の仮面で覆われていた。


「赤コーナー! 女を捨てたバルガゲットーのミンチ製造機ミ―ト・スクラッパー、ザナガエラ!」


 実況役の割れた声とともに砂場の向かい側にある出入り口から、のそりと大きな脚が覗く。黄緑色の皮膚をしたそれは、先程外で九郎に撃たれた女だった。

 吹き飛ばされた筈のザナガエラの乳房は、先程よりも随分と色素が薄くなっているのが、既に元通りの形状へと再生していた。彼女はメリケンサックを嵌めた四本の腕をがちんと合わせると、嗜虐的に歯を剥く。


「さっきはよくもやってくれたなクソ女……お返しに、内臓飛び出るまでぶん殴ってやる!」

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