あとがき

 この物語は昔と今を照らし合わせながら書いたのですが今振り返ってみても「よくこんなことやったよな」と私自身が心から思いました。一応、いろんな人の為に断っておくと森田塾に関して「やる、やらない」という選択は私にありました。だから当然イガさんや院生から渡されたものを「やらない」ということもできたわけです。


じゃあ「なんでやったのか」と聞かれたときに言えることはただ1つだけで、それは自分で行くと決めた先の出来事だったからです。


 私は小・中学校と成績があまり良くなく、また特技とかスポーツに関しても取り柄が無く「このまま普通科の高校へ行っても同じことの繰り返しだ」と考えていました。そして私は算数や国語といった授業よりも、図工や工作。美術などの「何か手を動かして作る」というのが好きでした。


 そのため進路は工業高校を選択し、そこでさらに電気科を選びました。実は最初、機械科に入ろうと思っていました。考えが変わったのは体験入学の時で、機械科の体験授業では基本的に話を聞いているだけなのに対して電気科では実際に工具を手に持ち、何かを作らせてくれました。その時「こういうこと出来るのならこっちがいいな」という風に考え方が変わったわけです。


 そして選択先の高校でやったことのない体操競技を始め、卒業するときには「これをもう少しだけ続けたいな」という理由で「体操競技部と電気科のある場所」という条件がある大学へ進学しました。これもまた最初は「高校を出たら働こう」と思っていたわけです。


 電気科ではなく機械科を、そして高校で体操をやっていなかったら森田研究室はもちろんの事、森田登教授やイガさんとは出会っていなかったでしょうし、これは「自分で選択した結果、研究室や先生、イガさんに結果的に出会いに行くことになった」とも言えるわけです。


 誰かの意見に流されて行かされていたわけではありません。だからやれたんだと私は感じています。


 これは今でも印象的で覚えているのですが、私や同期が研究室に対して不満を感じていた時に言われたのが「あなたたちは志願書を出してこの研究室を選んできたんでしょ?」という言葉でした。


 自ら望んで入りたいと書類を出して、面接が終わった後「受かっていればいいな」と思ったのは間違いなく自分です。これは就職活動にも同じことが言えて、就活でも履歴書を提出し自分で受けるという意志を見せない限り入社試験を受けることは出来ませんし、その会社にそもそも「入ろうとすること」が出来ません。


 自分の意思で決めたことなのだからその先で待っている出来事の責任は全て自分にあるということですし、自分で決めるということはそれだけ重要なポイントであるということです。


 この物語を描くということは誰の差し金でもなく自分で決めました。選んだ結果の楽しいのも、辛いのも、苦しいのも、全部自分に来ます。


 それはつまり自分で選んだことは自分に返ってくることになります「自分は一体何を求めてそれをやるのだろうか」ということが学ぶこと、働き方などにおいて時代が進むにつれてより一層、重要なことになっていくと思います。


 終わりにこの物語を描くにあたって出会った全ての人に感謝を申し上げるとともに、今後も作家になるために物語の制作をしていこうと考えていますのでその時はまたよろしくお願い致します。


読んで頂きありがとうございました。


令和6年11月4日 松下一成

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「色彩を知らない私は森田研究室に出会った」 松下一成 @KZRR

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