五 (2)


 翌年の六月に留学期間を終えるまでに、私はさらに二度、点前のパフォーマンスを行った。アーネストはそのたびに会場に来て写真係を務めた。マッキンタイア夫妻は、彼がよく協力してくれると言って喜んだ。息子と私がただならぬ仲になっていようとは、微塵も疑わない様子だった。

 同性愛者だと家族に話したことがあるか訊くと、アーネストは首を横に振った。

「伝えても、誰のためにもならない」

 彼は言った。

 コンコード訪問が深い印象を残したのと、アーネストとの対話の効果もあって、私の文学的関心は変化していった。日本の大学でアメリカ文学史を学んだ時には、十九世紀の文学作品群は掴みどころのない、退屈なものに感じられていた。それがニューイングランドの環境に身を置いたことで、にわかに鮮明な情景と思想とが文面から浮かぶようになり、私を魅了するようになったのだ。二十世紀モダニズム演劇から研究テーマを選ぶという元の計画を離れて、私は十九世紀の文学、それもコンコードを中心としたニューイングランドの文学者たちの作品に傾倒するようになった。

 ボストンの大学に提出する修士論文のテーマには、ホーソーンの『緋文字』を選んだ。一年間だけの、日本の大学院に比べれば重みの少ない修士号だが、学位授与式には慣例に従い、いわゆるキャップ・アンド・ガウン、四角い式帽と長い黒の式服で臨んだ。マッキンタイア夫妻と一緒に、アーネストはその祝典の場にも現れた。

 彼らに順に抱きしめられて、最後にアーネストと抱き合った時、彼はささやいた。

「博士論文が終わったら、必ず日本に行く。その時にまた会おう」



 帰国して、私は今度は日本の大学に提出する修士論文を書かなくてはならなかった。アメリカで取った修士号は、日本の修士号と同等と認められなかったためだ。留学で得た知見を最大限に注ぎ込んで論文執筆に励むかたわら、アーネストと手紙をやり取りし、互いに進行状況を報告し合った。机の引き出しの中には少しずつ、アーネストからのエアメールが溜まっていった。

 父は私に、学問の徒として歩み始めた兆しを見て取ったのかもしれない。留学中に受けた授業や論文指導について尋ね、ボストンで提出した修士論文の写しにも目を通して、良い英文だ、と短く評価した。私も留学前に比べ、父に対する感情的な屈託は減り、文学の話を夕食後の食卓などで交わすことも増えた。それは私に自信が付いたからというよりは、目指すべき基準の象徴が日本の父ではなくなったからだった。私は求めていた力の源泉を、アメリカで見つけたのだ。父の期待に応えられる息子ではないという忸怩たる思いや、英文学の米文学に対する優位を疑わない父への反抗心は、私の中ではもう大きなことではなくなっていた。

 使える時間の大半を論文執筆に振り向ける一方で、私は母の茶席や、家での稽古に付き合うようにもなった。私の変化に母は喜び、兄は冷やかしを交えつつ、感心した様子で言った。

「日本人が海外に行って帰ってくると、愛国者ナショナリストになるってよく聞くけど、本当なんだな」

 自分はそういうのではないと思ったが、黙っていた。母には、アメリカでの茶の湯の実演が思いのほか好評だったので、将来また渡米する機会があった時や、海外からの客を迎えた時に、できるようにしておきたいと話した。

「それはいい心がけね。でも、いずれ、あなた自身の興味から、お茶を学びたいと思ってくれたら嬉しいわ」

 母の言葉にうなずいた。しかし、本心では、再びアーネストに会う時に備えて、彼を失望させたくなかったのだ。

 アーネストは私が帰国した翌年に博士号を取得し、ポスドクをしながら日本に来るチャンスをうかがっていると書き送ってきた。私の方は兄と同様、通算で三年間修士課程に在籍したが、兄が修了後ただちに大学助手の職を得たのに対し、私は就職の見通しが立たなかった。博士課程に在籍しながら職を探すと腹をくくった。

 瑶子と数年ぶりに再会したのはこの頃のことだ。彼女は英語劇サークルの一学年下で、学生時代は私たちの大学と交流の深い女子大に通っていた。大層な美人というわけではなかったが、舞台映えする女性だった。大きな目と鼻に、ふくらみのある唇をしている。豊かな髪を緩く巻き、それが肩の下まで流れ落ちているのが華やかだった。しっかりした骨格で、洋装なら何を着てもさまになる反面、和装向きの体つきでないのを本人は嘆いた。

「成人式の着物を着たら、俵みたいになっちゃって……」

 しかし、多くの女性部員はうらやましがっていた。洋服は結局、西洋人の体形に合わせて発展してきたものだから、それを着る私たちの外見は、恒久的に不利な立場に置かれている。瑶子はそうした現実に対抗できる、数少ない日本女性の一人だった。

 私がボストンにいる間に、彼女は大学四年次に在籍したまま、社会人の恋人と最初の結婚をした。相手は五つか六つ年上で、しばしばサークルの公演を観に来ていた。会場に来る時は、いつも瑶子に贈る花束を手にしていたという。背が高くて見栄えのする、スーツにネクタイ姿のその男を、私は二度ばかり見かけたのを憶えている。部員はみな、二人が公演を通して知り合ったのだろうと思っていたが、後になって、有名証券会社に勤める彼と瑶子は、彼女が高校生の頃から交際していたと知った。私が日本に戻ってから聞いた話では、演劇仲間たちを招待して、世間並み以上にきらびやかな披露宴が行われたという。しかし、この結婚は短かった。

 再会の場は、サークルのOB・OGで集まり、後輩たちの定期公演を観に行った後の飲み会だった。瑶子は離婚して半年ほど経ったところで、同期の女性たちを相手に、結婚生活が破綻するまでの顛末を語っていた。そのテーブルに、私はたまたま一人だけの男として座っていた。彼女の元夫は、交際していた頃は紳士的だったが、結婚すると間もなく猜疑心と嫉妬心の強い本性を表わして、妻が自分のいないところで他人と会うのを制限するようになった。瑶子は初め、結婚生活とはこういうものかと我慢していたが、ついに限界を迎えたという話だった。途中で、後輩の一人が私に気づき、瑶子に言った。

「ちょっと、朝永さんに聞かれちゃってるわよ。いいの」

「別に、構わないわ」

 彼女はちらりと目線をこちらに送って答えた。私など、男として意識されていないのだろう、空気のようなものなのだろうと思ったが、離婚の心労が滲んだ彼女の目元に、かえって学生時代にはなかったなまめかしさを感じた。

 一方で瑶子の方も、これは後に彼女が教えてくれたが、私が変わったと感じていた。彼女の時間や関心を振り向ける価値がある男のように見え始めたのだ。私たちはサークル仲間の集まりとは別に、二人だけで会うようになった。

 瑶子は次第に離婚による消耗から脱け出し、生命力に溢れた華やかさを取り戻していった。大学時代の私たちを憶えている同期や後輩は、当時は思いもよらなかった組み合わせだと頭を振ったものだ。看板女優級の彼女と、舞台にも上がるが、もっぱら脚本の選定や編集に熱心だった地味な部員との交際は、驚きをもって受け止められた。口の悪い人間からは、彼女がいわば「お下がり」だから、私のような男にも手が届いたのだ、というやっかみも聞こえてきた。

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