五
五 (1)
米国留学より前に、他人と肌を合わせた経験がなかったわけではない。学部生の頃に、私は女を知る機会があった。アメリカ文学の授業で机を並べた女子学生と、互いに若い熱に浮かされ、ほんの短い期間付き合ったのだ。さかのぼって高校時代には、同級生と愛撫の真似事をし、口づけさえ交わしたこともある。しかし、それは女性がいない環境に置かれた若い男の、自慰行為の延長のようなものだった。少なくとも、当時の私はそう思い込もうとしていた。アーネストは、私が意識的に関係を持った初めての男だった。
感謝祭の夜のあと、私は有頂天だった。日本を遠く離れ、違う言語を話す人々の中にあって、己をさらけ出せる相手と出逢えたのが奇跡に思えた。何日もの間、興奮で頭の冴えわたった感覚が続いた。
だから、翌週末にアーネストのアパートに招かれ、彼が控えめに私を求めてきた時も、断る理由はなく、むしろそれを待ち望んでいたほどだった。けれども、それぞれ服を脱ぎ、彼の裸身を初めて目にした時、再び羞恥の感覚に襲われた。男性に惹かれているからではなく、今度は自分の身体に引け目を感じずにはいられなかったのだ。
「恥ずかしい」
思わず口にすると、どうして、とアーネストは訊いた。
「ぼくの身体は……
私は表現を探して答えた。
普段のアーネストに、特別な肉体的鍛錬のあとを見出したことはなかった。研究と執筆の息抜きに軽い運動はするが、スポーツが習慣というほどではないとも聞いていた。しかし、彼の身体は厚みのある構築的な骨格を持ち、広い肩にも、節の目立つ大きな手にも、男性的な美が感じられた。
彼と比較したせいで、私は自分の
「そんなことを言うな」
彼はささやいた。
「ぼくは君の身体が好きだ」
私の腕をほどかせて、アーネストは抱きしめてきた。彼の胸にも腕にも一様に赤褐色の細い毛が覆っていて、私の肌にこそばゆかった。締まった筋肉が押しつけられる感触に、身体の奥からあの熱の波が立ち、表へと溢れくるようだった。
それでもなお、彼の言葉をそのままの意味で受け取るのは難しかった。私を慰めようとしてそんなことを言うのに違いない。相手を持ち上げる言葉を挨拶代わりのように会話に挟む、アメリカ人の言語習慣の一環にすぎないのだろうとも思っていた。
私のさえない表情を、経験のなさから来る不安だと解釈したのかもしれない。アーネストは私をベッドに寝かせると、自分も寄り添って横になり、言った。
「急がなくていいよ。リラックスして、ぼくといて安心だと思ってほしいんだ」
彼は私の髪を撫で、手を肌に滑らせた。気遣いが申し訳なく、屈託を払って心地よさに集中するうち、自意識から来る緊張がほぐれて、四肢から力が抜けていった。
私は彼の腕に手を伸ばし、指の内側と手のひらの全体でその感触を確かめた。肉の弾力の奥に、しっかりとした力の溜まりが感じ取れた。私に欠けているもの、日本で兄と自分を比べていた時から渇望していたもの。それがここにあると認識した途端、いっさいの迷いが飛んだ。私は、彼を欲していた。彼を引き寄せて、額に口づけした。
私の首筋に鼻を埋め、アーネストはため息交じりにつぶやいた。
「君は、体臭が全然ないね……。それに、とても滑らかな肌をしている。絹を触っているみたいだ。君の身体がこうなのか、それとも、日本人はみんなこんな肌をしているのか……」
「わからない。でも、ぼくは日本人の中で、特別な存在じゃない。それは確かだよ」
「ぼくは匂うだろう」
「そうだね……。少し」
「どんな匂いがする」
「チーズっぽいというか……。乳製品と牛乳で育った人の匂いだと思う」
「そうか。君は、米だね。それと、日本の水か」
彼は身体を起こし、私の上に乗ってきた。彼の唇、鼻先、次いで前髪が、順に鎖骨の間の肌を掃いた。温かな感触が胸に下り、細い道を辿ってみぞおちの下にまで届くと、深い息とともに
アーネストと逢瀬を重ねるようになって、私はかえって勉学に集中するようになった。彼と会う時間を捻出するためもあったが、何より、彼との間の落差を縮めたかったのだ。
彼の交際相手として自分はふさわしくないのではという疑いを、私は拭い切れなかった。彼が白人で私は東洋人だということが、その劣等感を生み出しているのかどうか、私は考えるのを避けていた。その点を深く掘り下げれば、私の中に人種的な偏見があると認めざるを得なくなる。日本にいた時は、自分のこととして考える必要のなかった問題だった。
持って生まれた身体を変えようとしても無理なので、より現実的な解決策は、知的・学問的面でアーネストに追いつくことだった。英語力を高めるのは当然として、留学期間中に可能な限り、深い知識と思索の力を身に付け、彼とより対等に話ができるようになろうと決心した。
アーネストとの差は、たとえば一緒にボストン美術館を訪れた時に痛感した。ここは、留学中に訪問する機会を楽しみにしていた場所の一つだった。伯父の書斎で大部なカタログを見たことがあったためで、その中の解説には、この美術館の日本美術コレクションは、質量ともに国外では世界最大と記されていた。
日本美術の展示室をアーネストと見て回るうち、不思議な感覚に襲われた。見覚えがあるものとないものを、同時に眺めているかのようだった。展示された仏画、絵巻物、掛け軸、浮世絵、菩薩や観音の像などと、類似の品は日本でも見たことがある。しかし、日本と違って、ここに展示されているものは、みな長い時間を経たことを忘れさせるほど良い状態で保存されていた。無口な背景の前で、どの品々も輝くばかりだった。
「こんなにきれいに管理された日本の美術は見たことがない」
私は興奮してアーネストに伝えた。
日本でのこうした古い美術品は、大抵の場合、寺院の奥やそこに併設された薄暗い所蔵庫、どことなく
館内のカフェテリアで昼食を食べながら、正直な感想をアーネストに言った。
「美術品にとっては、日本に置いておくよりも、アメリカの美術館にあった方が良さそうだ。ずっといい扱いを受けて、命も長くなるんじゃないかな」
「惇也。……君は、もっといろんな角度から考えないといけない」
アーネストは諭すような口ぶりになった。
「美しいものが真に美しさを発揮するには、
「寺の建物も一緒に目に入れば、それは、違う景色だろうけど」
「伝わってくる
彼はもどかしげに親指を擦り合わせた。
「君や、日本の多くの人たちは、自分の文化が当たり前にそこにあるから、かえって気づかないことがあるんだろうね。谷崎は『陰翳礼讃』の中で、寺に月見に行こうとしたら、そこで拡声器からムーンライト・ソナタを流すというのでやめた、と書いている。一九三〇年代のことだよ。それから何十年も経ったのに、観光客が来る寺では相変わらず音楽を流したりイルミネーションを点けたりして、場の雰囲気を台無しにしている。谷崎の警告は伝わっていないんだ。ぼくのような外部の人間にできることがあるとしたら、彼の視点に味方して、美のありかを訴え続けることだけだ」
彼は私に顔を近づけた。
「惇也、君の中には
「それは、買いかぶりだと思う。ぼくは何も知らない」
「君は存在を認識していないんだ。育てていないだけだよ」
テーブルの下で、私の手に彼の手が触れた。
「できるなら、ぼくが手伝って育てたい。そうすれば、君はもっと完全な存在に、本来の君になれるんだ」
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