四 (3)


 十月半ば、アーネストとコンコードへ出かける前、道中の話題に加えようと、大学図書館で泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』を読んだ。ここの図書館には日本語書籍のコレクションがあり、主な古典文学や近代文学の全集が揃っていた。これは嬉しい驚きだった。日本の大学図書館が英米文学の重要作品を所蔵しているのは当然と思っていたが、逆については予想していなかった。

 夜叉ヶ池は福井県の山中深くに実在する池で、竜神が棲むという伝説がある。鏡花は古い言い伝えを元にしながらも、想像力を自在に用いて同時代の物語に仕立てた。一九一三年、大正二年の出版である。

 夜叉ヶ池の竜神は「白雪」の名を持つ姫で、飛騨山脈の剣ヶ峰にいる恋人に会いに行きたがっている。しかし、彼女が座を移せば、夜叉ヶ池は溢れて大洪水を起こし、周辺の村々と八千の民のすべてが水に没すると伝えられる。この竜神が動かぬように封じているのは、一昼夜に三度、村の鐘楼守がく鐘の音である。鐘を守っているのは、東京から二年前に来た青年で、たまたま彼の前の鐘楼守が亡くなるところに来合わせ、役目を引き継いだのだった。青年は村でめとった美しい妻、百合とともに鐘を守るが、村の人々が言い伝えを迷信と断じ、強引に鐘撞きをやめさせたことから、物語は悲劇へと転がり進んでいく。

 日本ではこの月の下旬に、『夜叉ヶ池』の映画が封切られることになっていた。鐘楼守の妻と竜神を、歌舞伎の人気女方、坂東玉三郎が一人二役で演じる。日本を出発する前に見た新聞報道によれば、これが彼の映画初出演ということだった。

 ボストンからコンコードへ向かう車の中で、アーネストと『夜叉ヶ池』の話をした。彼も『夜叉ヶ池』が映画化されたのを知っていた。

「雑誌で簡単な紹介記事を読んだだけだが、野心的な企画のようだね。いずれ、アメリカでも上映されるといいんだが」

 ハンドルを握りつつ、彼は言った。

「ヒロインを男性が演じることについては、どう思いますか。奇妙に見えませんか」

 私は訊いた。

「いや、実のところ、これがいちばんいいやり方だと思うよ。二人のヒロインは、どちらも一般的な意味での女性じゃないからね。白雪姫はもちろん、神性を持つものだが、百合も超自然的な存在として設定されている。『孤児みなしご』と表現されているし、年を訊かれても答えない。村人たちが彼女を辱めようとした時、助けに入った者もいない。まるで、東京から来た青年と出会って結婚するまでは、誰とも人間関係がなかったみたいじゃないか。普通の女優よりも女方の方が、白雪と百合が表すものを、より良く捉えられるだろう」

「では、あなたはこの配役に賛成なんですね。ぼくは、監督が玉三郎を選んだのは、話題作りのためだと思っていました。白雪と百合の表すものって、何ですか」

「二人はそれぞれ、恋する女性の違った側面なんだよ。白雪は情熱と積極性、百合は献身的な愛と自己犠牲を表す。鏡花は、彼女たちを現実の女性の反映ではなく、概念的な存在として創り出した。女性の本質を、二人の登場人物に凝縮させたんだ。女方は肉体的に女性ではないからこそ、こうした抽象的な女らしさの表現に向いていると思うね」

「女優でも、美しくて演技力があれば、できそうに思いますが」

「まあね。でも、女優だと女の身体があるから、現実感が強く出てしまうんじゃないかな。白雪と百合の役には、別世界の味というか、見る間に消えゆくような、夢幻の雰囲気が必要だ。演技力や、化粧や衣装で多くのことが達成できるというのは、そうだろうと思う。でも、男性の俳優が純粋に概念としての女性を体現できれば、彼は、最高の女優がその役でできることを超えられるだろう」

 アーネストはしばらく黙り、進行方向に視線を向けていた。付け加えるように、つぶやいた。

「ぼくは、女性の概念は好きだ。でも本物の女性に接すると、白けてしまう。とても実際的で、計算高くて、しかもそれを自分で意識もしていないんだ。それが怖い」

 助手席から、アーネストに目をやった。彼の言葉には告白めいた、他の人には言わないことを私にだけ打ち明けている響きがあった。

 彼は私に微笑んだ。

「退屈させたかな。鏡花の話になると、ついしゃべりすぎてしまう」

「いえ、退屈じゃないですし、興味深いです。作品を読んだ時は、そういう隠れた意味に注意を払ってなかったので、とても勉強になります。ただ、一つ質問があるんですけど」

「いいよ。どんな質問?」

「あなたの挙げたものが女性の本質的な資質だとしたら、男性の本質は何ですか」

「恋をしている男性かな。それとも男性一般について?」

「そうですね……両方でしょうか」

「それは壮大な質問だね。人間全般の本質的な資質を問うているようなものだよ。でも、恋する男性に限って言えば、ひとつは勇敢さギャラントリー。そしてもうひとつは愚かさフーリッシュネスだと思う。後者は大きい方の質問の答えにもなるけどね」

「愚かさ、ですか」

「その通り」

 彼の答えを反芻しているうちに、車はコンコードに近づいてきた。ラルフ・ウォルドー・エマソン、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ホーソーン、エイモス・ブロンソン・オルコット、その娘ルイザ・メイ・オルコットが暮らした町は、紅葉の深いいろどりの中にあった。車から降りると、これからやって来る季節の予感を秘めて、きりりと澄んだ大気が私たちを迎えた。

 コンコードにある多くの文学史跡の中から、まずはウォールデンポンドを訪れた。ソローが岸辺に居を構え、『ウォールデン 森の生活』を書いたことで知られる。池は黄金こがねや朱赤、茜色に葉を染めた木々に囲まれていた。紅葉の色が水面みなもに映って、日本であればにしきにたとえられるような光景を作り出している。池に浮かぶ落ち葉が風に吹かれて動くさまは、何千もの小さな折り紙の舟がいっせいに進んでいくようだった。

 景色が美しいとアーネストに言うと、彼は答えた。

「竜神の姫はここにはいないけどね」

「でも、ぼくは好きですよ。とても静かで、心が落ち着きます。きっとソローが『ウォールデン』を書いた時代から、変わっていないんじゃないかな」

 私は錦の狭間、藍と紺、光の色に揺らめく小波の連なりに目をやって、涼しい風を頬に楽しんだ。

 ボストン留学はアメリカと私のその後の関係を決定づけることになったが、最も重要な転機がこのコンコード訪問だっただろうと振り返る。日本のメディアでは、アメリカといえばニューヨークやハリウッドのイメージばかりが氾濫していた時代のことだ。摩天楼、多彩な外見の人々の群れ、有名人のネームプレートが埋め込まれたブールヴァード――そうしたイメージに影響された私の素朴なアメリカ観は、ボストンに来て覆された。煉瓦造りのロウ・ハウスが建ち並ぶ街の風景や、独立戦争ゆかりの史跡群、港に寄せる潮の香りは、ここが確かにかつての大英帝国の植民地であり、ヨーロッパ文明が海を越えて到達した外縁であることを示していた。しかし、書籍から得た知識が五感を通じた体験と結びつき、実感を伴うものに変わっていく過程とは別に、コンコード訪問は一種の霊的な経験だった。私はコンコードを訪れて初めて、アメリカの精神の一端を掴んだ。コンコードはボストンよりも一歩先にあり、イギリスを母体としつつもそれとは異なる自然環境で芽吹き、独自の花を咲かせた文明の発祥地だった。

 落ち葉を踏む音を立てながら、アーネストと私は、初めオルコット一家、次にホーソーンが住んだ屋敷「ウェイサイド」や、エマソンの家、オルコット一家がのちに住んだ「オーチャード・ハウス」などの文学史跡を見て回った。羽目板の外壁に高い煉瓦の煙突を立てた家々の、純真な質実さは、商都ボストンとは一線を画していた。かつてこの地に生きた文学者や思想家たちの、透徹した知性とでもいったものが、歴史的建造物の中にそのまま抱かれているようだった。百数十年の時を経ても、彼らの交わした会話の名残が、空気中に消えずに漂っている気がした。

 英語の適切な表現を探しながらたどたどしく語る私の感想に、アーネストは辛抱強く耳を傾けた。聞き終わると、

「君は、ここの超越主義者トランセンデンタリストたちの魂に触れることができたんだね」

 と言って微笑んだ。

 帰りの車の中で、アーネストが訊いた。

「どうしてアメリカ文学をやろうと思ったんだい」

「父が英文学者で、英語も文学も子どもの頃から身近だったのが一つの理由です。でも、アメリカを選んだのは、いちばん魅力的な国だと思ったから」

 私は問いを返した。

「あなたは、なぜ日本文学を選んだんですか」

 彼はちらりと助手席の私を見た。

「ぼくは、日本の文学がいちばん魅力的だと思っている。アメリカ文学よりもね。……アメリカという国は、何もかもオープンにして、切り刻んで分析し、白日のもとにさらすのがいいことだと思っている。でも、そうすると死んでしまうものもある。美しいものは、特にね。日本の文化を守っている人たちは、それがわかっているんじゃないかと思う」

 大学寮の前で私を車から降ろす時、アーネストは、次に家族が集まる機会に、もう一度点前をやってほしいと頼んだ。

「次は感謝祭サンクスギビングだろう。妹がフィラデルフィアから帰ってくる。ぜひ見せてやってほしい。……それに、あの体育館でやった時より、もっと良く見せる方法を、ぼくは知っていると思うんだ」

 オーケーと私は答えた。アーネストは日本語でアリガトウと言って、私の目の下にキスをした。

 それがアメリカの文化では、友人同士の親しい仕草の一つなのか、もっと別の意味を持つものなのかはわからなかった。しかし、アーネストの車を見送る私の身体の中に、あの「揺らぎ」がよみがえっていた。私を恥じ入らせ、お前は異常だとささやいてくる熱のさざなみ――私はそれを、研究者としても人間としても優れた人への、憧れのせいだと解釈した。コンコードの光と空気の感覚が薄れていくのを恐れて、あの町にとどまる知性の残した作品群を手に取るべく、私は夜も灯の洩れる図書館に向かった。

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