第5話(上) 総合学習とかいう謎の時間

 よく寝た、いい朝だ――そう思えるような朝って、大抵その後大変な思いをする気がする。

 例えば今、枕の隣で止まっている目覚まし時計の針は既に家を出なければいけない時間だった。


 サボるか……?

 一瞬そんな堕落思考が脳内を過るが、昨日の須凍の笑顔が――ふと脳裏に過る。


「また明日……ね」


「なぁに部屋でにやけてるんだい! 起きてこないと思ったら部屋でニヤニヤして――とっとと学校行っといで!!! 引きこもるのは許さないよ!!」


 バァン、とノックもなしに部屋の扉が開いて母親が登場。

 次の瞬間にはパン一枚を加えさせられ、サボる選択肢もなく学校へとダッシュを決めていた。


 †


「おはよす~! 遅いじゃん今日!」

 ※おはよす:おはよう夜墨っちの略

「マジで焦った。見たことあるか、通学路に誰もいないの」

「あるある、たまにウチもよくするしさ! でも爆速で駆ければどーにかなるし」


 教室に駆け込んですぐに挨拶を交わしたのは夏海だった。

 確かに夏海は本鈴(朝のホームルーム前のチャイム)ギリギリに駆け込んでくることがよくある。

 だからどうしてだろう、いつも遅刻しそうなやつに「遅いじゃん」って言われるとなんか不思議な感情になるんだよな……。


「マジで今日夜墨っち休むんじゃないかと思ってたよ! ウチもおーかみさんも!」

「なんで須凍さんの名前がここで出てくるんだよ……」

「訳は知らないけど夜墨っちの席の周りぐるぐるしてたし……あれ、戻ってる」


 須凍は自分の席に座って優雅に文庫本を開いている。


「見間違いだろ、きっと」

「そんなことないよ! ウチはおーかみさんと仲良くなりたいからずっと見てたんだよ!」


 俺と夏海が須凍についてしてた/してない論争を繰り広げていると――その輪に加わるようににゅっと近づいてくる人影が。


「おいお前ら早く座れ……欠席にすんぞ」


 先生がお怒りで割り込んできた。

 はぁ~い、と気の抜けた返事をして夏海は席に着く。

 俺も同じく席に戻ろうとして――ふと顔を上げると、須凍と目が合った。


 目が合ったことに須凍が驚いたのか、蝶のようにふらふらと目線は泳ぎ――最終的にそらされてしまった。

 須凍が俺の席の周りをぐるぐるしている……全く想像つかないな。


 †


 ホームルームは恙なく終わった。

 何でもない金曜日、今日も朝から数学英語体育古文総合総合とみっちり授業スケジュールが組まれている。頭の痛くなる予定だ。


 机の中に入れっぱなしの数学のワークとノートを取り出し、授業の準備をしていると後ろからちょんちょんと声を掛けられた。


「ねぇ、数学の宿題みーして♡///」

「やーだ♡」


 振り返ると夏海が居た。

 にこっと笑う夏海と俺。


 お互いに一歩も譲らない、にらみ合いの時間が続いていた。

 そんな中、視界の端っこに須凍を見つけた。

 普段なら教室の隅っこで本を読んでいるはずだが、珍しく席を立っていた。

 トイレに行くわけでもなく、ただこちらを見ている。


 何か用があるのかもしれないが――すまん須凍、俺は今俺がやってきた宿題を奪い取ろうとする親友と戦わなければいけないんだ。


「交渉しよう、数学のノートを写させてくれたら去年のうちの水着の写真を見せてあげる」


 夏海がそう言った瞬間、夏海の後ろで強い冷気がぶわっとあふれ出し――冷房をつけていないのにもかかわらず一気に教室が冷たくなった。


「受験勉強で海行ってる余裕なんてなかっただろ」

「所詮高校入試よ、それに天才夏海ちゃんなら勉強しなくても高校入試くらいよゆーなのさ!」

「天才夏海ちゃんならノート写さなくても問題ないだろ、要らねーよそんな写真」


 却下すると、急に教室に熱が戻っていく。

 見ていなかったが……たぶん夏海の後ろに要る氷の一匹狼による“圧”のせいだろう。

 気づいていないのは夏海だけで、ほかの生徒は怯えてしまっている。


「じゃあ夜墨っちの恥ずかしいエピソード暴露、これで手を打とうじゃないか……。中学校の頃、一応これでも恋仲と噂されていた程度には仲がいいウチだからこそ知ってるエピソードはいっぱいあるんだけど……?」

「くそっ……強請られてる!」


 須凍を見ると――目を輝かせていた。

 そんなに俺の恥ずかしいエピソードが知りたいか。


「徹底抗戦だ、絶対に俺は挫けねぇぞ、ってか話してる時間あるならやれよ」

「今からやっても間に合わないもん! だったら夜墨っちから強奪した方が速いね!」


 わーきゃー……と、傍から見たらそんな擬音が似合うんだろう。

 中学時代と変わらないやり取りをして――休み時間はちりちりと減っていった。


 結局――俺はノートを防衛することでいっぱいいっぱいだった。

 須凍は何か俺に用があったのか、ずっと夏海の後ろにいたが……時間になると何事もなく戻っていった。

 授業終わりにでも聞くか、と俺は記憶の底に留めておくことにした。


 †


 授業終わり。

 またしても須凍は俺に近づいてきた。

 俺も須凍に声を掛けようとするが。


「ねぇ夜墨っち酷くない!? なんで私だけ怒られたの!?」

「宿題やってこないからだろ」


 親友、もとい闖入者がにゅっと顔を出す。

 須凍の席は窓際最後尾。

 一方俺の席は廊下側前から二番目だ。

 ちょうど対角線上にあるため、確かに話しかけるまでに時間がかかる。


 だけど……二時間目の前の休み時間は一味違った。


「あっ――おーかみさん!」


 夏海がいち早く須凍の存在に気付き――。


「こっち来て一緒に話そうよ!」

「あなたに用はないわ……」


 冷気を纏って帰って行ってしまった。


「ねぇ……私おーかみさんに何かしちゃったかな!?」

「あれが普段通りなんだろ、気にすんなよ」


 夏海から須凍に向けての矢印はあるが、その反対はない。

 何なら須凍は夏海のことをちょっと苦手としている。

 実際水と油だな、とも思う。


 †


 三度目の正直と言わんばかりに須凍は次の休み時間も近づいてきた。

 今度は夏海はいない。

 俺一人だ。


「……あのっ、夜墨、くん……っ」

「悪いな、今日ずっとうろうろしてたのは知ってるんだけど」

「いえ、その……わ、私こそ……挙動不審でごめんなさい」


 しどろもどろで挙動不審だったのは間違いない。

 だとしても謝るのは俺にじゃなくてクラスメイトかもしれない。

 須凍の謎の挙動に皆怯えていたからな……。


 今度こそ須凍と話せる――と思ったが。


「男子は教室で着替えろ、女子ははよ更衣室行け――」


 がららっ、と扉を変えて入ってきた体育教師によって妨げられた。


「だってさ、須凍さ……」


 隣を見ると……静かな怒りを湛えた須凍がいた。

 表情こそ変わらないものの、髪の先端が静電気に当てられたようにふよふよと浮いている。


「そうね。じゃあ……また後で」


 須凍さんはそう言って、先生の隣を通って教室から出ていく。

 先生は静かに「うおっ……怖え」と呟いていた。


 †


 体育の授業は普段通りだった。

 つまり……委員長が休むこともなければ、当然須凍が浮くこともない。

 俺は先生と組まされ、前よりもタイムが落ちているとドヤされ……そして、へとへとになって教室に戻ってきた。


 着替えが終われば次の授業がもう始まる直前で――話す余裕はなく、気が付けば四時間目が始まっていた。

 そして睡眠に慣れきった古文の先生ですら呆れるくらいの人数が授業中に睡眠をかまし、まぁまぁの怒られを受けて――昼休み。


 振り向いた視界の真ん中の方で夏海と目が合った。

 そしてその端には須凍がおり、須凍は夏海が話しかける前にと先制攻撃を放つ!


「須凍君っ――! 今日は一緒にお弁当を食べるわよ、今――ここでっ!」

「えっ――ええっ!?!?」


 一番大きな声で驚いたのは夏海だった。

 そして次点はクラスの皆。

 ありえない交友関係に教室中がざわめきだした。


 「どういうこと?」「この間体育で一緒だったからか」「一匹狼が二匹に!?」「許せませんわ」「あの須凍さんと!?」――などなど。

 須凍は教室では神聖視……とまではいかないまでもアイドル視されている面がある。


 そんな須凍が大声で、教室では目立たない俺を誘えば――そりゃ何事かという話にもなる。


「ちょっと夜墨っち、マジで何が起きてんの今!?」

「いやほら、友達だから」

「あたしにも紹介してよ!!」


 すんすん歩いてくる須凍に向きなおって夏海は近づいていく。

 物怖じしないすごい奴だ。


「私は日向夏海! 夜墨とは……幼馴染、みたいな感じ?」

「嘘を吐くなよ。小学生の時からずっと同じクラスなだけだろ」


「……へぇ」


 まるで、空っ風が吹いたようだった。


 須凍が夏海を見る目は冷たく――まさしく狼が獲物を見ているようだ。


「えっと……いったん撤退! 今度一緒にお昼食べようねっ!!!!」


 ぴゅ~、という効果音に、足元にぐるぐる巻きの渦を出して夏海は教室を去っていった。まるで漫画みたいな奴だった。


「あっ、えっと……そういうつもりじゃないんだけど」

「今のはさすがに須凍さんが悪いかな」

「……だよねぇ――」


 はぁ、と冷たい吐息が流れる。


「とりあえず……座っていいかしら? そこ」


 須凍が指さした先は、夏海が座ろうと持ってきていた椅子だった。

 今は本人がいなくなって空席になったその場所に、須凍は腰かける。


 当然俺たちに注目しているのは夏海だけではなかった。

 クラス中の全員がこの後どうなるかをじっと眺めている。


「なんだか……視線を感じるわね」

「そりゃそうだろ、あんな大声で呼びかけりゃ誰だって気になるさ」

「大声を出してなくても、こうなっていたわよ。だって――ずっとクラスでひとりぼっちだった陰キャが急に友達を作ってつるんでいるのよ……」


 どういうわけか須凍の自己認識はやたらと低い。


「んなことないない。須凍さんにいつ話しかけようか皆気を揉んでるだけだって。知ってるだろ、孤高のアイドル的な目で見られてるんだって」

「知ってるわ、知ってる……けど、ありえなくないかしら? どこにその要素があるのよ」

「若干アイドルとは違うけど……カッコいい所とかじゃん? ほら、アイドルって言っても一概にかわいい系だけじゃないだろ。カッコいい系のアイドルとかなら分かるかな」

「……そういうものかしら」

「少なくとも俺はカッコいいと思ってたよ」


 須凍の真の姿を知るまでは、な……。


「そう思われている分には悪い気はしないわ……けど、さすがにこんなに見られてたら食事もおちおち出来ないわね」


 須凍がそう言うくらいには、周囲の注目が集まっていた。

 というか、教室の外からも異変を嗅ぎつけて見に来ている生徒もいるくらいだ。


「だからってどうすることもできないだろ」

「散らしてくるわ」

「……散らす? でもお前人と話すのはあまり得意じゃないって」

「話すのは、得意じゃないわ。だけど――」


 キッ、と視線を教室中に振りまく須凍。

 いつも通り凍てつく教室に――スパイスを一つまみと言わんばかりに、須凍は立ち上がった。


「見世物じゃないわ。私に用があるのなら――正々堂々正面から来なさい。彼みたいにね」


 ふぁっさ――と白い髪を靡かせて、須凍は座った。

 須凍の演説が効いたのか、教室中に偽りの話声が戻る。

 見ているということを悟られてはいけない、とクラス中が理解して元の営みに戻っていった。


 たった一言、それだけで須凍は教室中に蔓延する空気をみた。


「やっぱ須凍さんって……カッコいいよな」

「……たまにそれ言われるけど、何も思わなかったわ」


 お弁当箱のひもをしゅるりと解きながら、須凍は少しだけ顔を赤らめる。


 散らしたはいいものの、それでもチラチラとこちらを見る視線は絶えない。

 俺からも何か言った方がいいかと空気を読むことにした。

 さすがに須凍に散らしてもらっただけでは世話がない。

 そもそも、教室で話そうと提案したのは俺だ。


「えっと、須凍さんとは……この間友達になっただけで、今度お昼とかどうって誘ったらこうなっただけで」


 説明しようと思ったが、想像以上の視線でしどろもどろな言葉しか出てこない。

 普段からこんな視線を受け続けてるってのかよ……。


「だから、別に須凍さんとはなにかあるってわけじゃなくて……」

「はい、今日もお弁当を作ってきたわ」


 ピキ、と教室中の空気が凍り付いたのは言うまでもない。


 ……流石に空気を読め、と言いたくなった。

 それが出来てたら――“氷の一匹狼”にはなっていなかったとは思うけど。


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