福博の支配者
釜田剣之助と佐藤薫は、大名通りの辺りで岡田と合流し、スネルから教えてもらった屋敷へ向かった。流石に、県庁の前から外れると、まだまだ土の道や侘しい長屋が殆どである。
大正寺の前は、大きな広場になっており、その先に植民地風の赤煉瓦の洋館があった。その洋館の西南側に、福岡城の甍が見える。維新後、存城処分となったこの城は、第六軍官に所属し営所となっていた。
高さ八尺ほどの石塀に囲まれた洋館の正門は、南に向く形である。こういうところは清国人らしい。剣之助が、通りの日本人に尋ねてみれば、五年前、上海から大量に、人夫が木材と共にやって来て造ったのだという。
岡田は、二階建ての結構な洋館を仰ぎ見ながら、
「そろそろ行くか。そなた達、神島個人に関して、何か情報を得たか」
「特には。ただ高慢で、鼻持ちならない若い清国人であるというだけです。スネルとかいう男の話では、神島は二十五、六にしかならないと」
「左様か。弱冠なのだな」
岡田は悠然と立ち上がって言った。口調が、妙に自信に溢れていた。自分の話術に掛かれば、どんな梟雄でも手玉に取れる。岡田は、根拠を欠いた、信仰に近い自負心を持っていた。
薫は、大きな双眸を絶え間なく瞬かせ、痺れを切らしている様子。今も早口で、
「でも、そいつが福博で権力とお金を持っているのは明白ですよ。それに、もしも中で斬り合いになったら。瑞喜さんの命が」
「わしを信じろ。計画がある。誰も斬られはせん。わしらで、彼奴を魅了してやろう」
「……」
それでも薫は、愁然として剣之助を見た。剣之助は、彼に流し目を送っただけで、何も言わなかった。
三人は鉄柵で造られた正門の前に立った。そこからは、整然とした垣根や造花に彩られた中庭が見えた。中にいる警備の清国人が、訝しげな眼差しで、彼らを見ると、岡田は滔々と、
「やあ、失敬。こちらにいらっしゃる神島様と、商談のお約束があって、参りました」
「どちらさまですか?」
「そうですな……。小娘の庇護者とでも言えば、伝わるでしょうな。貴殿の親分に『逃げないで、男らしく話し合え』とでもお伝えなさい」
「あ……では、お前らがっ」
と、門番は面喰らった顔で、慌てて奥に走り出した。少しして、スナイドル銃や柳葉刀で武装した十名ほどの清国人がやって来た。招かれざる客を迎えるにしては、随分と物々しい。
清国人達は、門扉を開けると早速、眼も眩まんばかりの
―余り連携は取れていないな。
剣之助は、瞳を動かしながら、そう思った。近接武器を持った男と、銃を持った者達とは、ただ一緒にいるだけである。
動きが緩慢な銃手は、剣之助の動きに付いてはいけないだろう。下手に発砲すれば、味方を殺めるだけである。それを補うのが剣士の役目だが、どう見ても隙だらけである。
後ろの男に肘を当てれば、容易に武器を奪える。しかし、剣之助はひとまず、機を窺うことにした。
ふと、剣之助が薫を見ると、彼は癇を昂ぶらせ、今にも暴れ出しそうになっていた。眦を裂き、肩を上下させる少年を、剣之助は、それとなく制止した。
玄関から館に入ると、錦繍の絨毯が敷かれた幅の広い歩廊であった。壁には焦墨美しい山水画や瀟洒な玻璃燈が掛けられ、所々の小卓に花が生けてあった。
廊下の突き当たりには、大きな古時計があり、その横の扉が応接間に通じていた。警備兵が客間を開けると、果たして目的の人がいた。
神島は、剣之助達に背中を向けたまま、「お座りなさい」と、自分の向かい側の
「どうした? 私の顔に何か付いているか?」
榻に足を投げ出した体勢の神島は、微笑みながら言った。剣之助達が度肝を抜かれたのも無理はない。神島は、嬋娟の佳人であった。
麗しい柳眉といい、肩まで流れる黒髪の艶やかさといい、この世のものとは思えない。瑠璃より青い満州服も、彼女の妖艶さを強調していた。しかし、脂粉の中に光る黒真珠のような瞳には、不敵なものが炯々としている。
この女、
第二次長州征討の折、乙丑の獄で一時は窮地に立たされたが、藩侯の黒田長溥の肝煎りで武器弾薬を調達していたため、処罰を免れた。その後、王政復古の大号令が出され、再び勤皇党が優勢に立つと、安沐宸は功績を称えられ、神島新八という日本名を与えられた。
維新後、新八は生糸や水油、銀を扱って財を成した。三年前に、その新八が死んだので、今は娘の百合が跡目を継いでいた。
そんな神島は、一通り剣之助達を見ると、嫋やかだが、極めて冷厳な声で、
「何の用だ? 私の屋敷に約束もなしにやって来て。私も暇ではない。貴様らと違ってな」
「何故、わしらの仲間を拐かした? わしと貴女に因縁は無い筈だ。お互いにな。だが、好んで因縁を付けたいと言うのなら、決着が付くまでこの部屋が血に染まることになる」
岡田が挑発的に言うと、神島の部下達は一斉に身構えた。
剣之助は、じっと辺りを睥睨し、大まかな敵の数を予測した。一瞬、殺気と沈黙が部屋を支配した。
神島は口角を僅かに上げ、
「ほう? では、貴様らは私の町に入り込み、穢らわしい男のくせに私を挑発し、小汚い格好で私に説教するのか。そっちの役者みたいな男は、殺気を漲らせている。私は充分、貴様らに憐愍を垂れているつもりだぞ。こんな状況でも呼吸を許しているのだから」
「わしらは……ただの田舎者だ。財産といえば友人だけ。なのに、貴女はそれを連れ去った。わしらは無害だというのに」
「では、山本村の生糸と高島家の密造酒を破却し、私に大損させたのは何処の誰かな? 私は血筋こそ清国人だが、生まれも育ちも日本だ。貴様らの心底は解っているつもりだ」
神島の尋問じみた問いかけに、剣之助は、交渉決裂に備えていた。
岡田は努めて自若とし、軽妙な口調で、
「わしらは巻き込まれただけなのだ。生き残るためには、自衛もやむを得ない。小人ハ諸レヲ人ニ求ム――と云うように、貴女は、そんな愚物ではあるまい。わしらに責められる謂れはない」
「貴様は舌先三寸で私を手玉に取り、誰よりも正しいつもりでいる……気に入った! そういう者は良い」
神島はいきなり声を弾ませると、警備の者に酒を持ってくるよう命じた。口元に手を当てて笑いながら、彼女は改めて自己紹介した。
剣之助は、岡田の耳元で、
「どうしたのでしょうか? 突然」
「ふふふ。この手合の者は自分に近い者を好むのだ。わしに掛かればこんなものだ」
岡田は喉を潤すと、改めて瑞喜を帰してくれるよう頼んだ。神島は上機嫌な顔だったが、それを聞くと、一瞬、能面のような表情を見せた。
しかし、すぐに顎に手を当てて、考えるような仕草をすると、
「ふむ……。だが、誤解から飛び火したものを払っただけとはいえ、貴様らが私に大損させたのは事実だ。埋め合わせと言うわけではないが、少しばかり、私のために働いてもらいたい。よろしいか?」
岡田は快諾したが、神島の威圧的な態度に、鬱憤を溜めていた薫が立ち上がった。
彼は、戦慄く自己を鼓舞する如く、両の拳を握りしめ、
「その前に瑞喜さんに会わせるんだっ。一体、どういう扱いをしているんだっ」
「ほう? 小僧、声が震えているぞ。だが、鋭気だけは認めてやろう。名を申せ」
「薫……薫だ」
「ふふふ。薫、情況を整理してやろう。貴様と小娘が、相語る仲か姉弟かは知らんが、あれは私の手元にいる。生きるも死ぬも、全て私の胸三寸で決まる。そういう心化粧をした上で、そんな口を利いているのか?」
神島は、勝ち誇った笑みを浮かべながら言った。薫は、出端を挫かれ、あべこべに脅迫される立場になった。最早、今は神島に驥尾するより他にない。
薫を沈黙させた神島は、岡田の方に向き直り、
「実は最近、私の眼の届かぬ場所で、博打をやっている不届きな輩がいると聞いている。この福博では上納金を納め、私の許可を得た上でしか博打は許可していない」
「それは良くない。日を避ける土竜のようですな」
「そうだろうそうだろう。部下を送り込んでも、日本人以外は警戒され、すぐに察知されて逃げられてしまう。そこでだ、剣之助と小僧は顔が割れていないから、夜に潜り込んで、不埒な連中に天誅を加えてこい。一つを潰せば、他も恐れおののくだろう。岡田、貴様は留守番だ。もっと、マナアについて話がしたい」
神島は、葡萄酒を酒杯に注ぎながら言った。岡田も、取って付けたような笑い声を上げ、彼女に酒を注いでもらっている。
剣之助は、神島を睨む薫の手を引いて、針の筵にも似た部屋から脱出した。玄関で愛刀を返却された二人は、この屋敷の門がある場所に向かって歩いていった。
剣之助は、憂虞に沈んだ薫に、
「よく忍従したな。俺はお前が躍り掛かっていくのではないかと心配していたよ」
「悔しいですけど、仕方が無いですよ。……岡田さん、彼奴を利用しようとか、また何か変なこと考えてるんじゃないかな」
「最も優先するべきなのは、瑞喜君の命だ。岡田殿も、それくらいは理解している。苦渋の決断ではあるが、慴伏してくれ」
――剣之助と薫が屋敷を出て行ってから半刻経った。何一つ実りのない会話の後、岡田は小さな客間に通された。部屋から出ずとも、給仕が世話をしてくれるらしい。
彼自身は、事が上手く運んだとほくそ笑んでいるが、裏を返せば、体良く人質にされたに過ぎない。
神島の方は、岡田を軟禁しておいて、自分は私室に入った。硝子を張った窓からは、真っ赤な夕陽に映える絢爛な中庭や白い石像が見えた。視界を上げると、紅葉色に染まった鴻巣山の自然がある。
彼女は部屋の隅にある本棚の前に立ち、最も分厚い灰色の本を引き寄せた。すると、本棚がゆっくりと動き、下へ続く階段が現れた。
冥府への入り口のように、幽寂に包まれた階段を下りていくと、無機質な鉄扉があった。
神島が、重そうな扉を押し開けた先は、絹行灯の淡い光に包まれた十畳ほどの書院風の部屋であった。床には上等な畳が敷かれて、部屋の奥では香炉が焚かれ、糸よりも細い煙が縷々と立っていた。
そんな、日陰の丁子にも似る、ゆかしい香りの満ちた部屋に、一際異様な者がいた。両手両脚を縛られ、壁に大の字型に拘束された瑞喜であった。衣服を奪われ、赤裸のまま、項垂れて喪心していた。全身に、蚯蚓腫れが見受けられる。
神島は、瑞喜の頬を軽く叩くと、衰弱し顔面を蒼白させた彼女に、
「また何も食べなかったのか。もう五日になるが、いつまで、そんな強情が続くかな?」
「……殺して」
「ふふふ。私は貴様に言った筈だ。そういう生意気で意固地な小娘を屈服させるのが好きだと。兵糧攻めとか拷問も良いが、趣向を変えてみるかな」
神島は妖美な眼に燐光を宿し、瑞喜の身体をしげしげと観察した。
目の前に近付き、しゃがみ込んだり首を伸ばしたりする彼女を、瑞喜は、憎悪に満ちた眼差しで睨み据えた。
その時、何思ったか、神島百合は、いきなり、瑞喜の紅唇に自分の唇を押しつけた。
神島の十指は、瑞喜の引き締まった肢体を愉しむように、首を、胸を、腰を、内腿を、女の深部を……余す所なく撫でさすった。
瑞喜が抵抗しようとすればするほど、神島の法悦は増していった。哀れな慰み相手が、全ての筋肉を戦慄かせる抵抗感が、この無頼の清国人には堪らないらしい。
瑞喜は、なおも離れようとしない、忌まわしい唇を引き離したかった。しかし、両手両脚を拘束されているので、烈火の如き、勝気な心ばかりが胸の内で痛憤していた。
瑞喜の肢体が震え出すと、神島は指を止めた。自分だけ愉しむだけ愉しんだ後、彼女は瑞喜から離れ、恍惚に満ちた表情で、
「ふふふ。どうだ? 貴様が我を折れば、もっと素晴らしい頂点に導いてやろう。一言で良いのだぞ」
「……」
「そうか。まだ意地を張る元気があるか。それも良い。苛み甲斐があるというものだ」
神島は不気味な笑みと共に、部屋を去った。後には、屈辱と静寂のみがあった。瑞喜は、俯いたまま、暗然とした声で、
「薫……」
無意識に、呟いた。
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