商人の町

 福博は、剣之助の想像を遙かに超えて西洋都会化していた。記憶も朧げなほど昔、まだ黒田藩が健在だった頃、母親に手を取られて福岡の城下町に赴いたことがある。母親の温かい手の他に、この町で、彼の記憶にあるものは、泥濘んだ畦道のように狭い街路と、櫛比する板葺き屋根の家々であった。

 今、県庁近くの大通りは、すっかり広くなり、石畳が敷かれ、魚尾灯まで設置されている。建物も、全体で見れば和風建築が多かったが、植民地風の洋館も、行き交う異人も、珍奇なものではなくなっていた。

 異人達は騎馬が好きらしく、『沙耶』を近くに繋いできた剣之助を、悠々と追い越していく。驚いた事に、馬車まで平然と走っていた。


 ―随分、珍しいものがあるのだな。

 と、剣之助は、それを見送った。長崎や横浜は、江戸時代以来の国際貿易港なので、此処より遙かに発展しているらしいが、剣之助には、まるで異国のようで、想像も及ばなかった。

 剣之助の横を歩く薫は、別世界から来た人のように、茫然とあちこちを見廻していた。ガラガラと過ぎていく馬車は、背の低い薫が見えぬのか、彼は幾度となく撥ねられそうになった。


「矢張り、そうだったな」


 剣之助が、ぽつりと呟いた。

 徒歩の異人も乗り物にいる異人も、そして裕福そうな日本人も、示し合わせたように羅紗のドレスやフロックコート、洋帽で着飾っていた。素性も怪しげな連中が、極東という俄に露頭した金の鉱脈で荒稼ぎし、王侯貴族の真似事をしているのだ。

 誰がどんな格好をしようと、剣之助には取るに足らないことである。しかし、彼は、もう武士さむらいが不要どころか、世間にとって害悪であることを、改めて実感した。


 剣之助の前を歩いているのは、岡田である。彼は洋装しているので、格好だけはこの都会に馴染んでいた。剣之助は変わらず、黒地の武家羽織に、馬乗袴という装いである。

 剣之助は備前兼光、薫は治金丸を腰に差しているが、警官の殆どは武士階級出身だったし、まだ帯刀の意識が僅かに残っている時代なので、特に咎められることはなかった。

 岡田は歩きながら、


「見ろ、二人とも。これが文明都市だ。金の匂いが至る所からするぞ」

「それは結構ですが、絶命隊の連中は?」

「素早く動いたから、暫くは大丈夫だろう。だが、まだまだ金が必要だ。恐らく日本にいる限り、彼奴らは諦めないだろう」

「では、真にこの国を出るおつもりですか? 以前に仰っていた豪州オーストラリアとかいう場所へ」

「ウム。それには金が必要だ。案ずるな、計画は沢山ある」


 薫は、自信満々に言う岡田へ、頗る不機嫌な口調で、


「お金よりも瑞喜さんを捜しに行きますよ、僕は。稼ぎたいなら勝手にしてください」

「そう急くな。瑞喜君は何としても奪還する。お前は剣之助と一緒に、町で聞き込みをしてくれ。神島とかいう長者を探るのだ。勿論密かにだ。雑多な場所が良い。くれぐれも騒ぎを起こすなよ」

「……はい」


 雑踏に消えていく岡田を、薫は恨めしげに見送った。剣之助は何も言わず、彼の肩を叩き、岡田とは反対の方向を歩いていった。

 

 地理不案内ながらも、剣之助と薫は一際新しい巨大な洋館に入った。看板に書かれた英語を、剣之助が理解できる筈も無かったが、人が絶え間なく出入りしているので、彼は構わずに扉を開けた。

 施設の中は、広く豪奢であった。赤地の絨毯や大理石が床に敷かれ、壁には絵画や花が飾ってある。見上げてみれば、二階まで吹き抜けになった天井に、精巧な細工の為されたシャンデリアがあった。

 入り口から少し進んだ場所に受付があり、その横の通路から奥の大部屋に通じているらしい。突然、無遠慮に入ってきて、つかつかと歩み寄ってくる日本人に、受付の清国人は、顔を強張らせた。

 

「御免。ここに酒場はありますかな」

「――――?」

「何?」


 男の早口で謎の言語に、剣之助は眉宇を顰めた。不愉快というわけではなく、ひどく当惑したのである。日本語を解しない受付と、謎の言語を解しない日本人は、無益で滑稽な問答を続けた。

 すると、見かねた薫が割り込み、受付と正体不明の言語で、流暢に会話し始めた。剣之助は、そこでやっと、薫が高木に英語を学んでいたことを思い出した。謎の言語は英語だったのだ。要するに、それが喋れない剣之助は、蚊帳の外に追い払われてしまった形である。

 少しして、会話は終わった。受付の清国人は、薫から小銭を貰って、醜いお追従笑いを浮かべ、二人を奥の食堂に案内した。剣之助は、五十畳程ありそうな広々とした空間を見廻し、


「驚いたな。お前が英語を喋れるなんて。それに、どうして金など」

「僕だって、才の一つくらいありますよ。お金はチップって云うらしいですよ。手間賃のようなものです。あと、此処はホテルって云う外国人向けの旅籠です」


 薫は揚々と言った。憂愁の陰りに、自信の光が僅かに差した可愛らしい表情に、剣之助は、内心、少しとした。

 真っ白で手触りの良い布が掛けられた卓に、二人は着いた。目の前には、丁寧に折り畳まれたナプキンや装飾された食器がある。先程とは、別の清国人のボーイが注文を取りにきた。剣之助の方が年長なので、ボーイは彼に尋ねた。彼は閉口し、薫に救いを求める如く目配せした。

 薫は苦笑し、またしても英語で何か言うと、ボーイはそれを書き留めて帰っていった。


「適当に持ってくるように言いました」


 と、少年は誇らしげに言った。

 剣之助は、薫のそういった様子が、おかしくもあり、時には感心したりして、胸中、中々多忙であった。


 やがて、料理が運ばれてきた。それを見、剣之助と薫は顔を見合わせた。牛肉であった。徳川三百年の治世で、日本人は獣肉を忌避するようになっていた。


 日本で初めに獣肉が禁忌とされたのは、天武天皇がお出しになった肉食禁止の詔だと云われている。天武天皇は、仏教に深く帰依なされていたので、当然といえば当然であった。

 しかし、都から遠く離れた者、例えば板東武者は、弓矢の調練ついでに、狩りで得た肉を積極的に食べ、鋭気と膂力を養った。平家のように、都に入ると武士が弱くなるというジンクスは、こういう理由があるのかもしれない。

 しかし徳川幕府は、豊臣家を戡定した後、法度を以てこれを禁じた。仏教の思想云々ではなく、自分達の下風に立つべき者達が、肉食で強靱な身体を得ることを怖れていた。


 その法度が、泰平の内に都合良く、神道でいうと結びつき、日本人の肉食忌避という結果になった。そのくせ、魚や鳥は目溢しされていたので、存外にいい加減なものである。

 もっとも、徳川治世下であっても、猪や鹿、野犬や狼の肉は、江戸や大坂の屋で売買されていた。病人、若しくはそれを詐称する食い道楽が食べていたが、そうするときも、家にある神棚に目張りをし、使った調理器具は数日天日干しにした。

 幕末、徳川慶喜は豚肉を好み、それを秘すこともしなかった。その為、世間からは『豚一様』と呼ばれ、大奥からは醜怪人扱いされていたという。


 それほどのものだったので、剣之助達が閉口したのも無理はない。僅かに硬直していたが、剣之助は、ふと我に帰り、


「薫、神島とかいう人のことを尋いてみてくれ」

「あ、はい」


 と、薫もはッとして、ボーイに尋ねた。すると、さっきまで愛想が良かったのに、彼は途端に青ざめ、何か口走って足早に去っていった。

 薫は不思議な顔で、


「変ですね。そいつには関わるな、だなんて」

「そんなことを言われたのか?」

「ええ。悪いことは言わない、手を引きなさい――って」

「相当厄介な奴らしいな。居場所さえ解れば良いのだが」


 剣之助が腕を扼すと、彼の後ろから、日本語で呼び掛ける者がいた。振り返ってみると、金髪で背の高い中年の西洋人である。魁偉な容貌は、それだけで常人を威圧しそうであった。

 剣之助は、無感情に「何です」と応えた。西洋人は、剣之助の横に立ち、


「神島という人、私知ってますよ、お武家様」

「ほう。見え透いた小細工だが、日本語が上手いのには感心しますよ」

「疑り深いお人です。私にも利があるから、協力するのです。あの成り上がり者でしょう? 大物気取りの吊り目でしょう」

「顔も年齢も解りません。ただ、友人が攫われているので、是非ともお目に掛かりたい」

「此処ではなんです。奥の個室にいらしてください」


 と、西洋人は剣之助達を手招きした。薫は不安げな視線を剣之助に送ったが、彼は自若として西洋人に付いていった。すわやとなれば、斬る準備はできている。

 個室に入ると、西洋人は矢庭に口を開き、


「私はヘンリー・スネルという商人です。憚らずに言えば、私は神島を嫌っています」

「何故です」

「あの者が福博の貿易を独占しているからです。これからの開かれた日本に悪影響です。神島は元々、清国の商人でしたが先代が日本の名を貰い、今の代も名乗っています。維新の戦で武器弾薬を売り捌き、大儲けしました」

「……」

「それを元手に、数々の事業に手を出し、今ではこの福博の町を、裏で支配しています。警察すらも影響力を怖れて手出しできないとか」


 その後も、スネルは神島について滔々と語った。剣之助は、それを聞きながら初めて間近で見る西洋人を観察していた。


 ―俺達と何も変わらないな。

 それが、率直な感想であった。碧い瞳や、彫りの深い顔貌こそ、如何にも異人だが、その腹の内は日本人と同じであった。

 要するに、このスネルは、神島が福博での利潤を独占するのが気に食わないのだ。しかも、それが清国人であるというのが、この西洋人の自尊心を甚だしく損なっている。それを察すると、自然、剣之助の眼差しは、敵を警戒する狼の眼光から、相手を嘲るものに変わった。


 スネルは熱弁を終えると、


「いかがですか? 双方、利害が一致しています」

「と、仰いますと」

「私は商人です。人の観相を見る力に長けている。貴方が、神島を斬る。そんな気がするのです」


 スネルは、剣之助を使嗾するような口調で言った。剣之助は、その視線を冷静に躱し、


「そのつもりはありません。今のところは」

「まあ神島が斬られなかったら、そのときは私の見る目が無かったと諦めるまでです。損はありませんので。奴の居場所は舞鶴の大長寺の向かいにある豪勢な館です」

「かたじけない」


 と、剣之助は頭を下げ、それから暫く、互いに語らった後、薫を連れて外に出た。薫が、食堂の入り口付近で勘定を済ませようとすると、彼は驚いた顔で振り返り、


「もう支払われてるですって。ほら、さっきの外国人が」

「全く、おかしな男だ」


 剣之助も、思わず苦笑した。

 ホテルから出ると、剣之助は静かに、


「牛肉は焼くと美味くなるが、世の中には煮ても焼いても食えぬ奴がいるものだな」

「どうするんですか?」

「約束したわけではない。誠の約束ならば、守らなければいけないが、今は様子を見よう。まず、岡田殿と一緒に神島に会う」


 と、剣之助は普段の冷徹な仏頂面に戻り、姦しい大通りを歩いていった。

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