忍びの宿命

 墨を流したような無明の闇である。月も星も消滅したような、真の晦冥であった。偶に、稲妻が暗雲を裂き、地鳴りのような音を響かせていた。雷光によって、地形が隈取られる以外は、明かりという明かりもない。

 咫尺とて、容易に踏み得ない幽暗の中、鬱生した林を猛風が吹き抜けていた。盛んに吠え猛る林の一角の闇が、僅かに動いた。稲光に一瞬映った顔は、臈けた鼻梁に細い眼を持っていた。北村千恵である。

 忍び装束に身を包み、夜露に濡れた地面に匍匐しながら、何処へ向かっているのだろうか。


「……」


 千恵は、屍体のように身じろぎ一つせず、陰湿な空洞にも似た闇を見つめていた。

 こういう孤独で退屈な時間があるとき、普段ならば心に封じ込めて圧殺する感情に、彼女は自然と目が向いてしまう。


 ――忍びとは、何だろう。

 千恵は、そんなことを思った。

 幕府がある頃は、御庭番とか公儀隠密として、禄こそ低いが、まだ粥くらいは食めていた。しかし、幕府が戡定かんていされると、隠密としての生き方しか知らない者達は、身一つで放り出された。

 才能ある僅かな人間を除き、悉く、金禄公債という僅かな元手を与えられ、その日の米にも困る境遇に落とされたのだ。経済的困窮に関しては士族も同様だが、影に生き影に死ぬ術しか教わっていない元隠密の苦渋は、想像に絶するものがある。


「忍びなんて……」


 と、千恵は、口の裡で独りごちた。

 史上、忍びは、全ての人間に与えられた浮世の煩悩にも、出家僧じみた悟りの快楽けらくにも、自ら眼を背けた。そういう宿命だし、生まれついた境遇が、他の生き方を許さなかった。

 自ら色身をいたぶり、冷刃の一寸下に命を曝し、誰からも称讃されず、無明の闇に韜晦する。その果てに、自己の術に対する、孤独で、陰湿な法悦のみがあった。

 それ以外、忍びに生きる道はなかった。神も仏も、その鬱屈とした精神には住ましめない。


 この北村千恵も、二十五という歳になって、それを自覚していた。彼女は最近、自分の心が、ひどく疼いていると感じていた。体調が優れない日が多い所為なのか、それとも単に怯懦の念が湧いただけなのか。

 ただ、その自覚を森川幻庵に言うつもりはなかった。否、言えないという方が正しいだろう。その結果、彼女の精神は、跼蹐きょくせきで醜く、懊悩していた。


「遅くなった」


 と、闇から、虫のすだきのような声がした。姿形は一切見えないが、幻庵である。千恵の黙考は、それで中断された。

 重く、湿度を帯び始めた風の中、二人は地面に顔を付け、喉仏だけを揺らして囁き合った。素人耳には、真横を通ったとしても聞き得ない。

 幻庵は、溜息混じりに、


「矢張り、金を持っていても、平穏無事に馴れた怠惰な連中では駄目なようだ」

「そのようだね。山本家の方も、口先だけは元気な連中が多い」

「借刀殺人の形で、岡田達を始末しようと思っていたが、上手くいかないものだ」


 と、幻庵がぼやいた。頭上の闇は、彼の愚痴を嘲る如く、一層、烈風を吹き荒ばせた。

 千恵は、瞳だけを横に動かした。冥暗に馴れた忍びの眼には、孤影悄然たる幻庵の横顔が、見えすぎるほど見えていた。

 精神の虚実の、複雑な鍛冶を経た忍びは、常人のように感情を表情に顕さない。しかし今、幻庵の横顔には疲労の面影が、くっきりと浮き出ていた。


「千恵? 聞いているか?」

「えっ?」

「疲弊しているだろうが、頑張ってくれ。ここが踏ん張りどきだ」

「その台詞、何回聞いたか解らないよ」


 と、今度は千恵が痛嘆した。幻庵は、聞こえない振りをし、


「最早、遅々として進まないのはいかん。この際、彼奴らの蝙蝠仕草を山本家に密告し、一網打尽にするよう進言しよう」

「藪から棒に、どうして?」

「実はな、藤田五郎が『この際、我々に任せてはどうですか』と言って来たのだ。それも良いが、あの男は信用出来ない。だから、先ずは俺達の計画を試す」

「成功するの? 今まで何回か、間一髪で逃げられてるけど」

「案ずるな。今までは逃げ道がある場所で襲ってきたから、失敗した。今回はそれがない。それに部下も呼びつけたから、何人か忍ばせる」


 と、幻庵は語気を強めて言った。どうあっても、政商の怨みを買った岡田達を見逃すつもりは無いらしい。

 千恵は、その様子を見て、「もう辞めよう」とは言えなくなった。愁眉を閉じた沈黙の後に残るのは、悲哀に満ちた虚しさだけであった。


 幻庵は、そんな千恵の憂愁には気が付かず、ゆっくり立ち上がると、


「また連絡する」


 とだけ言い残し、次の瞬間には気配すら消えていた。後には、ただ寂寞とした晦冥が残された。

 千恵は、立ち上がれなかった。俯き加減で膝を抱え、


「この苦労の果てに、何が残るんだろう……」


 と、自問した。やがて、沛然たる雨が、周囲の葦の葉や木々に向かって降りしきり始めた。

 蕭条しょうじょうとした夜雨の中、千恵は、鉛のようになった身体を動かし得ず、背中を波打たせていた。


 不意に、彼女の聡い神経は近付いて来る気配を感じ取った。幻庵ではない異質な気配に、千恵は、さっと立ち上がった。

 千恵がいる場所の遠くから、提灯の灯りが微かに見えた。距離にすれば、大体一町ほどである。油断のない気配りで、彼女が眼を凝らすと、傘を差した痩身長躯の男であった。藤田五郎である。

 何故、彼が此処に現れたのか、千恵には理解出来なかった。五郎は、穏やかで機械的な笑みを浮かべたまま、散歩でもするような歩調でやって来た。


「やあ、奇遇ですね。偶々、近くを通り掛かったらいらっしゃったので、声を掛けました」

「嘘は辞めてください。どうして此処に?」

「ははは、バレましたか。実はお二人が心配で、こっそり様子を見ていたのです。さっきの会話も、きっと森川さんが何か釜田君たちを狩る計画を立てていたのでしょう?」


 千恵は、応えなかった。顔を背け、五郎が傾けた傘にも入らない。すると五郎は、わざとらしく錆び声の調子を弾ませて、


「そうだ。良い考えを思いつきましたよ。貴女は森川さんに危険なことは辞めて、赤貧でも良いから共に暮らしたいと思っている、違いますか?」

「……そう」

「では、こうしましょう。目の上の瘤を除く方法ですよ」


 と、五郎は千恵に何事か耳打ちした。それが終わると、千恵は、黙って頷いた。五郎は満足げに微笑んだ。

 密談が終わると、藤田五郎は去り際、


「影ながら応援しておりますよ。そうそう、お身体はお大事になさってくださいね」

「……?」


 と、千恵は怪訝な顔をしたが、五郎は何も言わず立ち去った。千恵は、その背中を見送りつつ、拳を握りしめ、


「私は、やるぞ」


 と、自分自身を激励した。

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