第8話 夕陽
本社での業務が終わり、
「旦那様、最近はお早くお帰りになりますね」
運転手の
「そうか?」
「ええ。いつもはすっかり暗くなってからでないとお出にならないのに」
言われて圭一郎は車窓から差し込む夕陽の光に気づく。
「良いことだと思いますよ。大旦那様から会社を引き継いでから働きづめでしたからね」
「うん、まあな……」
「これで大量にお仕事をお持ち帰りでなければもっといいんですけどねえ」
「それは大目に見てくれ、早川」
そういうのんびりとした会話を早川とするのも随分と久しぶりな気がする。
偏に
「お帰りなさいませ」
部屋のドアを開けると桃がいつも通りの澄ました顔で事務的に頭を下げて圭一郎を迎えた。
「……」
そういうんじゃないんだけどなあ、と心の中で独りごちる。
だが、今日も消えずに桃がそこにいたことが圭一郎にとっては喜ばしい。
「ただいま、桃」
わざと語尾に名前をつけてみる。桃はどう出るだろう。
「上着をお預かりします」
「あ、ああ……うん」
だが圭一郎の期待は外れた。
やはり長期戦になるのか。急に事態を変えようとすると、昨日のような醜態晒すことになる。
圭一郎は焦る気持ちを押し殺して、背広を脱いで桃に渡した。
桃は畏まったまま背広を受け取ってブラシをかけていく。
その姿をしばし見つめた後、圭一郎はデスクに座った。
そう言えば大叔父からの手紙をそのままにしていた。
昨夜読んではいたのだが、冷静に返事ができる精神状態ではなかったので置いておいたのだ。
仕方ない、早めに返事を書いておこうと圭一郎は改めて封筒から書状を取り出す。
「ん?」
何かおかしいと思った。
大叔父はわりとずぼらな人で、何かをやりながら手紙を書く癖がある。
昨日の手紙にもその痕跡があった。おそらく食事をしながら書いたのではないだろうか。
醤油がついた指で書状を封筒に入れたために、上部に染みがついていた。それを見て苦笑したのを覚えている。
だが、今封筒を開けるとそれがない。
念のため書状全て取り出してみると、下部にその染みが確認できた。
圭一郎には上下逆にして封筒に収めた記憶はなかった。
この違和感が正しければ、誰かが手紙を読んだ可能性がある。
ふと、昨日も万年筆に違和感があったことを思い出した。
「……」
圭一郎はそこで騒がずに、この部屋に入ることの出来る人物を思い浮かべる。
桃が背広を整え終えて、ハンガーにかけるのを眺めながら。
次の日。圭一郎は朝早くに屋敷を出て行った。
桃は今日も執務室に残されている。
とりあえず一通りの掃除を済ませると、正午が近かった。圭一郎が一晩で書類を散らかしていくからだ。
桃は音を立てずに圭一郎のデスクに近づいた。そこに「取り扱い注意」と赤字で書かれた書類が置いてある。
桃は躊躇わずにそれを広げた。小型のカメラを取り出して最初の頁を撮影する。
早くしなければ、と夢中になっていたので人の気配に気付かなかった。
「何を、している……?」
「!」
桃の目の前に、本社にいるはずの圭一郎が暗い瞳で立っていた。
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