第31話 リトル・ガール・ブルー

ぱんぱんに腫れた脳が揺れていた。

喉の奥がおろし器で擦られたみたいに、ひりひりと痙攣を起こしている。

弛緩した体は天井から糸を切られたように、そこにあるだけだ。


確かにアンソニーは秘密主義なところが多かったが、国家転覆まで考えるような人だっただろうか?わからない。

タブロイドのモットーは、少しの事実があれば購買意欲を高める内容に創作し、人々が求める解釈で物語を綴ることだ。

自分の仕事に誇りとかそういうものはなかった。でも仕事というのは、そういうものだろうと割り切って、いつのまにか感情と同化させていくものだと思う。

週末に友人と愚痴をこぼしながら、世の中に悪態をつく平和が眩しかった。


やれ不倫だ。やれ不正だと、特権階級は自分だけはバレないと思い込んでいるようだった。

そしてそれが明るみになると、なぜ皆やっているのに自分だけがという顔をする。

それを見るのがとても痛快だった。

多少事実を歪曲したところで、一度疑惑を植え付けられた者の声は、もう素直には届かない。少しでも身に覚えがある者は捏造と呵責の間で泳ぐことしかできない。

後はほっといても、前にもこんなことを言っていた。やっぱり。いつかこうなると思っていたんです。お気持ち表明リークの大合唱に飲み込まれていく。

ストーリーを盛り上げていくには、自分たちの溜飲を下げてくれるものでなければならない。そしてそれが今度は事実として一人歩きしていく。


そして今、私はこう考えている。

なんで私が……

バケツを抱えながら、またえずいた。


「だから言ったじゃないか。強くもないのにそんなアクアヴィテを呷ったら、そりゃそうなるよ」


おまえらのせいだろと、罵りたかったが口に力が入らなかった。浅い呼吸音が僅かに吐き出されただけだ。恨みがましく視線だけ彼を睨んで非難した。


「ねえ、きっともう動かないとまずいんだ。色んなことがわからないままだけど、僕らだってなにもわからないんだ。でも彼の言葉を信じるならば、今すぐにでもここを離れなければならない」


そんなことは分かりきってる。というより、もうどうでも良くなってる。だから、こちとら酒を呷っているんだろうが、どうしてそんなことも、そんなことも、このお馬鹿ちゃんはわからないのか。泣きたくなってきたと思ったら、もう泣いていた。


「おっふ、だ、だ、だ大丈夫。泣いたっていいさ。実際僕だって泣きたいぐらいだ。確かに前世の記憶があるぐらいで、僕らだって皆と一緒さ。この世界のことなんてなにも知らない。理不尽なことに巻き込まれて、往生しているだけのみっともない存在なんだ」


ばかばかばかばか。そんな言葉を聞きたいんじゃないんだよ。

なんで中身のない軽薄なフェミニストみたいに「話を聞くよ」って一言が言えないんだよ。

謝れ!肩を落として、首を垂れて、目に涙を浮かべて、嗚咽しながら地面に這いつくばって頭を埋めて謝れ!


「でも、わからないなりに、わかったこともある。なにが真実かなんてわからないということさ。彼が語った言葉も彼にとっての真実であって、私たちの真実である必要はないんだ。だからそんなの気にする必要もないし、ほら、どこか小さな街で犬を飼ったり、空を流れる雲を眺めたり、新聞に自作の詩を寄稿したりして生きていけばいいさ」


黙れよバカ!空気読めよ!なんでわかんないんだよ!

私は怒っていた。何に対してかはわからなかったが、どうしようもなく怒りが収まらなかった。

だから仕方がないのだ。その場のノリに負けてしまうことなんて世の中にありふれている。

気づいたら自分の口で彼の唇を塞いでいた。

彼は驚いていたが、やがて舌を入れてきた。

脳はまだ痺れたままだった。



「まずいまずいまずい。取材対象者とやっちゃうってどういう神経してるのよ。ばかばかばか、仕事中に私情を挟むような真似を自ら犯すなんて。うっかりもいいところよ。ああもう、くそよ、くそ。ねえ、どう思う?」


なんで、すでに自分で答えを出しているのに聞いてくるのだろうとオット少尉は思った。


「まあ、お酒の過ちなんてよくあることじゃないですか?そんなことより我々の仕事の倫理観なんて今更本当に必要なのか、もうよく分からなくなってますよ」


「ちょっと余計に混乱させるようなことを言わないでくれる?そんなに問題抱えられないの!頭痛い頭痛い。なんで分からないかなぁ」


えっ?自分で言い出したんだよね?


「ああもう嫌っ!なにが嫌ってあいつ食事の時でさえ、こっちを見ながらニヤニヤしてくるの。一度やったぐらいで自分の女気取りよ、気持ち悪い。しかもベットで小刻みにキスしてくるの。おまえは鳥獣人なのかっての」


ふむ。すげえ偏見だけど、飛び火しそうなので、もうなにも言うまい。



「とてもクリアになった気分だ。いや、もちろん何も解決はしていないさ。でも進むべき道というのかな、どこに向かっていけばいいのか一本の線が伸びているように感じるんだ。日差しを浴びて目を細めているとね、そんなに難しく考えなくていいんだぜって言われたような気がするんだよ」


ヴァレンタイン少佐は上機嫌だった。その証拠に銃の手入れをしながら歌い始めた。


〜 メルト 溶けて しまいそう 〜

〜 ふんふんふんふーふふん ふんふんふん ふーふーん 〜

〜 だけど メルト 目も合わせられない 〜

〜 恋に恋なんて しないわ わたし 〜

〜 ふんふんふーん ふんふーん ふんふんふーふ 〜

〜 好きなの 〜


なるほど。今までよく聞こえてきた、よくわからない鼻歌は少佐が前の世界にいた頃のものなのだろう。やっと得心がいった。

でも少佐、言葉は分からないけど正直おれ、なんか恥ずかしいです。


そして少佐は肩にいるミヨンと言い争いを始めたみたいなので、そっと部屋をでた。

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