一章
第1話 家出令嬢と夜の街
ルイ・ダスクローズは悩んでいた。
ひとつは、家出をしたのはいいが、泊まる宿が見付からないこと。もうひとつは、目の前の青年にお婆ちゃんと間違えられていること。
「聞いてるか、ばあちゃん?」
青年は長い前髪で顔の右側を隠しているが、美醜に疎いルイですら十分に整っていると分かった。
それに、赤い髪も赤い瞳も不純物が入っていない上質な魔石のようで、とても綺麗だった。
(自分から言うのは、気まずいよね。姿勢の良さで気付いてくれないかなあ……)
ルイはグッと背筋を伸ばしてみた。
「この通りに放っておくわけにもいかねえし……。ばあちゃん。ひとまず、向こうに行こうぜ」
また間違えられた時、ルイは自分が目深にフードを被っていることを思い出した。
外から見えるのはフードから零れ落ちる白髪の一部だけ。濃紫色のマントも質素なデザインだから間違えられても仕方ない。
「あの、私、おばあちゃんじゃないんだ」
大通りから逸れた路地に案内されたルイは気付いてもらうのを諦めて、フードを外した。
「お嬢ちゃん、かな」
ルイの長髪は魔法実験の失敗で白髪になってしまったが、元は真っ黒だった。
長年の引きこもり生活で肌色も不健康だが、皺はない。華奢なのも、ただの運動不足だ。
「なんだよ。違うのか」
青年はルイの顔を確認すると、溜め息を吐いて
「地味だけどいいマント着てるから、金持ちの迷子ばあちゃんだと思った。あーあ、親切にしてたっぷり謝礼金もらうつもりだったのに。ハアー……」
青年は小声でぶつぶつと文句を垂れる。
彼は気持ちを切り替えるように一際大きな溜め息をつくと、苦々しく謝ってきた。
「仕事の邪魔して悪かったな。それじゃあ」
「えっ? 仕事? あっ、ちょっと待ってよ!」
ルイは、そそくさと踵を返した青年を呼び止める。
青年は少し面倒そうに振り返った。
「勘違いした俺が悪いんだけど、他の客を当たってくれる? 時間取らせてほんとにごめんな」
「ええと、なにを言われてるのかよく分からないんだけど、ひとつだけ教えてくれない? 私、宿を探してて」
「だから買う気は……ん? んんっ?」
青年は言葉を止めた。
話が噛み合っていないことに気付いた青年はルイを上から下まで観察する。
「観光客、でもないよな? 身軽だし」
「違うよ」
「ここがどこか分かってるか?」
「ロードン王国ガリカ地方のダスクローズ伯爵領でしょ? 香水の名産地で、観光地としても有名な街だよ」
ルイの引きこもり歴は約十年だが、さすがに自分の家の領地は理解している。
ルイの実家――ダスクローズ伯爵家は、香水の都とうたわれるガリカ地方を統括し、三年前からは黄金庭園の管理も担っている。
ダスクローズ伯爵は多忙で、滅多に帰ってこない。
そんな父がルイに結婚話を持って帰ってきたのは今朝のこと。
「ルイ、ここから好きな結婚相手を選べ! いつまでも引きこもってないで、伯爵令嬢として幸せになるべきだ」
一方的に言われて見合い写真の束を研究書類にドサドサと重ねられたのは、いま思い出しても
(なにを考えてるんだろうなあ。私は社交界に参加したこともないんだよ? そんな世間知らずを嫁に出すなんて、伯爵家の恥でしかない!)
一族の名誉のためにも、ルイは自ら家を出てきた。
(けして、けっして結婚したら
部屋の窓から見ていた時は気付かなかったが、街の景観は随分と様変わりしていてびっくりしたが、魔法が使えるルイに不安はなかった。
ひとまずルイは夜でも明るい方向を目指してズンズンと歩き続けて――いまに至る。
「そうじゃなくて、あの通りは……ううん? もしかして、なにも知らずに突っ立ってたのか?」
青年は、ルイの返答に困惑した様子をみせる。
ルイがいたのはピンクガラスの街灯で
「今夜泊まる宿を探してたんだよ。そしたら、気さくなオジサンが私なら適当に立ってればすぐに見つかる、って親切に教えてくれて。よく分からないけど、場所代? もサービスしてくれるって言うから立ってたんだよ」
「それは親切じゃねえ……!」
説明すれば、青年から力強いツッコミを入れられる。
「あそこは娼館通りだ。お前は、なにも知らないうちに売春させられそうになってたんだよ」
「売春って……えっ? ああっ!」
ようやく腑に落ちたルイは、ポン! と手を打った。
「
「ま、待て待て待てっ! 行くなって言ってんだ!」
知的好奇心に従って走り出そうとしたルイの腕は、すぐに青年に捕まった。
「公認歓楽地とは言え、絶対に安全な保証はないんだからな」
「そうなの? ごめんなさい。私、そういうのよく知らなくて」
「世間知らずとかそういうレベルじゃないだろ。どこの箱入り娘だよ」
「うぐっ……やっぱり分かる? これでも、いいところのご令嬢なんだよね」
「まさか、家出か?」
見抜かれて、ルイはギクッと首を竦めさせる。
「家出なら帰れ」
「か、帰らないよ! これからは庶民として一人で暮らしていこうと思ってるんだから!」
「一人で? どうやって?」
「それは、そのー、これから考える予定で……」
ルイはモゴモゴと口籠る。
気まずさにいじいじと指を絡ませていると、青年が深い溜め息を吐いた。
「やっぱり帰れ。サービスで、タダで安全な場所まで送ってやるから」
「やだよ! 帰ったら結婚させら――っ⁉︎」
顔を上げたルイの言葉は途中で途切れる。
いつの間にやってきたのか、耳まで真っ赤にした酔っ払いが、なんの脈絡もなく青年の背後で酒瓶を振り上げていた。
「危ない!」
ルイは虚空から短杖を出現させ、咄嗟に魔法を行使する。
酒瓶が羊のぬいぐるみに変わり、酔っ払いはその場に崩れ落ちる。酔っ払いはフワッフワの羊を抱き枕にして寝息を立て始めた。
「は? いま、なにが起きた?」
青年は状況が読めず、困惑気味に酔っ払いとルイを交互に見やる。
「害はないよ。【たっぷり八時間安眠する魔法】だから」
「? 八時間、安眠する……ま、魔法ッ⁉︎」
「うん」
ルイが頷くと、青年は声が裏返るほど動揺した。彼は、信じられないものを見る目でルイに訊ねてくる。
「お、お前、魔法が使えるのか?」
「? 使えるよ」
「しかもこんなに正確に、一人だけを眠らせる魔法なんて……すごいな」
彼はしゃがみ込んで、イビキをかく酔っ払いを物珍しそうに観察する。
「あくまでも安眠する魔法だから騒がしくすると起きちゃうよ。お酒が入ってるし、多少は大丈夫だと思うけど」
「こんな魔法があるんだな。うわあっ、まじでしっかり寝てる」
深い感動に浸っている青年を眺めつつ、ルイは短杖をパッと消した。
魔法は空想の具現化だ。
魔法の形や効力を明白に思い描き、魔法陣という設計図に落とし込んで制御し、魔力を消費して具現化させる。
未解明な部分もまだまだ多いが、それでも学術的な分野として扱われていた。
「ちょっと失礼」
「え?」
不意に青年がスマートな動作でルイの右手をすくい上げた。
「⁉︎」
手の甲に彼の美貌が近付いてきて、驚いたルイはバッと腕を引っ込めた。
「んなっ、な、な、なに、なにぃ突然っ⁉︎ えっ、なんでっ⁉︎」
「あれ? ご令嬢っていうからそれっぽく手を取ったつもりだけど、やっぱり違ったか。悪いな、貴族の振る舞いは分かんねえや」
「わ、私も、そういうのは……! あの、だから、その、うううぅっ」
ルイは舌が回らなくなる。
ルイは社交界が苦手だ。いや、社交界どころか貴族社会そのものに苦手意識がある。だから、青年から突然それっぽい上品な手の取り方をされたルイは、拒否反応のあまりパニックになる。
「私も、貴族の振る舞いとか、すごく、に、苦手で……こ、こういうふうに、手を取られるの、慣れてないから……驚いて……そのっ」
「あー、確かにご令嬢にしては、あれな感じだな」
「うううぅっ、びっくりした……びっくりしたぁ……」
ルイは手の甲を何度も撫で、はわはわと視線を泳がせる。
あまりの挙動不審っぷりに、青年が申し訳なさそうに眉を下げた。
「驚かせて悪かったな。ちょっと確認したかっただけだ」
「か、確認ってなんの?」
「魔法師かどうか」
「いまので分かるの⁉︎」
「魔法師の身に付ける香水は普通とは違うだろ? 香りで分かるんだよ」
「あっ、そういうことか」
国が定めた魔法試験に合格した者は魔法師と呼ばれて、魔力のこもった香水を授与される。
青年の行動の意味を理解してルイは納得し、落ち着いた。
「いいな、魔法。ここってさ、いまみたいに理由もなく喧嘩ふっかけてくる輩が多いんだよ」
「それで、そんなに驚いてなかったんだね」
「
青年は悪巧みでも企てるように声を潜めた。
「もしよければ、俺に魔法を教えてほしいんだけど」
青年は媚を売る笑顔でお願いをしてきた。
「魔法師じゃなくても、魔法がひとつふたつ使えるだけで優先的に雇ってもらえるんだよ。酔っ払いの多い娼館通りじゃ、特定の奴を無力化する魔法は最高に金にな――じゃくて、みんなに好まれるからさ」
青年は演技掛かった身振り手振りでルイに説明する。
「私の魔法が知りたいの?」
「さすがに無理か? まあ、魔法を簡単に教えてもらえるわけないよな」
「そんなことないよ! いいよ、教えてあげる!」
「はい?」
意欲的なルイに、言い出した青年のほうが面食らう。
「冗談だって。魔法を教わるなんて、一体いくらかかるか……。俺にそんな大金は出せねえよ」
「お金? お金は必要ないよ」
「それって、魔法をタダで教えてくれるってことか⁉︎」
「当たり前だよ!」
「ええぇ……」
青年はひどく困惑する。彼はルイに若干引き気味の視線を向けた。
「ま、魔法の知識ってすごいんだろ? それを惜しげもなく無料で教えるとか。えっ、こわっ……」
「だって、私の魔法に興味を持ってもらえるなんて、すごく嬉しいから!」
ルイは国で十三人しかいない魔法師のトップ――特級魔法師の一人だ。実存する魔法を知り尽くしたルイは〈ゼロの魔女〉の称号を賜っている。
そんな〈ゼロの魔女〉の評価は、魔法師の間ではよくなかった。
すべての魔法を知るルイはまだ見ぬ魔法を求めて
魔法の伝統と格式を軽んじている――と。
だから、ルイは青年が自分の魔法に興味を持ってくれたのが嬉しかった。
「あっ、でも構築術式を書くものがない! この場で魔法陣を出しちゃってもいいけど……そうだ! 私は使ってないんだけど、先に呪文を教えてあげる! イメージしやすいだろうし、あとから術式に組み直せばいいからね! 呪文は――もがっ」
喜びのあまり鼻息荒く説明するルイだったが、突然青年に口を塞がれた。
青年は、なぜか若干青ざめていた。
「強制的に他人を眠らせる魔法を簡単に教えるな! 誰かに聞かれて悪用されたらどうするんだ⁉︎」
「?」
ルイはすぐに青年の大きな手を引き剥がし、異議を申し立てる。
「……ぷはっ! さっきも言ったけど、この魔法は騒がしくすると起きるから悪用できないよ」
「十分にできる。手癖の悪い奴らを舐めるなよ。完全に意識を飛ばさなくても、少しの隙さえあればやってのけるぞ」
「完全に意識を飛ばすなら【たっぷり八時間安眠する魔法】じゃなくて【なにがあっても朝まで起きない魔法】のほうが、っむごご!」
「まじで一回黙ってくれる⁉︎」
先程よりも力強く口を塞がれるルイ。
青年は冷や汗を滲ませて周りを見渡す。大通りから、何人かが何事かとこちらを覗き見ていた。
「ひとまず、ここを離れるぞ」
「? う、うん」
青年はルイの腕を引いて強引に娼館通りから離れた。
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